変な軍師
夜、食事へ出かける前に、日御子は念のため財布の中身を確かめた。
「…………?」
銅貨を一枚ずつ取り出し、机の上へ並べていく。全て数え終えたところで、日御子は首を傾げた。
もう一度、最初から数え直す。
何度確かめても、財布に残っているのは今夜の宿代と同額だった。
「……そんな馬鹿な」
宿代を払えば、財布の中は空になる。
「ご飯代がありませんの……」
肩の上で黒猫が小さく鳴いた。
「他人事ではありませんの。あなたのご飯代もないんですよ?」
「にゃあ」
黒猫は少しも困っていない様子だった。
日御子はしばらく考え込み、やがて何かを思いついたように顔を上げた。
◇
「少し相談がありますの」
帳場にいた宿屋の主人が、面倒そうに顔を上げた。
「何だ?」
「宿代を、少しだけお安くしていただけませんか?」
「ならねぇな」
即答だった。
交渉の余地すら感じさせない返事に、日御子は僅かに怯んだ。それでも諦めず、次の案を口にする。
「でしたら、一泊分働きますの」
主人は腕を組み、値踏みするように日御子を眺めた。
「何ができる?」
待っていましたとばかりに、日御子は胸を張った。
「私は一流の軍師ですの」
「いらねぇ」
「…………え?」
数秒の沈黙が流れた。
日御子は胸を張った姿勢のまま固まっていたが、やがて小さく肩を落とした。
「……では、皿洗いをしますの」
「最初からそう言え」
◇
「終わりましたの」
最後の一枚を布で拭き終え、日御子はほっと息を吐いた。
慣れない仕事に手間取ったものの、洗い終えた皿は大きさごとに分け、綺麗に積み上げてある。宿屋の主人は皿を一枚ずつ確かめると、感心したように頷いた。
「初めてにしちゃ上出来だな。これで今夜の宿代は払ったことにしてやる」
主人はさらに銅貨を一枚取り出し、日御子へ差し出した。
「仕事が丁寧だったから、少し色をつけておいたぞ」
「本当ですの?」
日御子の顔が、ぱっと明るくなった。
「ありがとうございますの!」
受け取った銅貨を大切そうに財布へしまう。その様子を見ていた黒猫が、呆れたように「にゃあ」と鳴いた。
「今日は少しだけ贅沢できますの」
日御子は嬉しそうな足取りで宿を出て、夜の屋台通りへ向かった。
「それにしても、生きるとはお金がかかりますの……」
肩の上で、黒猫が大きな欠伸をする。
「少しは同情してほしいですの」
「にゃ」
全く同情していない声だった。
革命軍を率いていた頃は、補給も会計も担当者に任せ、日御子は戦況と作戦だけを考えていればよかった。だが、今は何もかも自分でやらなければならない。そして日御子は、その手の能力が壊滅的だった。
「軍を動かす方が簡単ですの……」
黒猫が、呆れたように尻尾を振った。
◇
夜の屋台通りには、酒を酌み交わす音、肉や魚が焼ける香ばしい匂い、客を呼び込む威勢のいい声が満ちていた。あちこちから笑い声が上がり、通り全体が祭りのような熱気に包まれている。
その中に、明らかに様子のおかしい男がいた。
立ったまま眠っている。
正確には、立ったまま食事をしながら眠っていた。
(……ん?)
日御子は思わず二度見した。
男は片手に料理の載った木皿を持ち、もう片方の腕で大量の書類を抱えている。両目は完全に閉じているにもかかわらず、手だけがゆっくりと動き、料理を口へ運んでいた。
もぐ、と一度だけ咀嚼する。
動きが止まり、男の首が前へ落ちた。
「寝ましたの……」
そのまま眠り込んだかと思った数秒後、男の口が再び動いた。
「補給路は三本……いや、一本を囮に……」
「橋を落とせば、敵は北へ回る……そこを……」
寝言らしい。
日御子は僅かに身を引いた。
(この人、夢の中でも働いていますの……)
やがて男の身体が、ゆっくりと横へ傾き始めた。
「危ないですの!」
日御子が思わず駆け寄る。
だが、倒れる寸前で男は無意識に足を踏み出し、自力で体勢を立て直した。
近くで見ると、男の目の下には濃い隈があり、髪も酷く乱れている。抱えている書類には、地形や兵数、補給量を踏まえた進軍経路が何通りも書き込まれていた。乱雑ではあるが、内容は筋が通っている。どうやら、何日もまともに眠らず考え続けていたらしい。
「何をしていますの?」
日御子が尋ねると、男はゆっくりと目を開いた。
「食事ですね……たぶん」
「たぶん?」
「ここへ来るまでの記憶が、あまりありません」
「覚えていませんの?」
「はい」
あまりにも平然と答える男に、日御子は言葉を失った。
その時、屋台の主人が声を張り上げた。
「おい、兄ちゃん!」
男が緩慢な動きで振り返る。
「はい?」
「食べ終わったなら、代金を払ってもらおうか」
男の動きが止まった。
数秒考えた後、不思議そうに首を傾げる。
「払いましたよね?」
「払ってねぇよ!」
「そうでしたか」
怒鳴られて、ようやく状況を理解したらしい。
◇
男は代金を払おうと懐へ手を入れた。
右のポケット。
左のポケット。
内側のポケット。
抱えていた書類の間。
挙げ句の果てには、なぜか靴の中まで確認する。
しかし、財布はどこからも出てこなかった。
「おかしいですね」
「何がおかしいですの」
「確かに財布を持っていたはずなのですが」
「どこかで失くしたんじゃありませんの?」
「一体どこで失くしたのでしょう?」
「私に聞かれても知りませんの」
「私も分かりません」
日御子は、目の前の男をじっと見つめた。
(この人は……駄目な人ですの)
しかし、代金を払えないまま放っておくわけにもいかない。日御子は小さく息を吐き、自分の財布へ手を伸ばした。
その時、離れた通りから女性の絶叫が響いた。
「ポリアンナさーーーーん!!」
宿で聞いたのと同じ声だった。
ポリアンナと呼ばれた男は肩を跳ねさせ、顔を引きつらせながら振り返った。
人混みの向こうから、一人の女性が全力で走ってくる。その顔には笑みが浮かんでいた。
だが、怖い。
笑っているのに、凄まじい圧を放っている。
「見つけました!」
女性の姿を認めた瞬間、眠そうだったポリアンナの目が大きく開いた。
「さ、さささ咲夜姫?」
「お、おはようございます!」
「夜です」
「失礼しました!」
咲夜姫は足を止めると、懐から一枚の紙を取り出した。
「本日の睡眠時間」
ポリアンナが、そっと目を逸らす。
「一時間十二分」
咲夜姫は紙をめくった。
「食事回数」
ポリアンナは、さらに顔を背ける。
「一回」
もう一枚めくられる。
「最後の入浴」
ポリアンナは答えなかった。
「三日前」
「ごめんなさい」
即座に謝罪した。
しかし、咲夜姫の追及は終わらない。
「財布」
ポリアンナの身体が硬直した。
「どこにありますか?」
「…………」
「ポリアンナさん?」
「たぶん」
その一言だけで、嫌な予感しかしなかった。
「行方不明になりました」
咲夜姫は深々とため息をついた。
「やっぱりですか」
そう言って懐から取り出したのは、一つの財布だった。
「探しているのは、こちらですね?」
「あ」
ポリアンナが目を丸くする。
「いつの間に……」
「本部を出る時、机の上へ置きっぱなしにしていました」
「またですか?」
「……またです」
「途中で気付いて届けようと思ったのですが、ポリアンナさんまで行方不明になっていました」
「助かりました」
「助かっていません」
咲夜姫は間髪を入れずに言い返した。
「財布がなければ、ご飯も食べられなかったじゃないですか」
「確かに」
「納得しないでください」
咲夜姫は財布から代金を取り出し、待っていた屋台の主人へ渡した。
「お待たせしました」
「毎度。あんたも大変だな」
主人は苦笑しながら代金を受け取った。
咲夜姫はポリアンナへ向き直る。
「では、帰りますよ」
「待ってください。まだ報告書が――」
「帰ります」
「ですが」
「帰ります!」
「……はい」
ポリアンナは、おとなしく咲夜姫に従った。
◇
日御子は、遠ざかっていく二人を呆然と見送った。
(変な人ですの……)
あれほど生活能力の低い人間を見たのは初めてだった。
(元王女であり、稀代の天才軍師でもある私が言うのですから、間違いありませんの)
そこまで考えたところで、日御子ははっとした。
(……いえ)
つい先ほど、自分も宿代を値切ろうとし、夕食代を得るために皿を洗ったばかりだった。
(私も、人のことを言える立場ではありませんでしたの……)
見事なまでに、自分へ返ってきていた。
黒猫はそんな日御子を気にすることなく、去っていくポリアンナの背中をじっと見つめていた。
◇
不意に、黒猫の耳がぴくりと動いた。
次の瞬間、その全身の毛が一斉に逆立つ。
「……え?」
日御子が眉をひそめる。
黒猫は通りの一角を睨み、低く唸っていた。
「フゥゥゥ……」
日御子の表情から、先ほどまでの笑みが消えた。
この黒猫が、ここまで露骨に何かを警戒することは滅多にない。
日御子は無意識に周囲へ目を走らせた。
明かりの灯る屋台。酒を飲む客。通りを行き交う人々。立ち並ぶ宿屋。
見える範囲に、不審な者はいない。それでも、何か良くないものが近づいている。根拠はないのに、そう思えてならなかった。
乾いた夜風が、賑わう通りを吹き抜ける。
黒猫は暗がりを睨んだまま、なおも低く唸り続けていた。
【第五話 異能殺し】へ続く




