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変な軍師

夜。


食事に出かける前に。


念のため。


日御子は財布の中を覗き込んだ。


宿代ぴったりだった。


「…………?」


もう一度数える。


やっぱり宿代分しかなかった。


「……そんな馬鹿な」


「……ご飯代がありませんの」


肩の上で黒猫が小さく鳴く。


「他人事ではありませんの」


今日の夕食代がない。


日御子はしばらく考え込む。


そして。


何か閃いたように頷いた。



「少し相談がありますの」


帳場にいた宿屋の主人が顔を上げる。


「何だ?」


「宿代を少しだけお安くしていただけませんか?」


「ならねぇな」


即答だった。


「では、一泊分働きますの」


主人は腕を組む。


「何ができる?」


日御子は胸を張って答えた。


「私は一流の軍師ですの」


「いらねぇ」


「…………え?」


数秒の沈黙。


「……では皿洗いですの」


「最初からそう言え」



「終わりましたの」


最後の一枚を拭き終え、日御子はほっと息をつく。


主人は並べられた皿を一枚ずつ見回した。


「初めてにしちゃ上出来だな」


銅貨を一枚取り出す。


「色つけといたぞ」


「本当ですの?」


日御子の顔がぱっと明るくなる。


受け取った銅貨を大切そうに財布にしまった。


「今日は少しだけ贅沢できますの」


黒猫が呆れたように「にゃあ」と鳴いた。


日御子は嬉しそうな足取りで夜の屋台通りへ向かった。


「それにしても」


「生きるとはお金がかかりますの……」


肩の上の黒猫が欠伸をした。


まるで他人事だった。


「少しは同情してほしいですの」


「にゃ」


全く同情していない声だった。


日御子はため息を吐く。


革命軍を率いていた頃は、金の心配などしたことがなかった。


補給担当がいた。


会計担当もいた。


だが今は違う。


全部自分でやらなければならない。


が。


日御子はその手の能力が壊滅的だった。


「軍を動かす方が簡単ですの……」


黒猫が呆れたように尻尾を振った。



屋台通りは賑わっていた。


酒。


肉。


焼き魚。


香ばしい匂いが辺りを満たす。


威勢のいい声。


弾む笑い声。


乾杯の音。


祭りのような熱気が、通りを包んでいた。


その中で。


明らかに様子のおかしい男がいた。


立ったまま眠っていた。


正確には。


立ったままご飯を食べながら眠っていた。


(……ん?)


日御子は二度見した。


思わず立ち止まる。


男は片手に木皿。


もう片方には大量の書類。


目は閉じている。


完全に閉じている。


だが。


なぜかご飯だけは口へ運ばれていた。


もぐ。


咀嚼。


停止。


首が落ちる。


寝た。


「寝ましたの」


数秒後。


男が寝言のように呟く。


「補給路は三本……」


「いや二本で足りるか……」


「橋を落として……」


日御子は少し引いた。


「……この人、夢の中でも働いてますの」



男の身体がふらりと傾く。


「危ないですの」


日御子は思わず駆け寄った。


男はそのまま体勢を立て直す。


よく見ると。


男の目の下には濃い隈。


髪も乱れている。


きっと何日もまともに寝ていないのだろう。


「何をしていますの?」


男はゆっくり顔を上げた。


「食事ですね……たぶん」


「たぶん?」


「よく覚えていません」


「覚えていませんの?」


日御子は困惑した。


次の瞬間。


屋台の主人が怒鳴る。


「おい兄ちゃん!」


男が振り返る。


「はい?」


「代金払ってもらおうか」


男が固まる。


数秒。


そして。


「払いましたよね?」


「払ってねぇ!」


「そうでしたか」


理解したようだ。



男は懐を探る。


右。


左。


内ポケット。


書類の間。


なぜか靴。


何も出てこない。


「おかしいですね」


「何がおかしいですの」


「財布を持っていたはずなのですが」


「失くしたんじゃありませんの?」


「一体どこで失くしたのでしょう?」


「知りませんの」


「私もです」


日御子は確信した。


(この人は駄目な人だ)



不意に。


遠くから絶叫が響く。


「ポリアンナさーーーーん!!」


さっき聞いた声だった。


呼ばれた男の肩がびくりと跳ねた。


そして固まった。



全力疾走で女性が走ってくる。


笑顔だった。


だが怖い。


圧がすごい。


「見つけました!!」


ポリアンナーーそう呼ばれた男の顔色が変わる。


「さささ咲夜姫?」


次の瞬間。


完全覚醒。


「お、おはようございます!」


「夜です」


「失礼しました!」


咲夜姫は紙を取り出した。


「本日の睡眠時間」


ポリアンナが目を逸らす。


「一時間十二分」


紙をめくる。


「食事回数」


ポリアンナはさらに目を逸らした。


「一回」


まためくる。


「最後の入浴」


沈黙。


「三日前」


「ごめんなさい」


即座に謝罪した。


だが追撃は終わらない。


「財布」


ポリアンナが硬直する。


「どこですか?」


「……」


「ポリアンナさん?」


「たぶん」


嫌な予感しかしない。


「行方不明になりました」


咲夜姫は大きくため息をついた。


「やっぱりですか」


そう言うと、懐から見覚えのある財布を取り出す。


「こちらですね」


「あ」


ポリアンナが目を丸くする。


「いつの間に……」


「本部を出る時、机の上へ置きっぱなしでした」


「またですか?」


「……またです」


「途中で届けようと思って探していたんです」


「助かりました」


「助かっていません」


即座に答えた。


「財布が無ければ、ご飯も食べられなかったじゃないですか」


「確かに」


「納得しないでください」


咲夜姫は財布から代金を取り出し、屋台の主人へ渡す。


「お待たせしました」


「毎度」


主人は苦笑しながら受け取った。


「では帰りますよ」


「待ってください」


「帰ります」


「報告書が」


「帰ります!」


完全敗北だった。



ポリアンナがふと立ち止まった。


視線が黒猫へ向く。


「……?」


なぜか既視感を覚えた。


どこかで見た気がする。


だが思い出せない。


気のせいだろうか。


ポリアンナは小さく首を振った。


次に日御子を見る。


「何ですの?」


「いえ」


少し困ったように笑う。


「どこかで会った気がしまして」


「初対面ですの」


「そうですよね」


結局。


何を思い出しかけたのかは分からなかった。


咲夜姫がポリアンナの肩を掴む。


「では行きます」


「はい」


ずるずると連行されていく。



日御子はぽかんと見送った。


(変な人ですの)


革命軍の軍師だった自分でも理解できない。


あそこまで生活能力の低い人間を初めて見た。


(元王女で、稀代の天才軍師の私が言うのだから、間違いありませんの)


日御子はハッとする。


(……いえ)


(そういえば数時間前、皿を洗ってお夕飯代を稼いだ気がしますの)


(言える立場ではなかったです)


盛大なブーメランだった。


黒猫は、なぜか去っていくポリアンナの背中をじっと見ていた。



その時。


黒猫の耳がぴくりと動く。


次の瞬間。


全身の毛が逆立った。


「……え?」


日御子は眉をひそめる。


黒猫は低く唸っていた。


「フゥゥゥ……」


(珍しい)


この黒猫がここまで警戒することはない。


日御子は無意識に周囲を見回した。


屋台。


通行人。


宿屋。


不審な動きは見当たらない。


だが、なぜだろう。


胸の奥がざわついた。


嫌な予感がする。


理由は分からない。


ただ。


何か良くないものが近づいている気がした。


夜風が吹く。


黒猫はなおも唸り続けていた。



【第五話 異能殺し】へ続く


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