↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/70

変な軍師

 夜、食事へ出かける前に、日御子は念のため財布の中身を確かめた。


「…………?」


 銅貨を一枚ずつ取り出し、机の上へ並べていく。全て数え終えたところで、日御子は首を傾げた。


 もう一度、最初から数え直す。


 何度確かめても、財布に残っているのは今夜の宿代と同額だった。


「……そんな馬鹿な」


 宿代を払えば、財布の中は空になる。


「ご飯代がありませんの……」


 肩の上で黒猫が小さく鳴いた。


「他人事ではありませんの。あなたのご飯代もないんですよ?」


「にゃあ」


 黒猫は少しも困っていない様子だった。


 日御子はしばらく考え込み、やがて何かを思いついたように顔を上げた。



「少し相談がありますの」


 帳場にいた宿屋の主人が、面倒そうに顔を上げた。


「何だ?」


「宿代を、少しだけお安くしていただけませんか?」


「ならねぇな」


 即答だった。


 交渉の余地すら感じさせない返事に、日御子は僅かに怯んだ。それでも諦めず、次の案を口にする。


「でしたら、一泊分働きますの」


 主人は腕を組み、値踏みするように日御子を眺めた。


「何ができる?」


 待っていましたとばかりに、日御子は胸を張った。


「私は一流の軍師ですの」


「いらねぇ」


「…………え?」


 数秒の沈黙が流れた。


 日御子は胸を張った姿勢のまま固まっていたが、やがて小さく肩を落とした。


「……では、皿洗いをしますの」


「最初からそう言え」



「終わりましたの」


 最後の一枚を布で拭き終え、日御子はほっと息を吐いた。


 慣れない仕事に手間取ったものの、洗い終えた皿は大きさごとに分け、綺麗に積み上げてある。宿屋の主人は皿を一枚ずつ確かめると、感心したように頷いた。


「初めてにしちゃ上出来だな。これで今夜の宿代は払ったことにしてやる」


 主人はさらに銅貨を一枚取り出し、日御子へ差し出した。


「仕事が丁寧だったから、少し色をつけておいたぞ」


「本当ですの?」


 日御子の顔が、ぱっと明るくなった。


「ありがとうございますの!」


 受け取った銅貨を大切そうに財布へしまう。その様子を見ていた黒猫が、呆れたように「にゃあ」と鳴いた。


「今日は少しだけ贅沢できますの」


 日御子は嬉しそうな足取りで宿を出て、夜の屋台通りへ向かった。


「それにしても、生きるとはお金がかかりますの……」


 肩の上で、黒猫が大きな欠伸をする。


「少しは同情してほしいですの」


「にゃ」


 全く同情していない声だった。


 革命軍を率いていた頃は、補給も会計も担当者に任せ、日御子は戦況と作戦だけを考えていればよかった。だが、今は何もかも自分でやらなければならない。そして日御子は、その手の能力が壊滅的だった。


「軍を動かす方が簡単ですの……」


 黒猫が、呆れたように尻尾を振った。



 夜の屋台通りには、酒を酌み交わす音、肉や魚が焼ける香ばしい匂い、客を呼び込む威勢のいい声が満ちていた。あちこちから笑い声が上がり、通り全体が祭りのような熱気に包まれている。


 その中に、明らかに様子のおかしい男がいた。


 立ったまま眠っている。


 正確には、立ったまま食事をしながら眠っていた。


(……ん?)


 日御子は思わず二度見した。


 男は片手に料理の載った木皿を持ち、もう片方の腕で大量の書類を抱えている。両目は完全に閉じているにもかかわらず、手だけがゆっくりと動き、料理を口へ運んでいた。


 もぐ、と一度だけ咀嚼する。


 動きが止まり、男の首が前へ落ちた。


「寝ましたの……」


 そのまま眠り込んだかと思った数秒後、男の口が再び動いた。


「補給路は三本……いや、一本を囮に……」


「橋を落とせば、敵は北へ回る……そこを……」


 寝言らしい。


 日御子は僅かに身を引いた。


(この人、夢の中でも働いていますの……)


 やがて男の身体が、ゆっくりと横へ傾き始めた。


「危ないですの!」


 日御子が思わず駆け寄る。


 だが、倒れる寸前で男は無意識に足を踏み出し、自力で体勢を立て直した。


 近くで見ると、男の目の下には濃い隈があり、髪も酷く乱れている。抱えている書類には、地形や兵数、補給量を踏まえた進軍経路が何通りも書き込まれていた。乱雑ではあるが、内容は筋が通っている。どうやら、何日もまともに眠らず考え続けていたらしい。


「何をしていますの?」


 日御子が尋ねると、男はゆっくりと目を開いた。


「食事ですね……たぶん」


「たぶん?」


「ここへ来るまでの記憶が、あまりありません」


「覚えていませんの?」


「はい」


 あまりにも平然と答える男に、日御子は言葉を失った。


 その時、屋台の主人が声を張り上げた。


「おい、兄ちゃん!」


 男が緩慢な動きで振り返る。


「はい?」


「食べ終わったなら、代金を払ってもらおうか」


 男の動きが止まった。


 数秒考えた後、不思議そうに首を傾げる。


「払いましたよね?」


「払ってねぇよ!」


「そうでしたか」


 怒鳴られて、ようやく状況を理解したらしい。



 男は代金を払おうと懐へ手を入れた。


 右のポケット。


 左のポケット。


 内側のポケット。


 抱えていた書類の間。


 挙げ句の果てには、なぜか靴の中まで確認する。


 しかし、財布はどこからも出てこなかった。


「おかしいですね」


「何がおかしいですの」


「確かに財布を持っていたはずなのですが」


「どこかで失くしたんじゃありませんの?」


「一体どこで失くしたのでしょう?」


「私に聞かれても知りませんの」


「私も分かりません」


 日御子は、目の前の男をじっと見つめた。


(この人は……駄目な人ですの)


 しかし、代金を払えないまま放っておくわけにもいかない。日御子は小さく息を吐き、自分の財布へ手を伸ばした。


 その時、離れた通りから女性の絶叫が響いた。


「ポリアンナさーーーーん!!」


 宿で聞いたのと同じ声だった。


 ポリアンナと呼ばれた男は肩を跳ねさせ、顔を引きつらせながら振り返った。


 人混みの向こうから、一人の女性が全力で走ってくる。その顔には笑みが浮かんでいた。


 だが、怖い。


 笑っているのに、凄まじい圧を放っている。


「見つけました!」


 女性の姿を認めた瞬間、眠そうだったポリアンナの目が大きく開いた。


「さ、さささ咲夜姫?」


「お、おはようございます!」


「夜です」


「失礼しました!」


 咲夜姫は足を止めると、懐から一枚の紙を取り出した。


「本日の睡眠時間」


 ポリアンナが、そっと目を逸らす。


「一時間十二分」


 咲夜姫は紙をめくった。


「食事回数」


 ポリアンナは、さらに顔を背ける。


「一回」


 もう一枚めくられる。


「最後の入浴」


 ポリアンナは答えなかった。


「三日前」


「ごめんなさい」


 即座に謝罪した。


 しかし、咲夜姫の追及は終わらない。


「財布」


 ポリアンナの身体が硬直した。


「どこにありますか?」


「…………」


「ポリアンナさん?」


「たぶん」


 その一言だけで、嫌な予感しかしなかった。


「行方不明になりました」


 咲夜姫は深々とため息をついた。


「やっぱりですか」


 そう言って懐から取り出したのは、一つの財布だった。


「探しているのは、こちらですね?」


「あ」


 ポリアンナが目を丸くする。


「いつの間に……」


「本部を出る時、机の上へ置きっぱなしにしていました」


「またですか?」


「……またです」


「途中で気付いて届けようと思ったのですが、ポリアンナさんまで行方不明になっていました」


「助かりました」


「助かっていません」


 咲夜姫は間髪を入れずに言い返した。


「財布がなければ、ご飯も食べられなかったじゃないですか」


「確かに」


「納得しないでください」


 咲夜姫は財布から代金を取り出し、待っていた屋台の主人へ渡した。


「お待たせしました」


「毎度。あんたも大変だな」


 主人は苦笑しながら代金を受け取った。


 咲夜姫はポリアンナへ向き直る。


「では、帰りますよ」


「待ってください。まだ報告書が――」


「帰ります」


「ですが」


「帰ります!」


「……はい」


 ポリアンナは、おとなしく咲夜姫に従った。



 日御子は、遠ざかっていく二人を呆然と見送った。


(変な人ですの……)


 あれほど生活能力の低い人間を見たのは初めてだった。


(元王女であり、稀代の天才軍師でもある私が言うのですから、間違いありませんの)


 そこまで考えたところで、日御子ははっとした。


(……いえ)


 つい先ほど、自分も宿代を値切ろうとし、夕食代を得るために皿を洗ったばかりだった。


(私も、人のことを言える立場ではありませんでしたの……)


 見事なまでに、自分へ返ってきていた。


 黒猫はそんな日御子を気にすることなく、去っていくポリアンナの背中をじっと見つめていた。



 不意に、黒猫の耳がぴくりと動いた。


 次の瞬間、その全身の毛が一斉に逆立つ。


「……え?」


 日御子が眉をひそめる。


 黒猫は通りの一角を睨み、低く唸っていた。


「フゥゥゥ……」


 日御子の表情から、先ほどまでの笑みが消えた。


 この黒猫が、ここまで露骨に何かを警戒することは滅多にない。


 日御子は無意識に周囲へ目を走らせた。


 明かりの灯る屋台。酒を飲む客。通りを行き交う人々。立ち並ぶ宿屋。


 見える範囲に、不審な者はいない。それでも、何か良くないものが近づいている。根拠はないのに、そう思えてならなかった。


 乾いた夜風が、賑わう通りを吹き抜ける。


 黒猫は暗がりを睨んだまま、なおも低く唸り続けていた。



【第五話 異能殺し】へ続く


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。