追われる王女
ヒュッ。
短剣が風を裂く。
日御子は身体を傾けるだけで避けた。
(……また刺客ですの)
瞳が淡く光る。
「《王域》」
路地裏に潜む気配を捉える。
「そこですの」
一歩踏み込み、峰打ちを叩き込む。
鈍い音。
数秒後。
日御子は気を失った男を引きずって戻ってきた。
黒猫は何事もなかったかのように日御子の肩に飛び乗った。
「おかえりですの」
日御子は軽く微笑んだ。
◇
王を討ってから一ヶ月。
革命は成功した。
新しい統治機構も作られた。
少なくとも。
日御子はそう信じていた。
そして旅に出た。
それでも。
胸の重さだけは消えなかった。
夜になると。
あの日を思い出す。
父の顔。
剣の感触。
血の色。
何度忘れようとしても。
夢に出てくる。
だから。
命を狙われながら。
普通ではない旅を続ける。
歩いている間だけは。
少しだけ考えなくて済むから。
◇
乾いた風が吹く。
砂漠の縁に築かれた街道を、日御子はのんびりと歩いていた。
「慣れとは恐ろしいものですの」
そう言いながら焼き芋を食べる。
肩の上では黒猫が退屈そうに欠伸をしていた。
三日前は毒。
先週は夜襲。
その前は崖から突き落とされかけた。
革命というものは、終わった後の方が面倒なのかもしれない。
思い返すだけで頭が痛い。
いや。
実際に痛かった。
「そろそろ落ち着いて旅をしたいですの」
街へ入る度に。
最初に確認するのは逃げ道だった。
こんなものは旅とは呼べない。
「にゃあ」
黒猫が同意するように鳴く。
日御子は思わず笑った。
革命軍を率いていた頃は、こんな風に笑う余裕もなかった。
毎日が決断だった。
間違えれば人が死ぬ。
そんな日々だった。
だからだろうか。
今は少しだけ肩の力が抜けていた。
もちろん命は狙われている。
だが背負うのは自分一人だけだ。
「考えてみれば」
日御子は焼き芋を頬ばる。
「昔からこうでしたの」
黒猫がこちらを見る。
「地図ばかり眺めて怒られて」
「城を抜け出して怒られて」
「お菓子を隠して怒られて」
「にゃあ」
「最後のは納得いきませんの」
黒猫は呆れたように尻尾を振った。
日御子は頬が自然と緩んだ。
その顔は革命軍の指導者ではない。
ただの少女だった。
(そういえば)
(◯◯◯には何も言わずに出てきてしまった)
(そのうち会えると思っていたけれど)
(気付けば国を出ていた)
(いつか会えたら、ちゃんとお礼を言わないといけませんの)
そんな事をぼんやりと考えていた。
◇
オアシスを中心に広がる市場は活気に満ちていた。
水の貴重な土地とは思えないほど、商人たちの声が飛び交っている。
屋台の前を通りかかる。
香ばしい匂い。
甘い匂い。
焼きたてのパン。
串焼き。
日御子のお腹が小さく鳴った。
「……見るだけですの」
黒猫を肩に乗せたまま、屋台をじっと眺める。
ぐぅ。
店主はその様子を見て苦笑した。
「偉いな、お嬢ちゃん」
「……?」
「ちゃんと我慢できてるじゃねぇか」
店主は飴玉を一つ差し出した。
「ほら、いい子にしてたご褒美だ」
日御子は少し眉をひそめる。
「私は子供ではありませんの」
そう言いながら。
飴はしっかり受け取った。
肩の上で黒猫が呆れたように尻尾を揺らす。
「……背に腹は変えられませんの」
日御子は飴を口へ放り込む。
「甘いですの!」
少しだけ幸せそうだった。
◇
ふと。
香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
焼き魚だった。
日御子はぴたりと立ち止まる。
財布を見る。
魚を見る。
財布を見る。
魚を見る。
そして肩の上の相棒を見る。
「半分こなら買えますの」
日御子は覚悟を決めた。
焼き魚を受け取る。
まず自分が一口。
美味しい。
とても美味しい。
旅の疲れが吹き飛ぶほどに。
満足そうに頷く。
残り半分。
黒猫へ差し出した。
「どうぞですの」
黒猫は魚を見る。
日御子を見る。
そして。
ぷい。
顔を逸らした。
「食べませんの?」
ぷい。
「贅沢ですの」
黒猫は聞いていない。
日御子は仕方なく残りを食べた。
数秒後。
黒猫がいないことに気付く。
「あれ?」
探す。
いた。
魚屋の店先だった。
店主に撫でられている。
なぜか魚を丸ごと一匹もらっていた。
しかも。
先ほど買ったものより大きい。
「にゃあ」
勝ち誇った顔だった。
「!?」
日御子は固まった。
「私より待遇が良いですの!?」
魚屋の主人が笑う。
「そりゃ猫の方が愛想いいからな」
「私は!?」
「あんた値切ろうとしただろ」
「それは正当な交渉ですの」
「魚一匹を半額にしようとした奴を客とは呼べねえ」
日御子は敗北した。
財布にも。
黒猫にも。
完全な敗北だった。
◇
夕方。
財布の中身を確認する。
銅貨が数枚。
現実は非情だった。
「……本格的にまずいですの」
革命軍にいた頃は支援があった。
だが今は違う。
王族であることを隠しながら一人で生きている。
収入はない。
仕事もない。
そして生活能力もない。
「お城にいた頃は、お金は勝手に湧いてくるものだと思っていましたの……」
黒猫が冷たい目を向ける。
「にゃ」
「そんな目で見ないでください」
◇
その夜。
宿へ入った日御子は荷物を置く。
そして真っ先に取り出した。
地図だった。
街の地図。
周辺地形図。
街道図。
河川図。
山岳図。
机いっぱいに広げる。
日御子の目が輝く。
「これは唆られますの……」
指が動く。
脳内で街の構造が組み上がる。
補給路。
退路。
高所。
死角。
敵が攻めるなら。
守るなら。
伏兵を置くなら。
自然と考えてしまう。
「この地形で城を築けば面白いですの」
地図を前にした時。
日御子は、時間と空腹という概念が消えてしまうのだった。
時計を見ると。
いつの間にか2時間が経っていた。
黒猫は机の上で寝ている。
完全に興味がないらしかった。
ふと。
一枚の地図に目が留まった。
王都ヒノモト。
故郷だった。
日御子の手が止まる。
「……?」
微かな違和感を覚えた。
幼い頃から何度も歩いた、見慣れているはずの故郷。
それなのに。
初めて見る街を眺めている気がする。
理由は、分からなかった。
(何ですの……?)
ずきり。
突然、頭の奥に鋭い痛みが走った。
思わず額を押さえる。
何かを掴みかけた気がした。
だが。
それは指の隙間から零れ落ちるように消えていった。
(変ですの……)
懐かしいはずの地図が、どこか遠い。
大切だったはずの故郷が、落ち着かない。
理由の分からない胸のざわつきだけが残っていた。
黒猫がゆっくりと目を開く。
日御子を見る。
そして。
王都の地図を見る。
「……にゃ」
いつもより少しだけ低い声だった。
だが。
日御子は気付かない。
窓の外では夜風が吹いている。
◇
突然、遠くから誰かの叫び声が聞こえた。
「ポリアンナさーーーーん!!」
黒猫はゆっくりと、その声の方へ顔を向けた。
日御子も顔を上げる。
(……?)
誰かを探している声だった。
だが。
今の彼女には関係ない。
そう思った。
その声が、これから自分の運命を大きく変えることになるとは。
日御子はまだ、知らなかった。
【第四話 変な軍師】へ続く




