追われる王女
ヒュッ、と短剣が風を裂いた。
日御子は身体を傾け、顔の横を通り過ぎた刃をかわす。短剣は背後の木箱へ突き刺さり、深々と刃を食い込ませた。
(……また刺客ですの)
驚きより先に、呆れが込み上げた。
「《王域》」
双眸が淡く輝き、周囲の街並みが立体地図となって意識へ浮かび上がる。道や建物の構造、その中にいる人間の位置と動きが、緑色の光によって次々と示された。
刺客は姿を見られたと悟り、積み上げられた木箱の裏を抜けて逃げようとしている。
日御子は腰の短剣を抜くと、男を追わず、反対側の路地へ踏み込んだ。
刺客が狭い路地から飛び出した瞬間、その前に日御子が現れた。
「残念でしたの」
「なっ――」
男が咄嗟に懐へ手を入れる。二本目の短剣を抜かれるより早く、日御子はその手首を蹴り上げ、返す動きで短剣の峰を首筋へ叩き込んだ。
鈍い音が響き、男はその場へ崩れ落ちた。
日御子は気を失った男を人目のある通りまで引きずり出すと、懐や腰回りを調べた。しかし、身元や所属を示すものは何も持っていない。武器も衣服も、どこにでもある旅装だった。
「今回も手掛かりはありませんの……」
男の手足を縛り、近くの店主へ衛兵を呼ぶよう頼む。念のため男の武器を遠ざけてから、日御子は短剣を鞘へ戻そうとした。
その手が止まる。
柄を握る掌に残る感触が、父へ剣を振り下ろした瞬間の重さと重なった。
静かに目を閉じた父の顔。
赤い絨毯へ広がった血。
「にゃあ」
黒猫の声に、日御子は我に返った。
いつの間にか足元まで来ていた黒猫が、心配そうに彼女を見上げている。
「……大丈夫ですの」
日御子は短剣を鞘へ収めると、黒猫を肩へ乗せた。近づいてくる衛兵の足音を背中で聞きながら、何事もなかったようにその場を離れた。
◇
王を討ってから、数ヶ月が経っていた。
革命は成功し、新しい統治機構も作られた。これから国は少しずつ良くなっていくのだと、少なくとも日御子はそう信じていた。
本当なら、国に残るつもりだった。自分が始めたことを最後まで見届け、正しい国を作る責任を果たすつもりでいた。
だが、革命が終わって間もなく、日御子は何者かに命を狙われ始めた。刺客を退けて居場所を変えても、ほどなく次の刺客が現れる。捕らえた者は身元も命令者も明かさず、手掛かりは何一つ得られなかった。
誰かが自分の居場所を流している。だが、どこから情報が漏れているのかは分からなかった。
政務は革命軍の幹部たちによる暫定評議会へ託していた。日御子一人が離れても、すぐに新政府が立ち行かなくなることはない。内通者が誰か分からない以上、行き先を告げることもできなかった。
このまま国に残れば、周囲の者まで刺客に狙われる。
だから日御子は身分を隠し、誰にも行き先を告げず、ヒノモトを離れた。
周囲を巻き込まないため。それが国を離れた理由だった。
少なくとも、日御子はそう自分へ言い聞かせていた。
夜を迎えるたび、あの日の光景が夢に現れた。父の顔。剣を振り下ろした時の感触。刃に付着した血の色。何度忘れようとしても、目を閉じれば鮮明に蘇ってくる。
だから日御子は、どこへ向かうのかも決めないまま歩き続けていた。
歩いている間だけは、少しだけそれを考えずに済んだから。
◇
乾いた風が吹く砂漠沿いの街道を、日御子は焼き芋を食べながら歩いていた。
一見すれば、黒猫を連れたのんびりとした旅人だった。しかし、その視線は街道脇の岩場や脇道、遠くに見える人影を絶えず確かめている。
「慣れとは恐ろしいものですの」
三日前は毒を盛られ、先週は宿で夜襲を受け、その前には崖から突き落とされかけた。
革命というものは、終わった後の方が面倒なのかもしれない。思い返すだけで頭が痛くなる。
いや、実際に少し痛かった。
「そろそろ、落ち着いて旅をしたいですの」
街へ入るたび、最初に確認するのは宿でも食事でもなく逃げ道だった。こんなものは旅とは呼べない。
「にゃあ」
肩の上で黒猫が同意するように鳴き、日御子は思わず笑った。
革命軍を率いていた頃は、こんな風に笑う余裕さえなかった。毎日が決断の連続で、一つ間違えれば誰かが死ぬ。そんな日々だったからこそ、今は少しだけ肩の力が抜けているのかもしれない。
少なくとも、命令一つで大勢を危険へ晒すことはない。
「考えてみれば、昔からこうでしたの」
日御子は焼き芋を頬張りながら、懐かしそうに目を細めた。
「地図ばかり眺めて怒られて、城を抜け出して怒られて、お菓子を隠して怒られて……」
「にゃあ」
「最後のは納得いきませんの」
黒猫は呆れたように尻尾を振った。
今の彼女は革命軍の指導者でも、国を背負う王女でもない。ただ、相棒と二人で旅をする一人の少女だった。
(◯◯◯には、何も言わずに出てきてしまいましたの)
行き先を知らせれば、彼まで命を狙われていたかもしれない。それでも、いつか再会できたなら、黙って姿を消したことを謝り、これまで支えてくれた礼を伝えなければならない。
日御子はそんなことをぼんやりと考えながら、街道の先に見えてきた街へ向かった。
◇
オアシスを中心に広がる市場は、昼を過ぎても活気に満ちていた。水の貴重な土地とは思えないほど商人たちの声が飛び交い、屋台からは焼きたてのパンや串焼きの香りが漂っている。
日御子のお腹が小さく鳴った。
「……見るだけですの」
黒猫を肩へ乗せたまま、日御子は屋台に並ぶ食べ物をじっと眺める。
不意に、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
焼き魚だった。
日御子は足を止める。
財布を見る。
魚を見る。
もう一度、財布を見る。
そして、魚を見る。
最後に肩の上の相棒へ視線を向け、覚悟を決めたように頷いた。
「半分こなら買えますの」
焼き魚を一本受け取り、まずは自分が一口食べる。
美味しい。旅の疲れが吹き飛ぶほどに美味しい。
日御子は満足そうに頷くと、残りの半分を黒猫へ差し出した。
「どうぞですの」
黒猫は魚を見てから日御子を見上げ、ぷいと顔を逸らした。
「食べませんの?」
もう一度差し出しても、やはり顔を逸らす。
「贅沢ですの」
仕方なく日御子が残りを食べ終えると、いつの間にか肩の上から黒猫が消えていた。
「あれ?」
周囲を見回すと、黒猫は近くの魚屋で店主に頭を撫でられていた。しかも、先ほど日御子が買ったものより大きな魚を、丸ごと一匹くわえている。
「にゃあ」
黒猫は勝ち誇った顔で戻ってきた。
「私より待遇が良いですの!?」
魚屋の主人が声を上げて笑う。
「そりゃ、猫の方が愛想がいいからな」
「私は?」
「あんた、さっき魚を値切ろうとしただろ」
「それは正当な交渉ですの」
「魚一匹を半額にしようとした奴を、客とは呼べねえよ」
日御子は敗北した。
財布にも、黒猫にも、完全な敗北だった。
◇
日が暮れる頃、日御子は宿へ入った。
部屋へ荷物を置くと、真っ先に地図を取り出す。街の地図、周辺の地形図、街道図、河川図、山岳図。持っていた地図を机いっぱいに広げた途端、その目が輝き始めた。
「これは、そそられますの……」
地図の上を指が滑り、頭の中で街と周辺地域の構造が組み上がっていく。
補給路。退路。高所。死角。
敵が攻めてくるなら、どこを通るのか。守るなら、どこへ兵を置くのか。伏兵を潜ませるなら、どの場所が最適か。
「この地形に城を築けば、面白いですの」
地図を前にすると、日御子の中から時間と空腹の概念が消えてしまう。
気がつけば、二時間が経っていた。黒猫は机の端で丸くなり、すっかり興味を失っている。
日御子が次の地図へ手を伸ばす。
王都ヒノモト。
自分が生まれ、幼い頃から何度も歩いた故郷だった。
城から市場へ続く大通り。黒猫を追いかけて走った路地。古い店が並ぶ露店街。地図を見れば、当時の景色が自然と浮かんでくる。
日御子の指が、王城へ続く大通りの上で止まった。
革命の日、自分が軍を率いて進んだ道だった。
ずきりと、頭の奥に鋭い痛みが走る。
「っ……」
日御子は思わず額を押さえた。
何かを掴みかけた気がした。しかし、それが何だったのか考えるより早く、指の隙間から零れ落ちるように消えていく。
(変ですの……)
見慣れたはずの道を見ているだけなのに、胸の奥がざわついていた。
理由は分からない。
ただ、これ以上その道を見ていたくない。
日御子は逃げるように指を離した。
机の端で眠っていた黒猫が、ゆっくりと目を開く。日御子を見上げ、次に王都の地図へ目を向けた。
「……にゃ」
いつもより少しだけ低い声だった。
だが、日御子はその変化に気付かなかった。
◇
突然、遠くから誰かの叫び声が聞こえた。
「ポリアンナさーーーーん!!」
日御子が顔を上げる。
黒猫は机から窓辺へ飛び移ると、声のした方角へ顔を向け、その金色の瞳を僅かに細めた。
(誰かを探していますの?)
日御子はすぐに興味を失い、地図へ視線を戻した。
黒猫だけは、いつまでも窓の外を見つめていた。
【第四話 変な軍師】へ続く




