追われる王女
ヒュッ、とダガーが風を裂いた。
日御子は身体を傾ける。かわした刃は顔の横を通り過ぎた。
(……また刺客ですの)
驚きより先に、呆れが込み上げた。
「《王域》」
双眸が淡く輝き、周囲の街並みが立体地図となって意識へ浮かび上がる。
建物の陰。積み上げられた木箱。その裏側を移動する人影。
「そこですの」
日御子は腰の短剣を抜き、路地へ踏み込んだ。逃げようとした男の背後へ回り込み、その首筋へ柄頭を叩き込む。
鈍い音が響き、男はその場へ崩れ落ちた。
日御子は気を失った男を通りまで引きずり出すと、懐や腰回りを調べる。
身元を示すものは、何もない。
「今回も手掛かりはありませんの……」
男の手足を縛る。この場所なら、ほどなく通行人か衛兵が見つけるだろう。
短剣を鞘へ戻そうとして、その手が止まった。
柄を握る掌に残る感触が、父を斬った瞬間の重さと重なる。
静かに目を閉じた父の顔。
刃を濡らした血の色。
「にゃあ」
黒猫の声に、日御子は我に返った。
いつの間にか足元まで歩み寄り、金色の瞳で彼女を見上げている。
「……大丈夫ですの」
日御子は短剣を鞘へ収めると、黒猫を肩へ乗せた。
そして何事もなかったように歩き出した。
◇
乾いた風が吹く砂漠沿いの街道を、日御子は焼き芋を食べながら歩いていた。
一見すればのんびりとした旅人だ。しかし、その視線は街道脇の岩場や脇道を絶えず確かめている。
肩の上では黒猫が退屈そうに欠伸をしていた。
「慣れとは恐ろしいものですの」
三日前は毒を盛られた。
先週は宿で夜襲を受けた。
その前には崖から突き落とされかけた。
そして、つい先ほどはダガーを投げられた。
王を討ってから、数ヶ月。革命は成功し、新しい統治機構も作られた。だが、革命が終わって間もなく、何者かに命を狙われ始めた。
一度刺客から逃れても、居場所を変えればまた別の刺客が現れる。捕らえた者を調べても、誰が送り込んでいるのかは分からない。それなのに、こちらの居場所だけは知られていた。刺客へ情報を流している者が、身近にいるのかもしれない。
そんな状況の中、彼から国外へ身を隠すよう強く勧められた。
最初はためらった。本当なら国に残り、自分が始めたことを最後まで見届けるつもりだったからだ。革命を起こした以上、正しい国を作る責任を果たす。そのつもりでいた。
けれど、その人物と話すうちに、不思議と考えが変わっていった。
政務はすでに革命軍の幹部たちによる暫定評議会へ託し、各地の部隊も新政府の指揮下へ移してある。自分一人が国を離れても、すぐに新政府が立ち行かなくなることはない。
このまま国に残れば、周囲の者まで巻き込んでしまう。それに、評議会の中に情報を流している者がいる可能性も否定できなかった。
だから日御子は身分を隠し、ヒノモトを離れた。
「革命というものは、終わった後の方が面倒なのかもしれませんの……」
そう思うだけで頭が痛くなる。
いや。
実際に少し痛かった。
「そろそろ、落ち着いて旅をしたいですの」
街へ入るたび、最初に確認するのは宿でも食事でもなく逃げ道だった。
こんなものは旅とは呼べない。
「にゃあ」
黒猫が同意するように鳴き、日御子は思わず笑った。
革命軍を率いていた頃は、こんな風に笑う余裕さえなかった。毎日が決断の連続だった。一つ間違えれば、人が死ぬ。
今は少なくとも、危険に晒すのは自分一人で済む。そのために国を離れた。
だが、日御子自身も分かっていた。行き先さえ決めずに歩き続けている理由は、それだけではない。
夜になると、あの日の光景が夢に現れる。何度忘れようとしても、目を閉じれば鮮明に蘇ってくる。
だから歩いている。
歩いている間だけは、少しだけ考えずに済むから。
日御子は焼き芋を一口頬張った。
「考えてみれば、昔からこんな目に遭ってばかりでしたの」
懐かしそうに目を細める。
「地図ばかり眺めて怒られて、城を抜け出して怒られて、お菓子を隠して怒られて……」
「にゃあ」
「最後のは納得いきませんの」
黒猫は呆れたように尻尾を振った。
その仕草に、日御子の頬が自然と緩む。
今の彼女は革命軍の指導者でも、国を背負う王女でもない。ただ、相棒と二人で旅をする一人の少女だった。
(……彼には、行き先も言わずに出てきてしまいましたの)
そう考えたところで、日御子は僅かに眉を寄せた。
誰だったのか。
思い出そうとすると、そこだけ思考が滑るように曖昧になる。
それでも、行き先を知らせれば、その人まで命を狙われていたかもしれない。そんな感覚だけは、確かに残っていた。
いつか再会できたなら、急に姿を消したことを謝らなければならない。そんなことを考えているうちに、街道の先へ街が見えてきた。
◇
オアシスを中心に広がる市場は、活気に満ちていた。
水の貴重な土地とは思えないほど商人たちの声が飛び交い、屋台からは焼きたてのパンや串焼きの香りが漂っている。
日御子のお腹が小さく鳴った。
「……ちらっと見るだけですの」
黒猫を肩へ乗せたまま、屋台に並ぶ食べ物を食い入るように見つめる。
不意に、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
焼き魚だった。
日御子はぴたりと足を止めた。
魚を見る。
財布を見る。
もう一度、魚を見る。
最後に、肩の上の黒猫を見る。
「半分こなら買えますの」
焼き魚を一本受け取り、まずは自分が一口食べる。
美味しい。
旅の疲れが吹き飛ぶほどに美味しい。
日御子は満足そうに頷くと、残りの半分を黒猫へ差し出した。
「どうぞですの」
黒猫は魚を見る。
日御子を見る。
そして。
ぷい。
顔を逸らした。
「食べませんの?」
もう一度差し出しても、やはり顔を逸らす。
「贅沢ですの」
仕方なく日御子が残りを食べる。
しばらくして、肩の上が軽いことに気付いた。
「あれ?」
周囲を見回す。
いた。
先ほどの魚屋で、店主に頭を撫でられている。
しかも。
日御子が買ったものより大きな魚を、丸ごと一匹くわえていた。
「にゃあ」
勝ち誇った顔だった。
「私より待遇が良いですの!?」
魚屋の主人が声を上げて笑う。
「そりゃ、猫の方が愛想がいいからな」
「私は?」
「あんた、さっき魚を値切ろうとしただろ」
「それは正当な交渉ですの」
「魚一匹を半額にしようとした奴を、客とは呼べねえよ」
日御子は口を閉じた。
大きな魚をくわえた黒猫だけが、満足そうに尻尾を立てていた。
◇
夕方。
日御子は財布の中身を確かめた。
銅貨が数枚。
もう一度数える。
当然ながら増えていない。
「……本格的にまずいですの」
革命軍にいた頃は、各地から寄せられる支援があった。
だが今は違う。
王族であることを隠しながら一人で旅をしている。
収入はない。
仕事もない。
そして生活能力もあまりない。
「お城にいた頃は、お金は勝手に湧いてくるものだと思っていましたの……」
黒猫が冷たい目を向ける。
「にゃ」
「そんな目で見ないでほしいですの」
◇
その夜、宿へ戻った日御子は荷物を置いた。
明日からの仕事をどうするか考えなければならない。そう思いながら、日御子が真っ先に取り出したのは、地図だった。
街の地図。
周辺の地形図。
街道図。
河川図。
山岳図。
机いっぱいに広げた瞬間、その目が輝く。
「これは、たまりませんの……」
先ほどまで考えていた金銭問題は、いつの間にか頭の隅へ追いやられていた。
地図の上を指が滑り、頭の中で街の構造が組み上がっていく。
補給路、退路、高所、死角。
敵が攻めてくるなら、どこを通るのか。守るなら、どこへ兵を置くのか。伏兵を潜ませるなら、どの場所が最適か。
「この地形に城を築けば、面白いですの」
気がつけば、二時間が経っていた。
黒猫は机の端で丸くなり、完全に興味を失っている。
(……何か考えることがあったような)
少し考えた。
何も思い出せなかった。
それから、机いっぱいの地図を見る。
日御子は次の地図へ手を伸ばした。
その指が止まる。
王都ヒノモト。
先ほどまでの高揚が、すっと引いていった。
自分が生まれ、幼い頃から何度も歩いた故郷。
(……?)
見慣れているはずなのに、微かな違和感があった。
城から市場へ続く大通り。
幼い頃に黒猫を追いかけた路地。
どこも知っている。覚えている。
それなのに、それらが自分の記憶だという実感が、妙に薄い。
ずきり。
「っ……」
頭の奥に鋭い痛みが走り、日御子は額を押さえた。
一瞬、何かを掴みかけた気がした。
だが、それは指の隙間から零れ落ちるように消えていった。
(何か変ですの……)
懐かしいはずの地図が、どこか遠い。
大切だったはずの故郷を思い浮かべても、理由の分からない胸のざわつきだけが残った。
机の端で眠っていた黒猫が、ゆっくりと目を開く。
日御子を見る。
そして、王都の地図へ視線を移す。
「……にゃ」
いつもより少し低い鳴き声だった。
だが、日御子はその変化に気付かなかった。
◇
突然、遠くから誰かの叫び声が聞こえた。
「ポリアンナさーーーーん!!」
日御子が顔を上げる。
黒猫がひらりと窓辺へ飛び移り、声のした方角へ顔を向けた。その金色の瞳が、僅かに細められる。
(誰かを探していますの?)
日御子は少しだけ耳を澄ませた。
自分には関係のない声だ。
そう判断すると、またすぐに地図へ視線を戻した。
黒猫は窓辺に座ったまま、いつまでも声のした方角を見つめていた。
【第四話 変な軍師】へ続く




