新しい景色
朝日が荷馬車を照らしていた。
規則正しく車輪が回る音。
馬の蹄が土を踏み締める音。
「おはようございます」
御者台からビビアンが振り返る。
「よく眠れましたか?」
荷台から身体を起こした日御子は、小さく頷いた。
「……はい」
まだ顔色は良くない。
それでも、一週間前とは比べものにならないほど身体は動くようになっていた。
「朝ご飯にしましょう」
ビビアンは包みを差し出す。
焼いたパンと干し肉。
それに果物が少し。
「今日は全部食べてくださいね」
日御子は苦笑する。
「努力しますの」
その返事を聞いたビビアンは、小さく目を細めた。
以前なら。
「私はこれで十分ですの」
そう言っていた。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
前へ進んでいる。
そう思えた。
◇
昼頃。
二人は小さな宿場町へ立ち寄っていた。
「まずは保存食ですね」
ビビアンは慣れた様子で店を回る。
「すみません」
ビビアンが店の奥を指差す。
「一番上の干し肉ください」
店主が脚立を取りに行こうとした、その時だった。
ふわり。
高い棚の干し肉が、ひとりでに宙へ浮く。
そのままゆっくりとビビアンの手元まで降りてきた。
店主は苦笑する。
「それ異能か?」
「びっくりしたぞ」
ビビアンは照れ臭そうに笑った。
「こういう時くらいしか使いませんけどね」
日御子は浮かぶ干し肉を静かに見つめる。
「……便利な異能ですの」
「重い荷物を運ぶ時なんかも助かりますよ」
そして。
乾燥野菜。
硬いパン。
水袋。
旅に必要な物を手際よく買い揃えていく。
日御子は黙ってその後ろを歩いていた。
「これと、これ」
ビビアンが店主へ銀貨を渡そうとした時だった。
「そっちの方が安いですの」
日御子が隣の商品を指差した。
ビビアンは目を丸くする。
「え?」
「同じ量なら、こちらの方がお得ですの」
店主が苦笑する。
「お嬢ちゃん、よく見てるねぇ」
日御子は少し気まずそうに視線を逸らした。
「……癖ですの」
自然と値段へ目が行く。
ビビアンは思わず笑った。
「じゃあ今日は、その癖を頼りにします」
「私、こういう計算は苦手なので」
日御子は一瞬考える。
「でしたら」
「塩は、こちらのお店の方が安かったですの」
「え?」
「さっき通りました」
ビビアンは吹き出した。
「見てたんですか?」
「……つい」
その短いやり取りだけで。
少しだけ空気が柔らかくなる。
◇
市場を歩いていると。
「にゃ!」
ノワが突然駆け出した。
「あ、ノワ」
慌てて追い掛ける。
辿り着いた先は魚屋だった。
新鮮な魚がずらりと並んでいる。
ノワは一匹の魚を真っ直ぐ見つめたまま動かない。
「ははっ」
店主が笑う。
「随分と分かりやすい猫だ」
そう言って、小さな魚を一匹放り投げた。
ノワは器用に咥える。
「にゃー!」
嬉しそうに尻尾を立てた。
「サービスだ」
「可愛いからな」
「ありがとうございますの」
日御子は深く頭を下げる。
ノワは魚を抱えたまま日御子の足元へ戻ってきた。
その姿がおかしくて。
日御子の口元がほんの少しだけ緩む。
ビビアンはその横顔を見た。
何も言わない。
ただ。
自分まで少し嬉しくなった。
◇
旅は続く。
薪を拾い。
火を起こし。
簡単な食事を作る。
時には荷馬車を押し。
井戸で水を汲み。
洗濯をする。
そんな毎日が繰り返されていく。
日御子は相変わらず口数が少なかった。
ぼんやりと遠くを見つめる時間もある。
時折、何かを思い出したように表情を曇らせる事もあった。
それでも。
ビビアンは何も聞かなかった。
今は、それでいい。
生きている。
ご飯を食べる。
眠る。
朝を迎える。
まずは、それだけで十分だと。
そう思っていた。
◇
乾いた荒野を抜けると、景色は少しずつ姿を変えていく。
風に揺れる草原。
木漏れ日が降り注ぐ森。
透き通った川のせせらぎ。
進むたびに空気は柔らかくなり、頬を撫でる風もどこか温かくなっていった。
ある朝、日御子は荷馬車の上でふと顔を上げる。
「……風が違いますの」
御者台のビビアンが振り返り、嬉しそうに笑った。
「分かりますか?」
「もうすぐですよ」
「潮の香りが混じってきました」
日御子は静かに目を閉じる。
湿った風。
どこか塩の匂いを含んだ空気。
初めて感じるはずなのに、不思議と心地良かった。
旅はそのまま南へ続く。
町を抜け。
橋を渡り。
山を越え。
気が付けば、一か月ほどの時が流れていた。
◇
「見えてきました」
ビビアンが前方を指差す。
荷馬車は緩やかな丘を登っていく。
そして。
丘の頂へ辿り着いた、その瞬間だった。
「……」
日御子は息を呑む。
視界いっぱいに、青い海が広がっていた。
陽光を受けて宝石のように輝く水面。
港には大小様々な船が並び、白い帆が潮風を受けて大きく膨らんでいる。
赤い屋根の家々が坂道に沿って立ち並び、色鮮やかな旗や洗濯物が風に揺れていた。
港町からは、人々の笑い声。
商人たちの威勢の良い呼び声。
どこか陽気な音楽まで聞こえてくる。
乾いた荒野とは、まるで別世界だった。
日御子はただ、その景色を見つめる。
しばらく何も言えなかった。
潮風が前髪を優しく揺らす。
「……綺麗ですの」
思わず漏れた小さな呟き。
ビビアンはその横顔を見つめ、穏やかに微笑んだ。
「でしょう?」
「私も、この景色が大好きなんです」
荷馬車はゆっくりと丘を下り始める。
活気に満ちた港町へ向かって。
◇
マレディア王国の大きな門の前。
門番が、近付いてくる荷馬車へ目を細めた。
「ん?」
その視線が、御者台の女性で止まる。
「……まさか」
ビビアンは苦笑いを浮かべた。
「お久しぶりです」
門番は大きく目を見開いた。
「ビビアン様!?」
本人だと確信した瞬間。
慌てて姿勢を正す。
「生きてたんですか!」
「失礼だねぇ」
ビビアンは肩を竦めて笑う。
門番は呆れたように頭を掻いた。
「だって、帰ってこないと言って出ていったじゃないですか」
日御子は不思議そうにビビアンを見る。
ビビアンは視線を逸らし、頭を掻いた。
「……まあ、色々ありまして」
門番は大きくため息を吐く。
「相変わらずですね、ビビアン様は」
そう言って門を開けた。
「どうぞ、お入りください」
「みんな腰を抜かしますよ」
ビビアンは軽く頭を下げる。
「ありがとう」
荷馬車がゆっくりと門をくぐろうとした時。
門番が、もう一度声を掛けた。
「お帰りなさい、ビビアン様」
ビビアンは少しだけ目を見開く。
やがて。
穏やかに笑った。
「……ただいま」
荷馬車が門をくぐる。
城下町の賑やかな声が、一気に二人を包み込んだ。
ビビアンはそっと隣の日御子へ目を向ける。
(さあ)
(ここからだよ)
心の中だけで、小さく呟く。
荷馬車はそのまま、王国の街並みへ吸い込まれていった。
【第四十九話 海賊国家】へ続く




