方舟
柔らかな揺れが、規則正しく身体を運んでいた。
どこか遠くで、馬の蹄が乾いた地面を叩いている。
「……ん」
重かった瞼が、ゆっくりと開いた。
見知らぬ天井。木を組んだ幌の骨組みが、揺れに合わせて小さく軋んでいた。荷馬車の荷台だった。
「……」
日御子の身体が強張った。
(ここはどこですの……? 私は――)
勢いよく起き上がろうとする。
「っ……」
だが、身体に力が入らない。
その小さな物音に気付いたのか、すぐ近くから穏やかな女性の声がした。
「目が覚めましたか?」
日御子は反射的にそちらへ視線を向けた。
見覚えのない女性が、御者台からこちらを振り返っている。柔らかな笑みを浮かべ、日御子を見ていた。
日御子の表情が険しくなった。
「……あなたは、どなたですの」
声には、はっきりと警戒が滲んでいた。
女性は少し困ったように笑う。
「私はビビアンと申します。荒野で倒れていたあなたを見つけたんです」
それから、荷台の隅へちらりと目を向けた。
「猫ちゃんが、一生懸命呼びに来てくれて」
その言葉を聞いた瞬間、日御子は慌てて辺りを見回した。
「ノワ……!」
「にゃあ」
胸元から聞こえた鳴き声に目を落とす。
ノワは安心しきった様子で丸くなり、目を覚ました日御子の顔へ頬を擦り寄せた。
「……無事でしたの」
ようやく胸を撫で下ろす。
ノワがこれほど無防備にしているのなら、少なくとも目の前の女性は敵ではない。
日御子はゆっくりと肩の力を抜いた。
「助けてくださったのですね」
「はい」
ビビアンは優しく頷く。
「放っておけませんでしたから」
日御子は小さく頭を下げた。
「……ありがとうございますの」
◇
「まだ無理は駄目ですよ」
しばらくして、ビビアンは荷馬車を止めると荷台へ乗り込んできた。
手にしている木の器から、白い湯気が立ち上っている。中には、野菜を柔らかく煮込んだスープが入っていた。
「少しずつ召し上がってください」
優しい香りが鼻をくすぐる。
日御子は差し出された器を見つめた。
「私はこれで十分ですの」
「十分じゃありません」
笑顔のまま即座に返される。
「倒れた人に拒否権はありません」
「ですが……」
「いいから食べ――」
そこまで言って、ビビアンは小さく咳払いをした。
「……失礼。とにかく、今は食べてください」
柔らかな笑顔だった。それなのに、その声音には不思議と押し返せない強さがあった。
「これはお願いじゃありません。義務です」
日御子は少し困ったように視線を逸らした。
「にゃ」
その時、ノワが器を覗き込み、小さく鳴く。
ビビアンは思わず笑った。
「ほら。猫ちゃんも食べろって言ってます」
日御子はノワを見る。
真っ直ぐな瞳で、じっとこちらを見上げていた。
その視線から逃げるように小さく息を吐く。
「……分かりましたの」
器を受け取る。
一口だけ。
温かなスープを口へ運ぶと、冷え切っていた身体の奥へ熱がゆっくりと染み込んでいった。
「……美味しいですの」
思わず漏れた言葉だった。
ビビアンが嬉しそうに微笑む。
「良かった」
その笑顔を見て、日御子は静かに目を伏せた。
(こんな風に優しくされる資格なんて、自分にはないのに……)
胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
◇
荷馬車はゆっくりと街道を進んでいく。
日御子は眠っているノワの背を撫でながら、ぼんやりと流れる景色を眺めていた。
手綱を握るビビアンは、その横顔を時折ちらりと窺う。
(……変な子)
(なんか歪だ)
(死にたいわけではなさそう)
(でも、生きたいって感じでもない)
鞄の中には食べ物が残っていた。それなのに、日御子は倒れるほど衰弱していた。
誰かに追い詰められたというより、自分で自分を追い詰めている。
ビビアンには、そう見えた。
(何があったんだろう)
聞こうとは思わなかった。
少なくとも、今はその時ではない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
(この子、このままここにいちゃ駄目だ)
理由をうまく説明できるわけではない。
それでも、ビビアンは自分の勘を信じていた。
乾いた荒野と、どこまでも続く人気のない街道。この景色の中を一人で歩かせ続ければ、目の前の少女はますます心を閉ざしてしまう気がした。
だったら、真逆の場所がいい。
水と光と、うるさいくらいの人の声がある場所へ。
ビビアンの頭に浮かんだ場所は、一つしかなかった。
◇
「そういえば」
ビビアンが口を開いた。
「これから、どちらへ向かう予定なんですか?」
日御子は静かに首を横へ振る。
「決めていません」
「……え?」
「行き先は、ありませんの」
ビビアンは少しだけ驚いた顔を見せたあと、ふっと笑った。
「でしたら、私と一緒に来ませんか?」
「ご迷惑になりますの」
「なりません」
即答だった。
「ちょうど私も帰る途中なんです。一人増えても変わりません」
ビビアンはそう言って、柔らかく笑った。
目の前の少女を見ていると、ひとつの思いだけが胸の中で強くなっていく。
(この子を、あの国へ連れて行かなきゃ)
なぜそう思うのか、自分でも分からない。
ただ、その感覚だけは間違っていない気がした。
「向かう先は――」
ビビアンは前を向いたまま微笑む。
「南の海。マレディア王国です」
「……マレディア王国」
日御子は、その名を静かに繰り返した。
膝の上では、ノワがすっかり丸くなって寝息を立てている。
断る言葉は、もう出てこなかった。
◇
夜。
荷馬車は、静かな街道を進んでいた。
荷台では、日御子とノワが穏やかな寝息を立てている。
ビビアンはその様子をちらりと振り返り、小さく笑った。
「まったく……」
手綱を握り直し、夜空を見上げる。
「戻る気なんて、なかったんだけどな」
二度とあの国へは帰らない。そう決めて、外へ出たはずだった。
それなのに今、自分はその国へ向かっている。
苦笑が漏れた。
「悪いね、みんな」
夜風に髪を揺らされながら、ビビアンは前を向く。
「しばらく厄介になるよ」
その呟きは、静かな夜風にさらわれていった。
◇
その頃。
NKJ本部の応接室には、重たい沈黙が流れていた。
パルパティーンは腕を組んだまま椅子へ腰掛け、その向かいにはポリアンナが座っている。さらにその後ろには、NKJの面々が並んでいた。
ポリアンナが静かに口を開く。
「改めて、お聞きします。なぜNKJへ来たのですか」
パルパティーンは黙った。
答えようとはしたものの、うまく言葉が出てこない。
沈黙が長引き、やがて鬼龍神が痺れを切らした。
「理由もねぇのか?」
「……ある」
パルパティーンは頭を掻く。
「でも、上手く説明できねぇ」
再び沈黙が落ちた。
◇
「帝国にいても、何も変えられなかった」
やがて、パルパティーンがぽつりと呟いた。
部屋の空気が僅かに変わる。
「飛び出したはいいが、何をすりゃいいのか分からねぇ」
自嘲するように苦笑した。
「情けねぇ話だ」
パルパティーンは視線を上げ、ポリアンナを見る。
「ただ、お前らなら帝国と渡り合える。そんな気がした」
それ以上は、自分でも言葉にできなかった。
◇
ポリアンナは静かに目を閉じた。
「おいおい」
鬼龍神がまた痺れを切らす。
「そんな曖昧な理由で、仲間に入れろってのか?」
アイザックも腕を組んだ。
「実力は、すこーしだけ認めてやる。だが、信用は別だ」
鋭い目をパルパティーンへ向ける。
「こいつは日御子の命を狙った敵だぞ」
「私も同感です」
咲夜姫が静かに頷いた。
「帝国の中枢にいた人間を、そのまま招き入れるのは危険すぎます」
のぶおも黙って頷く。
その時だった。
「あーしは賛成ー!」
アリスが元気よく手を上げた。
「何か悪い人って感じしなくない? 勘だけど!」
「勘かよ!!」
鬼龍神のツッコミが響く。
アリスはけらけらと笑った。
「あーしの勘って、意外と当たるんだよー?」
パルパティーンは思わず鼻で笑う。
「お前、変な奴だな」
「でしょー?」
アリスは得意げに胸を張った。
◇
ポリアンナは静かに立ち上がった。
「皆さんの懸念はもっともです。私も、彼を信用しているわけではありません」
パルパティーンへ視線を向ける。
「ですが、先ほどの戦いでも、あなたは一度も剣の刃を立てませんでした。のぶおさんへ近づいた時も、異能を模倣しただけで、傷つけようとはしなかった」
誰も反論しない。
「少なくとも、私達を害するために来たわけではない。それは分かります」
「だが、信用はできないってか」
「はい」
ポリアンナは即答した。
「それでも、帝国中枢にいたあなたの知識と《模倣者》は、帝国と戦ううえで大きな力になります」
「ですから、正式な入隊ではなく仮入隊とします。単独行動は禁止。帝国について知っていることも、全て話していただきます」
「そして、再び私達へ刃を向けた時は、容赦なく排除します。それでも構いませんか?」
パルパティーンは小さく息を吐いた。
「構わねぇよ。最初から、信用してもらえるとは思ってねぇ」
ポリアンナは静かに頷く。
「では、ようこそNKJへ」
パルパティーンは小さく鼻を鳴らした。
「……世話になる」
こうしてパルパティーンは、仮入隊という形でNKJへ迎えられた。
【第四十七話 忠告】へ続く




