招かれざる客
乾いた風が、赤茶けた荒野を吹き抜けていく。
遮るもののない大地がどこまでも続き、その只中を、一人と一匹がゆっくりと歩いていた。
「今日は……暑いですの」
日御子は目を細め、白く霞んだ空を見上げた。
足元のノワが短く鳴き、その脚へ身体を擦り寄せる。
「もう少し歩けば、休めそうですの」
そう言って微笑む。
穏やかな笑みだった。けれど、その顔色は決して良くない。頬は削げ、一歩ごとに足取りが重くなっていくのが、自分でも分かっていた。
◇
昼を過ぎた頃、大きな岩陰を見つけて腰を下ろし、鞄を開く。
中に残っていたのは、小さく硬くなったパンがひとつだけだった。
二つへ割り、大きい方をノワへ差し出す。
「はい」
「にゃあ」
嬉しそうに頬張るノワを見つめながら、日御子は残った半分をさらに小さく千切った。
一欠片だけを口へ運び、ゆっくりと噛み締める。残りは布に包み、鞄へ戻した。
「私はこれで十分ですの」
食べ終えたノワが、首を傾げてこちらを見上げる。
「ちゃんと食べています」
日御子は優しく笑った。
「これ以上は、必要ありませんの」
ノワは納得していない様子で、じっと鞄を見つめている。
その頭を撫でながら、日御子は苦笑した。
◇
歩き始めてから、数時間が過ぎた。
地面から照り返す熱が、容赦なく体力を奪っていく。
空腹はある。喉も渇いている。
けれど、それでいい。
歩ける程度に削り、倒れない程度に飢える。そうやって少しずつ自分を痛めつけることは、旅に出た日から決めていた。
この程度の苦しみでは、まだ足りない。
「……」
ふと、足が止まった。
身体が思っていた以上に重い。息も、いつの間にか浅く荒くなっている。
額の汗を拭いながら、日御子は小さく笑った。
「少し……見誤りましたの」
苦しませるだけで、死なせるつもりはなかった。
こんなところで終わらせてやるわけには、いかないのだから。
もう一歩だけ。
そう思って踏み出した足から、ふっと力が抜けた。
「あ……」
世界が傾く。
受け身を取る間もなく地面へ倒れ込み、乾いた砂埃が舞い上がった。
「にゃっ!」
ノワが慌てて駆け寄る。
前足で頬を叩き、服の裾を噛んで懸命に引っ張る。それでも、日御子の瞼は開かなかった。
「にゃぁっ!」
必死な鳴き声だけが、誰もいない荒野に響いていた。
◇
「……猫?」
その声に、ノワが勢いよく振り向いた。
少し離れた場所で、一人の女性が足を止めている。柔らかな笑みを湛えた、美しい女性だった。
ノワは迷わずその足元へ駆け寄ると、すぐに踵を返し、数歩進んでは振り返る。
「もしかして……来てほしいんですか?」
女性は小さく目を丸くし、小走りでノワの後を追った。
岩陰を回り込んだところで、倒れている少女が目に入る。
「えっ……!」
すぐに駆け寄って膝をつき、その肩へ手を添えた。
「大丈夫ですか?」
返事はない。
額へ触れると、熱かった。手首を取ると、脈が弱い。
女性は素早く周囲を見回し、傍らの鞄へ目を向ける。
中には、食べかけのパンが残っていた。
足元の黒猫へ目を落とす。毛並みには艶があり、痩せた様子もない。
それなのに、この子だけが。
「……食べ物はあるのに」
答えに辿り着くまで、時間は掛からなかった。
削げた頬。枝のように細くなった腕。
「栄養失調……」
女性は水筒を取り出し、少女の身体をゆっくりと抱き起こした。
「少しだけ、お水を飲みましょう」
唇へ水を近付ける。
その時、日御子の瞼が僅かに持ち上がった。焦点の合わない瞳が、ぼんやりと女性を映す。
そして、小さく首を横へ振った。
「……まだ」
掠れた声が漏れる。
「まだ……苦しみが足りませんの」
女性は困ったように眉を下げた。
(この子……)
それでも、抱き起こした腕を離しはしない。
「何があったのかは分かりません。でも、あなたは今、休まなければいけません」
その声は穏やかで、どこまでも優しかった。
◇
「……パルパティーン」
ポリアンナがその名を口にした。
だが、言葉が終わるより早く、アイザックが一歩前へ出る。
「おい。てめぇには、前に借りがあったよな」
鋭い眼差しが、真っ直ぐパルパティーンへ向けられる。
「あの日の続きだ」
パルパティーンは手にした剣を軽く持ち直した。
「……やるのか?」
「当たり前だろ」
言い終わるより早く、アイザックが床を蹴った。
手甲を纏った右拳が、パルパティーンの顔面へ一直線に伸びる。
ガァンッ!!
パルパティーンは剣を立てて拳を受け止めた。金属同士がぶつかったような衝撃が響き、足元の床が軋む。
「お、おい!」
鬼龍神のこめかみに青筋が浮かんだ。
「てめーら部屋ぶっ壊す気か!! やるなら外でやれ!!」
アイザックは苛立たしげに舌打ちすると、そのまま入口へ向かって駆け出した。
「逃げんなよ!」
「誰が」
パルパティーンも鼻を鳴らし、その後を追った。
◇
本部の前で、アイザックとパルパティーンは数歩の距離を置いて向かい合った。
二人の間を、乾いた風が通り抜ける。
鬼龍神たちも本部から出てきたが、ポリアンナが片手を上げて制したため、誰も二人の間へは入らない。
一瞬だけ、静寂が落ちた。
先に動いたのはアイザックだった。
地面を蹴り、真正面から間合いを潰す。唸りを上げて飛んできた右拳を、パルパティーンは剣の腹で外側へ受け流した。
その刹那、アイザックは剣の外側へ身体を滑らせる。
眼帯で塞がれた側。
視界の切れる方向へ潜り込むと、軸足を捻った。
「はぁっ!」
炎を纏った蹴りが脇腹へ炸裂する。
爆炎が弾け、パルパティーンの身体が横へ押し流された。靴底が地面を削り、土を巻き上げる。
「……チッ」
数歩滑ったところで踏みとどまり、パルパティーンが口元を歪めた。
「もうバレてんのかよ」
アイザックは構えを崩さない。
「ポリアンナの読みは当たってたみてぇだな」
再び踏み込む。
今度は正面から、拳を立て続けに放つ。パルパティーンはそれを剣で弾き、受け流し、半歩身を引いて躱していく。
アイザックが不意に横へ抜けた。
死角へ入った瞬間、拳に炎が宿る。
だが、パルパティーンも同じ失敗は繰り返さなかった。
素早く身体の向きを変え、燃え上がった拳を正面から視界へ捉える。
次の瞬間、拳を覆っていた炎が消えた。
「同じ手が何度も通ると思うな」
剣の柄頭が、アイザックの肩へ叩き込まれる。
「ぐっ……!」
体勢が崩れたところへ、剣の腹が横薙ぎに迫った。
アイザックは咄嗟に上体を反らし、鼻先を掠めるように走った剣を躱す。そのまま後方へ跳び、間合いを取り直した。
パルパティーンは剣を構えたまま、常に相手を正面に置くよう半歩ずつ足を運ぶ。右へ回れば切っ先が進路を塞ぎ、逆へ動けば身体の向きを変えて死角を消す。
「面倒な戦い方しやがる」
そう吐き捨てながらも、アイザックの表情にはどこか楽しそうな色が浮かんでいた。
「そりゃこっちの台詞だ」
アイザックが再び踏み込む。
放たれた拳を、パルパティーンが剣で外へ流した。
その瞬間、アイザックの踵が地面を強く擦る。
砂と小石が跳ね上がった。
「くっ!」
パルパティーンが反射的に目を細める。
その僅かな隙へ、アイザックは一気に懐へ潜り込んだ。
炎を纏った拳が、脇腹へ叩き込まれる。
轟音とともに爆炎が弾け、巻き上がった砂埃が二人の姿を呑み込んだ。
アイザックはすぐに拳を引き、煙の向こうへ目を凝らす。
「手応えが軽い……?」
風が砂煙を攫っていく。
だが、その中にパルパティーンの姿はなかった。
「悪ぃな」
声は、離れた場所から聞こえた。
全員が一斉に振り向く。
パルパティーンは、のぶおのすぐ隣に立っていた。その手が、肩へ置かれている。
「……いつの間に」
のぶおが静かに目を見開く。
パルパティーンは何事もなかったかのように手を離した。アイザックの爆炎と砂埃を目眩ましに使い、その場を抜けていたのだ。
「てめぇ!」
アイザックが地面を蹴る。
パルパティーンも再び距離を取り、片手を前へ掲げた。
真正面から飛び込んできたアイザックが、炎を纏った拳を叩き込む。
その瞬間。
ギィィンッ!!
金属が軋むような音が響いた。
拳は透明な障壁へ阻まれ、炎だけが四方へ弾け飛ぶ。
「は?」
アイザックが目を見開いた。
「えぇっ!?」
アリスも思わず声を上げ、ソリムドが息を呑む。
「障壁……?」
のぶおは展開された透明な壁を見つめていた。
形も、広がり方も、自分の《絶界守護》と寸分違わない。
「……私の異能」
パルパティーンは障壁を指先で軽く弾く。硬質な音が返った。
「悪くねぇな」
アイザックは一瞬だけ黙った。
やがて、口元を吊り上げる。
「だったら――それごと砕くだけだ!」
両拳へ炎が宿る。
次の瞬間、炎弾が立て続けに放たれた。
一発目が障壁を叩き、間を置かず二発、三発と続く。赤い火の粉が激しく飛び散る中でも、障壁は揺るがない。
それでもアイザックは止まらなかった。
前の炎が消えるより早く次弾を叩き込み、さらに距離を詰めながら連射を重ねていく。爆音が絶え間なく山へ響いた。
五発を超えても、パルパティーンの表情にはまだ余裕がある。
だが、十発を超えた頃には、一撃ごとの衝撃が積み重なり、障壁の表面が波打ち始めていた。
「……ほう」
パルパティーンの身体が、障壁ごと後方へ押される。靴底が地面を滑った。
アイザックはなおも前へ進む。
炎弾はもはや一発ずつには見えず、幾重にも重なった炎が巨大な奔流となって、真正面から障壁を呑み込んでいった。
熱風が吹き荒れ、地面が焼け、周囲の草が一瞬で燃え上がる。
障壁の内側にいるパルパティーンの頬を、汗が伝った。
透明な壁が大きく軋み、表面が歪む。
「おらおら、どうした!」
アイザックは構わず撃ち続ける。
二十発目。
炎弾が真正面から障壁へ炸裂した。
バキッ。
小さな音が響く。
障壁の中央に一本の亀裂が走り、次の炎を受けた瞬間、その亀裂が枝分かれしながら一気に周囲へ広がった。
パルパティーンの表情から、完全に余裕が消える。
「……所詮コピーはコピーだな」
亀裂だらけになった障壁を見つめ、苦々しく舌打ちした。
「まだ終わってねぇぞ!」
アイザックの両拳を包む炎が、さらに大きく膨れ上がる。
障壁の向こうで、パルパティーンも僅かに腰を落とした。
次の一撃をまともに受ければ、障壁は砕ける。
誰もがそう確信した、その時だった。
「そこまでです」
静かな声が響いた。
ポリアンナだった。
アイザックの拳から炎が消え、パルパティーンも小さく息を吐いて、亀裂だらけの障壁を解除した。
「私に話があったから、ここへ来たのでしょう?」
パルパティーンは頭を掻く。
「あぁ。危うく忘れるところだった」
アイザックはなおも警戒を解かない。
「何しに来た」
パルパティーンはポリアンナを真っ直ぐ見据えた。
「俺を――」
「お前んとこへ入れろ」
静寂が落ちた。
最初に口を開いたのはアイザックだった。
「……てめぇ、ふざけてんのか?」
鬼龍神も目を丸くする。
「えぇぇぇっ!?」
アリスの叫びが山に響き、ソリムドはぽかんと口を開けたまま固まっていた。
騒然とする中で、ただ一人、ポリアンナだけが何も言わず、静かにその男を見つめ返していた。
【第四十六話 方舟】へ続く




