はじめての友達
朝日が、薄い霧の向こうからゆっくりと昇ってくる。
人気のない街道を、一人と一匹が歩いていた。
行き先は決めていない。北へ向かえば帝国がある。ならば南だと、ただそれだけの理由で足を進めていた。
「……《王域》」
日御子の瞳を淡い光がよぎる。
次の瞬間、周囲の地形が頭の中へ流れ込んできた。
街道。
森。
小川。
そして、その先にある小さな村。
「このまま進めば、今日は村へ辿り着けそうですの」
日御子は額へ手を当て、《王域》を解除すると、小さく息を吐いた。
(……快適ですの)
以前なら、能力を使うたびに頭の奥を締め付けるような痛みがあった。
あの頭痛がないだけで、こんなにも身体が楽だったのか。
そんな当たり前のことを、今になって知った。
◇
「……疲れましたの」
しばらく歩いたところで、日御子は街道脇の大きな岩へ腰を下ろした。
黒猫も当然のように隣へ飛び乗る。
「あなたは元気ですね」
「にゃあ」
尻尾を揺らしながら返事をする黒猫を見て、日御子は小さく息を吐いた。
鞄からパンを取り出し、半分に割って片方を差し出す。
「はい」
黒猫は待ちかねたように飛び付いた。
小さな口で懸命に頬張る姿を見ていると、自然と口元が緩む。
「ふふ……食べる時だけは、本当に素直ですの」
言葉など聞こえていないとばかりに、黒猫はパンを平らげ、満足そうに前足で口元を拭った。
「それ、相変わらずですの」
昔から、何ひとつ変わらない癖だった。
やがて軽く跳び上がり、肩の上へ当然のように収まる。
「そこが定位置ですね」
「にゃ」
薄い布越しに、温かな重みが伝わってくる。
それだけで、不思議と息がしやすくなる気がした。
その重みを感じながら、日御子は遠い日のことを思い出していた。
◇
「日御子」
あれは、まだ何も知らなかった頃。
王城の庭園で名を呼ばれ、振り返ると、母が大事そうに何かを抱えていた。
「ほら見てください」
腕の中から、小さな黒い塊が顔を出す。
「……ねこ」
「にゃ」
まだ手のひらに収まるほどの子猫だった。
「この子は、今日から日御子のお友達ですよ」
「おともだち……?」
母は優しく頷く。
「王女様は、お友達を作るのも大変でしょう? だから、お母様が連れてきました」
子猫は不安そうに周囲を見回している。
日御子も、少しだけ緊張しながら手を伸ばした。
「……触ってもいいですの?」
「もちろんですよ」
恐る恐る、小さな頭へ触れる。
柔らかい毛並み。指先へ伝わる温かさ。
子猫は嫌がるどころか、その手へ自分から頬を擦り寄せてきた。
「にゃ」
「あ……」
日御子の表情がぱっと明るくなる。
その様子を見て、母も嬉しそうに微笑んだ。
「仲良くなれそうですね」
「はい!」
幼い日御子にしては珍しいほど、大きな返事だった。
母は少し笑ってから、腕の中の子猫へ目を向ける。
「では、この子に名前を付けてあげてください」
「名前……」
日御子は子猫と目を合わせた。
向こうも、黒い瞳でじっと見返してくる。
しばらく悩んだ末に、日御子は小さく口を開いた。
「……ノワ」
もう一度、確かめるように呼ぶ。
「あなたは今日から、ノワですの」
「にゃ」
まるで返事をするように鳴いた。
「ふふっ」
幼い日御子は嬉しそうにノワを抱き上げる。
母はそんな一人と一匹を、穏やかな笑みを浮かべながら見つめていた。
あの日、母がくれたはじめての友達。
その友達だけが、今も隣にいる。
◇
「ノワ」
気付けば、その名前を口にしていた。
黒猫――ノワは耳をぴくりと動かし、日御子を見上げる。
「本当に、ずっと一緒ですの」
返事をするように膝へ飛び乗り、喉を鳴らしながら身体を預けてきた。
「ふふ……」
ほんの少しだけ、胸の奥が温かくなる。
けれど、その温もりは同時に、失ったものまで連れてきた。
母の笑顔。
父の笑顔。
城下町で笑っていた人々。
そして、燃え上がる王城と、革命の日に響いていた悲鳴。
記憶が次々と脳裏を駆け巡り、さっきまで浮かんでいた笑みが消えていく。
「違いますの……」
視界が滲んだ。
「本当は……消えてしまいたい」
掠れた声が、静かな街道へ溶けていく。
「そう思っていましたの。何も考えられないくらい苦しくて、ただ、この世界から消えてしまいたかった」
ノワを抱く腕に、ゆっくりと力が入った。
消えてしまえば、この苦しみから逃げられる。
何も考えなくて済む。
けれど、その先を思った瞬間、父の顔が浮かび、母の笑顔が浮かび、失われたヒノモトと、あの日泣いていた人々の姿が次々と蘇った。
「私は……お父様の仇ですの」
震える声が漏れた。
「お母様がくれたものを何ひとつ守れず、ヒノモトを……あんなことにした」
自分の口から出た言葉なのに、どこか遠くで誰かの罪を読み上げているように聞こえた。
「そんな人間が、消えて楽になるなんて……」
滲んだ視界を袖で拭う。
「死んで何もかも終わりにするなんて、そんな都合のいい逃げ方……許されるはずがありませんの」
膝の上で、拳が固く握られる。
父を奪ったことも、母から国を奪ったことも、あの日の悲鳴も、何一つ無かったことにはならない。
「……いいえ」
日御子は、小さく首を横へ振った。
「たとえ誰かが許したとしても、私が許しません」
その言葉だけは、迷いなく口から出た。
「私が……私をもっと苦しませなければいけませんの」
ノワは何も言わない。
ただ、いつもより強く、日御子の腕へ頬を擦り寄せた。
日御子は静かに目を閉じ、その温もりを感じながら細く息を吐く。
「だから……」
ゆっくりと目を開いた。
「死なせるわけにはいきませんの」
それが誰に向けられた言葉なのか、自分でも確かめようとはしなかった。
日御子はノワを抱き上げ、ゆっくりと立ち上がる。
「行きますよ、ノワ」
「にゃ」
一人と一匹は、再び歩き出した。
◇
山道を登るにつれ、木々は次第に深くなっていく。
「こんな場所に本拠地とはな」
街道からは見えず、迂闊に近付けば方角を見失う。見張りを二人も置けば、それで十分に守れる立地だった。
「悪くねぇ」
帝国軍人としての目が、思わずそう評価する。
やがて木々が途切れ、視界の先に一軒の建物が現れた。
「……ここか」
パルパティーンは足を止め、静かに見上げる。
想像していたものより、ずっと小さい。帝国が危険視する解放軍の本拠地とは思えないほど、質素な造りだった。
「妙な連中だ」
小さく呟き、入口へ歩み寄る。
コンコン。
二度、扉を叩いた。
返事はない。少し待ってみたが、やはり何も返ってこなかった。
「留守か?」
そう思ったが、建物の奥からは誰かの笑い声が漏れていた。続いて、何かが倒れる派手な音が響く。
人はいる。ただ、誰も出てこないだけだ。
「……チッ。面倒くせぇ」
パルパティーンは一歩下がり、右脚を振り抜いた。
ドォォンッ!!
凄まじい轟音とともに扉が吹き飛び、木片が室内へ散らばった。
◇
「なっ!?」
本部中に衝撃が走る。
最初に反応したのは鬼龍神だった。
「誰だァ!!」
怒鳴りながら立ち上がる。
土煙の向こうから、一人の男がゆっくりと中へ入ってきた。
腰に剣を帯び、鋭い眼光で室内を見渡している。大勢に囲まれても、一切臆する様子はない。
その顔を見た瞬間、アイザックの表情が変わった。
「……てめぇ」
低く沈んだ声が漏れる。
忘れるはずがない。
日御子を襲撃した男。ポリアンナが駆け付けるのがあと僅かでも遅ければ、あの夜、彼女はあの場で死んでいた。
握った拳を軋ませながら、アイザックは一歩前へ出た。
「アイザックさん」
ポリアンナの制止が飛ぶ。
それでも視線は外さない。
「何しに来やがった」
咲夜姫も椅子から立ち上がった。
「まさか……」
「びっくり」
もりやんが思わず目を見開く。
事情を知らないソリムドとアリスだけが、入口と仲間たちの顔を交互に見回していた。
「えっ? えっ?」
「知り合い……?」
誰も答えない。
張り詰めた空気の中、パルパティーンは前へ出たアイザックを一瞥しただけだった。
その視線が、部屋の奥にいる一人を捉える。
そして、不敵な笑みを浮かべた。
「よぉ……ポリアンナ」
部屋の空気が止まる。
ポリアンナは静かに目を見開いた。
「……あなたは」
パルパティーンは、その視線を正面から受け止める。
「お前に話がある」
【第四十五話 招かれざる客】へ続く




