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それぞれの道

 夜は静かだった。


 窓の外では、虫の声だけが響いている。


 日御子は机の前に座り、一枚の紙を見つめていた。


 昨日までは一文字も書けなかった紙を前に、今夜はゆっくりと筆を取る。震える手で、一文字ずつ綴っていった。


『皆さんへ』


 そこで、筆が止まる。


 何を書けばいいのか分からなかった。


 謝っても足りない。


 感謝しても足りない。


 どんな言葉を並べても、この胸の苦しさを伝えられる気はしなかった。


 それでも、書かなければならない。


『ごめんなさい。


 皆さんには、たくさん支えていただきました。


 これ以上、ご迷惑をお掛けしたくありません。


 少しだけ、一人で考えさせてください。


 本当にありがとうございました。』


 最後に『日御子』と名前を書き終えたところで、涙が一滴、紙へ落ちた。


 日御子は慌てて袖で拭き取る。


「……これでは読めませんの」


 少し滲んでしまった文字を見つめ、小さく息を吐いた。


 本当のことは、何一つ書けなかった。


 優しくされるたびに苦しいことも。


 このままでは、自分を許してしまいそうなことも。


 書けば、きっと引き止められてしまうから。


 その時だった。


「にゃー」


 黒猫が机へ飛び乗り、紙の横へ座って日御子を見上げる。


「また邪魔をするんですの?」


 苦笑しながら頭を撫でると、黒猫は気持ち良さそうに目を細めた。


「……行きますの」


「にゃ」


 まるで返事をするように、短く鳴いた。


◇


 まだ夜が明けきらない頃。


 本部の廊下を、一人と一匹が足音を殺して歩いていた。


 誰にも気付かれないように、日御子は玄関へ向かう。


 扉へ手を掛けたところで、足が止まった。


 振り返る。


 ここへ来てからの日々が、脳裏をよぎった。


 ポリアンナ。


 咲夜姫。


 アイザック。


 もりやん。


 のぶお。


 ふぉろんたいご。


 ふるーる。


 鬼龍神。


 アビス。


 ソリムド。


 アリス。


 笑い声も、怒った顔も、掛けてもらった言葉も、一つずつ浮かんでは消えていく。


「皆さん……」


 胸が締め付けられた。


 それでも、日御子はゆっくりと頭を下げる。


「本当に、お世話になりましたの」


 扉を開くと、ひんやりとした朝の空気が頬を撫でた。


 黒猫が先に外へ出る。


 少し歩いたところで立ち止まり、振り返った。


「あなたも来る気ですの?」


「にゃ」


 迷いのない返事だった。


 思わず、ほんの少しだけ口元が緩む。


「……変な子ですの」


 黒猫は満足そうに尻尾を揺らした。


 日御子は最後にもう一度だけ本部を見上げる。


「さようなら……」


 誰にも届かない声を残し、踵を返した。


 北には帝国がある。


 だから自然と足は南へ向いた。


 南に行き先があるわけではない。


 今はただ、ここから離れたかった。


 夜明けの街道を、一人と一匹は歩き始めた。


◇


「おっはよー!」


 朝一番、本部へ元気な声が響く。


「日御子ちゃん、朝ご飯持ってきたよー!」


 両手に盆を持ったアリスが、いつもの調子で廊下を歩いていく。


「今日はねー! ふるーるちゃん特製のおかゆ! リンゴも入ってるから、めっちゃ食べやすいよー?」


 コンコン。


「入るよー!」


 返事はない。


 アリスが扉を開ける。


「……あれ?」


 部屋は静まり返っていた。


 ベッドは空。


 黒猫の姿もない。


 机の上には、一枚の紙だけが置かれている。


「……日御子ちゃん?」


 返事はない。


 アリスはゆっくりと机へ近付き、盆を置いた。


「……え?」


 紙を手に取り、一文字ずつ目で追っていく。


 読み終える頃には、アリスの表情から笑顔が消えていた。


「うそ……」


 手の中で、紙が小さく震える。


 昨日、リンゴを食べてくれた。


 ほんの一口だけでも。


「日御子……ちゃん……?」


 力が抜け、その場へしゃがみ込む。


「また来るねって約束したのに……」


 手紙を胸へ抱き締める。


「置いてかないでよ……」


 毎日通えば、いつか届くと思っていた。


 返事がなくても、聞いていないように見えても。


 そのうち「うるさい」って言われるくらいになれると。


 届いていなかったのだろうか。


 それとも、届きすぎてしまったのか。


 その時、廊下から低い声が聞こえた。


「どうした」


 アイザックとソリムドが立っていた。


 部屋の様子を見るなり、アイザックが眉をひそめる。


「何があった?」


 アリスは答えられない。


 ただ、震える手で紙を差し出した。


 アイザックは無言で受け取り、急いで読む。


 そのまま、もう一度読み返した。


「……チッ」


 舌打ちが、静かな部屋に響く。


「探しに行く」


 アイザックは手紙をアリスの手へ押し付けるように返し、そのまま部屋を飛び出そうとした。


「待ってください」


 廊下の奥から、ポリアンナが姿を現した。


 いつもと変わらない穏やかな表情。


 だが、その目だけは僅かに揺れている。


 その後ろには、騒ぎを聞き付けた鬼龍神とふるーるの姿もあった。


 アイザックは振り返らない。


「止めるな!」


「止めます」


「今ならまだ追い付ける!」


「だからこそです」


 静かな声だった。


 けれど、その一言には迷いがなかった。


「今は、追うべきではありません」


 アイザックが振り返る。


「あ?」


「日御子さんは、皆さんにこれ以上迷惑を掛けたくないと思っている。それで、ここを離れたのでしょう」


「だから放っとけってのか」


「違います」


 ポリアンナは静かに首を横へ振った。


「私だって、今すぐ追いかけたい」


 その声が、僅かに揺れた。


「ですが、ここで追って連れ戻せば、日御子さんはもっと自分を責めます」


「……」


「皆さんにまた迷惑を掛けた、と」


 アイザックの拳が強く握られる。


 ポリアンナは続けた。


「今の日御子さんには、私たちの優しささえ重荷になっているのかもしれません」


「……あいつ、狙われてんだぞ」


 絞り出すような声だった。


「分かっています」


 ポリアンナは、アイザックから目を逸らさなかった。


「私の判断が、間違っているのかもしれません。それでも、ここを出ると決めたのは日御子さんです」


「その選択まで、私たちが奪うわけにはいきません」


 誰も何も言えなかった。


 ソリムドは俯き、静かに目を閉じる。


 アリスは手紙を胸へ抱いたまま、唇を噛んでいた。


「クソッ!」


 廊下の奥で、鬼龍神の拳が壁へ叩き付けられた。


 鈍い音が響き、小さなひびが走る。


 拳からは血が滲んでいた。


 ふるーるは机へ歩み寄り、盆のおかゆへ目を落とす。


 まだ温かい。


 湯気がゆっくりと消えていく。


 ぽたり。


 一粒の涙が器へ落ちた。


「やっと……」


「やっと食べてくれたのに……」


 静かな嗚咽だけが漏れた。


 ポリアンナは皆を見回す。


 そして、小さく息を吸った。


「……信じましょう」


 それは仲間へ向けた言葉のようで、自分自身へ言い聞かせているようにも聞こえた。


「今は、それしかありません」


 誰も答えなかった。


 ただ、消えていく湯気だけが、静かな部屋に残っていた。


◇


 乾いた風が街道を吹き抜ける。


 眼帯の男が、大剣を肩へ担ぎながら歩いていた。


 パルパティーンだった。


 帝国を飛び出してから、もう随分になる。


 リリアナの隣にいても、何も変えられなかった。


 だから外へ出た。


 だが、自分に何が出来るのかは、未だに分からない。


 行く当ても答えもないまま、ただ歩き続けていた。


◇


 夕暮れ。


 小さな町へ辿り着き、酒場へ入って空いていた席へ腰を下ろす。


「エール」


 短く注文する。


 酒が運ばれてきても、ゆっくり飲む気にはなれなかった。


 一口だけ喉を潤した時、近くの席から旅人たちの話し声が聞こえてきた。


「聞いたか?」


「帝国軍がやられたらしいぞ」


「相手はどこだ?」


「NKJとかいう連中だ」


「ああ、たしか解放軍だろ?」


「帝国も随分痛い目を見たらしい」


 パルパティーンの手が止まる。


「……NKJ」


 小さく、その名を繰り返した。


 脳裏に浮かぶのは、一人の男。


 冷静沈着で、一切の隙を見せなかった軍師。


 ポリアンナ。


「あの【革命の設計者】の……NKJか」


 以前、一度だけ剣を交えた相手だ。


「……無ぇな」


 短く吐き捨て、酒を飲み干して席を立った。


◇


 宿へ戻ると、パルパティーンは荷物を床へ置き、椅子へ腰掛けた。


 最近まで敵だった相手だ。


 信じられる保証など、どこにもない。


 それでも、酒場で聞いた言葉が頭から離れなかった。


『帝国も随分痛い目を見たらしい』


「あいつら……」


 腕を組んだまま目を閉じる。


 帝国と正面から渡り合える相手を思い浮かべれば、候補は一つしかなかった。


「あのポリアンナなら、あるいは……」


 そこまで口にして、苦笑する。


「……馬鹿らしい」


 敵だった相手を頼るなど、少し前の自分なら考えもしなかった。


 答えがあるとは限らない。


 歓迎される保証もない。


 それでも、他に確かめるべき場所は思い浮かばなかった。


 しばらく天井を見つめたあと、パルパティーンは深く息を吐いて立ち上がる。


「考えてても答えは出ねぇな」


 荷物を肩へ担ぎ、扉へ手を掛けた。


「……とりあえず、行ってみるか」


 男は静かに宿を後にした。


 それぞれが、それぞれの答えを求めて、違う道を歩き始めていた。



【第四十四話 はじめての友達】へ続く


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