それでも世界は
朝の食堂は、いつも通り騒がしかった。
「ふるーるさん! おかわり!」
「鬼龍っちパイセン、それ五杯目!」
アリスが空になった器を取り上げる。
「まだいける!」
「はい却下ー。朝から飛ばすと午後死ぬよ?」
「見た目より若ぇから平気!」
「マジで意味分かんないんだけど」
鬼龍神の器を遠ざけ、アリスは隣で朝食を口へ運ぶアイザックへ視線を向けた。
「で、そっちは昨日何時に寝たん?」
「あん?」
「アイザック、目の下にクマ出来てる」
「気のせいだろ」
「いや、ガチ」
顔を背けたアイザックの正面へ回り込む。
「今日は絶対、早く寝ること」
「……はいはい」
「はいは一回」
「……はい」
「おっしゃ」
満足そうに頷くアリスを見て、鬼龍神が吹き出した。
「ははは! アイザックが怒られてやんの!」
その拍子に、鬼龍神が僅かに右肩をかばう。
アリスの目が細くなった。
「人のこと笑ってる場合じゃねーっスよ」
「え」
「昨日の肩。まだ痛いんしょ?」
「もう治った!」
「んなわけ」
「……」
「湿布、貼り替えまーす」
「えぇ……」
鬼龍神が露骨に肩を落とす。
「子どもじゃないんスから、そんな顔しないの」
アリスはそれ以上取り合わず、食堂の隅の席へ目を向けた。
「咲夜ねーさん」
「……」
咲夜姫は資料へ視線を落としたまま、ひたすら文字を書き続けていた。
アリスはその机へ近付き、資料の隣へサンドイッチとスープを置く。
「ありがとうございます。後で食べます」
「ダメ」
「今、忙しいので」
「知ってる。でも五分」
「……」
「お願い、五分だけ」
咲夜姫の筆が止まった。
小さく息を吐き、観念したように資料を閉じる。
「……いただきます」
「オッケー!」
その様子を見ていたポリアンナが小さく笑った。
「皆さん、アリスさんには敵いませんね」
「患者さんが今日を生きるお手伝いをするのが、あーしの仕事だから!」
アリスは胸を張った。
その笑顔は、いつも通り底抜けに明るい。
斬られた傷なら塞げる。折れた骨も繋げられる。
でも、日御子の傷はどこにもない。
どこを治せばいいのか、分からなかった。
アリスの視線が、ふと廊下の奥へ向く。その先には、日御子の部屋がある。
食堂の空気が、ほんの一瞬だけ静まった。
誰も何も言わない。
それでも、皆が同じことを考えていた。
ポリアンナが静かに息を吐く。
「今日も……駄目でした」
誰に向けた言葉でもない、小さな呟きだった。
その空気を振り払うように、アリスは大きく手を叩く。
「はいはい! 暗い顔しなーい!」
皆がアリスを見る。
「患者さんの前で暗い顔は禁止!」
「まずは自分達がちゃんと食べて、ちゃんと寝て、ちゃんと笑う!」
「それが一番!」
明るく笑うアリスの手が、白衣の裾を強く掴んでいた。
誰も、そのことには触れなかった。
◇
昼前。
食事を載せた盆を手に廊下を歩いていたアリスは、向こうから来たソリムドと鉢合わせた。
「あ、おはよー」
「おはようございます」
ソリムドは、アリスが持つ盆へ目を向けた。
「今日も行きますか?」
「もちろんっしょ!」
「では、僕も」
「あざっす!」
アリスがぺこりと頭を下げる。
「あー、でもさ。あーし一人で喋ってるだけなんだけどね」
「それでも行きます」
ソリムドは躊躇なく答えた。
「……そっか」
アリスは顔を上げ、いつもの調子で笑う。
「うっし、じゃあ今日もやったりますかー!」
◇
コンコン。
「失礼しまーす」
アリスが扉を開け、ソリムドも続いた。
部屋は昨日と何も変わっていない。
ベッドの上では、黒猫が日御子の隣で丸くなっていた。
「また先越されたぁ。この子、あーしより勤務時間長いじゃん」
アリスは笑いながら机へ食事を置く。
「お昼だよー。今日は、ふるーるちゃん特製! 栄養満点ハンバーグ!」
温かな湯気と香ばしい匂いが、静かな部屋へ広がった。
「絶対美味しいから!」
返事はない。
「ふるーるちゃん、朝からずーっと作ってたんだよ」
アリスは日御子の額へ触れ、呼吸と顔色を確かめる。
熱もなく、容態が悪化した様子もない。
ただ、生きようとする力だけが抜け落ちているようだった。
胸に浮かんだ言葉を飲み込み、アリスは明るい声を保つ。
「ちょっと空気入れ替えるねー」
窓を僅かに開けると、柔らかな風が部屋へ流れ込んだ。
アリスは椅子へ腰掛け、今日も話し始める。
「鬼龍っちパイセンは朝から五杯目いこうとするし、アイザックは寝不足を隠そうとするし」
「咲夜ねーさんまで、ご飯そっちのけで資料読んでるし」
「マジで、手のかかる人しかいないんだけど」
日御子は動かない。
それでもアリスは、時々笑いながら十分ほど話し続けた。
今日も皆が生きていることを、日御子へ届けるように。
「……ま、今日もいろいろあったんだよ」
アリスは最後まで笑顔を崩さなかった。
「また明日来るねー」
ソリムドも日御子へ一礼する。
「また来ます」
日御子は、今日も何も答えなかった。
◇
扉が閉まる。
アリスはその場で立ち止まり、一度だけ俯いた。
「……今日もダメかぁ」
ソリムドは何も言わず、隣に立っていた。
やがてアリスは顔を上げ、少しだけ寂しそうに笑う。
「ねぇねぇ、ソリムドっち。日御子ちゃん、いつになったら笑ってくれるかな?」
ソリムドは少し考える。
「分かりません」
「それもそっかー」
アリスは自分の両頬を軽く叩き、歩き出した。
「あーし、諦める気ないから。毎日行って、毎日喋る。返事がなくても」
日御子の部屋を振り返る。
「そのうち『うるさい』って言われたら勝ち!」
ソリムドは小さく笑った。
「その日が来ると良いですね」
「うん!」
アリスは大きく頷き、そのまま廊下を歩いていった。
◇
夕方。
厨房へ戻された昼食の皿は、ほとんど手つかずだった。
ふるーるは冷めたハンバーグを見つめ、少しだけ肩を落とす。
「今日も食べてもらえなかったねぇ」
帳簿を確認していたふぉろんたいごが、戻ってきた皿へ目を向けた。
「しばらく、日御子さんの食費は気にしなくていいです」
「え?」
「食べられるものを優先してください」
ふぉろんたいごは帳簿を閉じる。
「予算は私が何とかします」
ふるーるは、わざと明るい声を出した。
「やるじゃん、太っ腹! 伊達にお腹ぽっこりしてないな!」
「誰がデブですか!」
そのやり取りを見ていたアイザックが、小さく笑った。
「財布が泣いてるっすね」
「そんなもん、泣かせておけばいいんです」
ふぉろんたいごは帳簿を脇へ抱えた。
「今は、日御子さんの方が大事です」
食べてもらえないかもしれない。
それでも、ふるーるは鍋へ向き直った。
「おいしくなーれ」
誰に聞かせるでもなく呟き、願いを込めて鍋をかき混ぜ続けた。
◇
その頃。
統天帝国エテルナ、軍務局本部。
レオンは執務机へ地図を広げ、保護した子どもの聞き取り記録と見比べていた。
「こちらへの照会も、お願いします」
指で示した地域を、机の向かいに立つ部下が書き留める。
「隣の領までですか?」
「川に大きな橋が二つあったそうです。それと、家から水車が見えたと。この辺りなら、両方あります」
部下は地図へ目を落とし、小さく頷いた。
「確認します」
「まだ帰る場所が分からないだけだと、あの子にも伝えてください。帰れない、とは思わせたくありません」
「承知しました」
部下が書類を揃え、一礼して退出する。
入れ替わりに、扉の前で待っていた男が入ってきた。
「随分と、手を掛けているんですね」
エラスムスだった。
レオンは地図から顔を上げる。
「ご用件は?」
「軍務局長への報告書です。ご不在でしたので、お預けしても?」
「分かりました」
差し出された封書を受け取り、父へ渡す書類の上へ置く。エラスムスの視線が、机に広げられた地図へ動いた。
「まだ、あの施設を調べているのですか」
「ええ。ただ、今のは保護した方の帰還手続きです」
「それは担当へ任せたはずでしょう」
「帰宅の報告が一人分、届いていなかったので」
レオンは聞き取り記録を閉じた。
「研究についても、調査は続けています」
エラスムスが眼鏡を押し上げる。
「先日の会議では、軍務局長も明確に反対されました。あとは上の判断を待つべきでは?」
「研究を止めるとは、誰も言いませんでした」
「帝国の戦力に関わる話です。貴方が諜報局を探り続ければ、お父上のお立場にも影響しますよ」
レオンは父の書類へ一度だけ目を向け、それからエラスムスへ視線を戻した。
「父上を困らせたいわけではありません。ですが研究のために、また誰かが連れて来られるなら、見過ごすことはできません」
「その研究が帝国を強くし、戦争を早く終わらせるとしてもですか?」
レオンは、机の上の聞き取り記録へ目を落とした。
「それで救われる人がいる可能性は、否定できません」
記録の端には、帰宅先が未確認であることを示す印が残っている。
「ですが、ほかの方法を探す前に、この人たちを犠牲にしていい理由にはならないでしょう」
エラスムスは何も言わなかった。
「帝国の力を増すために、何人までなら犠牲にしていいのか。私は、その数を決めるために軍へ入ったのではありません」
「調査をやめるつもりはありません。君の関与についても、確かめます」
「……私からは、何もお話しできません」
「ですから、自分で調べます」
しばらくして、エラスムスは小さく息を吐き、眼鏡へ指を添えた。
「貴方は、本当に昔から変わりませんね」
「君は変わりましたか?」
眼鏡へ添えられていた指が止まる。
レオンは返事を待った。だが、エラスムスは視線を逸らし、扉へ向かった。
「報告書は、確かにお渡ししました」
「ええ」
扉が閉まり、執務室に静けさが戻る。
レオンはしばらく扉を見つめていたが、やがて地図へ向き直った。部下が戻るまでに、もう少し候補を絞っておきたかった。
◇
一方。
統天帝国エテルナ、諜報局。
その執務室で、リリアナは報告書を最後まで読み、静かに閉じた。傍らには、報告書を届けた部下が控えている。
「……ユリウス」
長年、自分を支え続けてくれた、誰よりも優秀で忠実な部下だった。
「惜しい人材を失いました」
「ユリウス様が担当されていた案件ですが、予定より遅れております」
「そうですね。彼でなければ務まらない役割でした」
報告書を机へ置く。
「計画の再構築が必要ですね」
そこへ別の部下が入室し、新たな報告書を差し出した。
「失礼します。特務局より連絡です」
「パルパティーン様ですが、現在も消息不明とのことです」
リリアナは顔を上げる。
「……まだ戻っていないのですか」
「はい」
任務に出ているという報告すら届いていない。
「一体どうしたのでしょう……」
幼い頃から知る、兄のような存在だ。何も告げずに姿を消すような人ではない。だからリリアナは、何かに巻き込まれたのだと考えた。彼がいなくなった理由が自分にあるなど、思いもしなかった。
「捜索を続けてください」
「承知しました」
再び静かになった部屋で、リリアナは二冊の報告書を見つめる。
失った部下と、戻らない兄のような男。
「何もなければ良いのだけれど……」
パルパティーンがもう帝国へ戻るつもりなどないことを、リリアナはまだ知らなかった。
【第四十二話 優しさの刃】へ続く




