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朝が来ても

 朝日が、静かに部屋を照らしていた。


 カーテンの隙間から差し込む光が、床の上をゆっくりと這っていく。


 日御子はベッドに横たわったまま、天井を見つめていた。


 眠れたのか。


 眠れていないのか。


 それすら、自分でも分からない。


 身体は重く、指一本動かすことさえ遠い出来事のように思えた。


 時計の針だけが、規則正しく時を刻み続けている。


 コンコン。


 控えめなノックが響いた。


「日御子さん。朝ですよ」


 ポリアンナの声だった。


 返事はない。


「朝食をお持ちしました」


 静かに扉が開く。


 部屋へ入ったポリアンナは、小さく息を呑んだ。


 昨日と何一つ変わっていない。


 ベッドに横になったままの姿。


 虚ろな瞳。


 呼吸だけが、日御子がまだそこにいることを示していた。


 ポリアンナは朝食を載せた盆を抱えたまま、しばらく立ち尽くす。


「……少しだけでも、食べませんか?」


 返事はなかった。


「皆、心配しています」


 反応はない。


「焦らなくても大丈夫です」


 口にした直後、ポリアンナは唇を閉ざした。


 違う。


 こんなありきたりな言葉を掛けたいわけではない。


 けれど、何を言えばいいのか分からなかった。


 何を言えば、この少女のいる場所まで届くのか。


 答えが見つからない。


 ポリアンナは朝食を机へ置き、水の入った杯をベッドの近くへ寄せた。


 手を伸ばしかける。


 だが、日御子へ触れることもできず、その手を下ろした。


「……また来ます」


 扉が閉まる。


 廊下へ出たポリアンナは、その場で足を止めた。


 握った拳へ、力が入る。


「私は……」


 小さく息を吐く。


「盟主失格ですね……」


 誰にも聞こえない、小さな独り言だった。


◇


 時計の音だけが響いている。


 どれくらい時間が経ったのか分からない。


 窓から差し込んでいた朝日は、いつの間にか部屋の中央まで伸びていた。


 ポリアンナの声は聞こえていた。


 心配してくれていることも分かっている。


 けれど、それに応えるための何かが、自分の中に残っていなかった。


 喉は渇いている。


 すぐ近くに水があることも分かっている。


 それでも、手を伸ばそうという考えが起きない。


 腹も空いていた。


 身体はまだ、生きるために水や食べ物を求めている。


 そのことさえ、苦しかった。


 自分だけが、まだ生きようとしている。


 そんな気がした。


 食べる資格などない。


 飲む資格もない。


 何かを望む資格など、もうない。


 日御子は天井を見つめたまま、瞬きもせずにいた。


 もう、消えてしまいたかった。


◇


 昼。


 再びノックが響いた。


「入るぞ」


 返事を待たず、アイザックが部屋へ入ってくる。


 日御子は朝と同じ姿勢のままだった。


 机の上の朝食へ目を向け、アイザックが僅かに眉を寄せる。


 何か言いかけて、やめた。


 代わりに、小さな箱を朝食の隣へ置く。


「甘いもん好きだったろ」


 蓋の隙間から、焼き芋の甘い匂いが漂った。


 日御子の瞳は、天井を見つめたまま動かない。


「腹減ったら食え」


 沈黙。


 アイザックは頭を掻いた。


 口を開く。


 閉じる。


 もう一度何か言おうとして、結局やめた。


「……じゃあな」


 扉を閉め、部屋を出る。


 数歩進んだところで足を止めた。


 壁へ拳を軽く押し当てる。


「……何で」


 歯を食いしばる。


「何で俺は、こんなことしか思いつかねぇんだ……」


 そのまま、しばらく動けなかった。


◇


 午後。


 部屋の前へ、のぶおがやって来た。


 扉の前で足を止め、ノックをしようと手を上げる。


 だが、指先が扉へ触れる寸前で止まった。


 何を言えばいいのか。


 どんな顔をして入ればいいのか。


 答えが出ないまま、のぶおはゆっくりと手を下ろした。


 結局、扉を開けることはできなかった。


 その少し後。


 鬼龍神が勢いよく廊下を歩いてくる。


「日御子!」


 いつもの調子で扉へ手を掛ける。


 けれど、その手が止まった。


「修行でも連れて行ってやろうと思ったんだけどな!」


 返事はない。


 扉の向こうからは、何の音も聞こえなかった。


 鬼龍神は大きく息を吸い、ゆっくり吐く。


「……また来るからな!」


 先ほどよりも少しだけ抑えた声で告げ、立ち去った。


 最後にもりやんがやって来た。


 ノックはしなかった。


 ただ一通の封筒を、扉の下の隙間からそっと差し入れる。


 表には、一言だけ書かれていた。


『返事はいらないよ』


 もりやんはしばらく扉を見つめ、それ以上何もせず、その場を後にした。


◇


 夕方。


 軽快な足音が廊下へ響く。


 コンコン。


「失礼しまーす!」


 明るい声とともに、一人の少女が部屋へ入ってきた。


 明るい茶髪。


 制服の上から白衣を羽織った十八歳の少女。


 NKJ専属看護師のアリスだった。


「あーし、今日から日御子ちゃん担当ねー!」


 日御子は動かない。


「とりま、返事なくても全然オッケー!」


 アリスは足元にあった封筒を拾い上げ、机の上へ置いた。それから、いつもの調子を崩さず、室内へ視線を巡らせた。


 朝食。


 水。


 焼き芋。


 どれにも手がついていない。


 それを口には出さず、日御子の手首へ指を添える。


 脈を確かめ、杯の水を新しいものへ替えてから、椅子へ腰を下ろした。


「いやー、今日さぁ。アイザック、厨房で焼き芋何個も隠してるのバレて怒られててさー」


 くすくすと笑う。


 反応はない。


 アリスは気にしない。


「あーしも今日、採血した子に『痛い!』って怒られちゃってさ」


「いやいや、注射なんだからそりゃ痛いって! って思わず笑っちゃった」


 返事はない。


「あれ、面白くなかった?」


 少しだけ首を傾げる。


「……ま、いっか」


 それからもアリスは、取り留めのない話を続けた。


 返事を待たない。


 笑ってほしいとも言わない。


 沈黙を埋めようと焦ることもなかった。


 ただ、いつもの日常をその部屋へ持ち込むように話し続けた。


 十分ほど経つと、アリスは立ち上がった。


 掛け布団を整える。


 枕を直し、眩しくないようカーテンを少しだけ閉めた。


「返事なくてもさー」


 アリスがベッドの脇で笑う。


「聞こえてるって思って話してるから」


 日御子は動かない。


「んじゃ、今日は帰るね」


 扉へ向かう。


「また明日!」


 最後まで明るい声だった。


 扉が閉まった後も、その声だけが耳の奥に残っていた。


 日御子には、それに応えることができなかった。


◇


 日が傾く頃。


 控えめなノックが響いた。


「失礼します」


 ソリムドだった。


 部屋へ入ると、何も尋ねず、ベッドの横の椅子へ座る。


 椅子が床を擦る音。


 静かな呼吸。


 窓から差し込む夕日だけが、ゆっくりと部屋を染めていく。


「無理に話さなくて大丈夫です」


 しばらくして、ソリムドが口を開いた。


「僕は明日も来ます」


「明後日も来ます」


「返事がなくても来ます」


 それきり、何も言わなかった。


 言葉を待っているわけではない。


 反応を求めているわけでもない。


 ただ、そこにいた。


 日御子には、隣に誰かがいることが分かっていた。


 その存在は届いている。


 けれど、顔を向けることも、声を返すこともできなかった。


 やがてソリムドが静かに椅子を引く。


「また来ます」


 それだけ告げて、部屋を出て行った。


 扉が閉まり、再び静寂だけが残る。


◇


 夜。


 いつの間に入ってきたのか。


 黒猫は当然のようにベッドへ飛び乗り、日御子の隣で丸くなった。


 温かな身体を、そっと寄せる。


 それが当たり前の日課だった。


 日御子は猫を見ることも、撫でることもできない。


 それでも、その温もりだけは分かった。


 部屋の外から、誰かの笑い声が聞こえてくる。


 世界は今日も動いている。


 朝が来て。


 昼になって。


 夕方が過ぎ。


 夜になった。


 それでも、日御子の時間だけは、あの日から止まったままだった。


 机の上には冷え切った朝食と、昼に置かれた焼き芋と、封の切られていない封筒。


 どれも手つかずのまま、それでも日御子に明日を迎えてほしいという願いだけは、部屋の中に残っていた。


 そのことは分かっている。


 皆が自分を気遣ってくれていることも。


 何とかしようとしてくれていることも。


 全部、分かっている。


 だからこそ。


 苦しかった。


 こんな自分のために。


 まだ誰かが心配してくれている。


 まだ誰かが明日を願ってくれている。


 その優しさに、何一つ返せない。


 部屋は暗い。


 時計だけが、規則正しく時を刻んでいた。


 日御子はようやく身体を動かした。


 ほんの僅かに身を丸める。


 震える指先で、自分の胸元を掴んだ。


 苦しい。


 息が詰まる。


 昼間には流れなかった涙が、今になって静かに頬を伝った。


 唇が小さく震える。


 誰にも聞こえないほどの声で。


「……生きてて、ごめんなさい」


 その言葉だけが、静かな部屋へ消えていった。



【第四十一話 それでも世界は】へ続く


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