終わりの先へ
崩れた外壁の残骸と、荒れた庭。ところどころに倒れた帝国兵が横たわり、月明かりだけが静まり返った庭を照らしていた。
日御子は地面に膝をついたまま、血だらけだった。肩、腕、太腿。全身が悲鳴を上げている。もう立ち上がる力すら残っていない。
ユリウスの手が差し伸べられる。
昔、何度も見た手だった。転んだ時、泣いた時、困った時。いつも差し伸べられた手。従者であり、護衛であり、家族のような存在だった、ユウマの手。
だが、もう違う。全てを知ってしまった。思い出したくなかった記憶まで。
日御子は小さく首を振る。
「嫌ですの」
ユリウスの動きが止まった。
「姫様」
「嫌ですの」
もう一度、今度ははっきりと。
「絶対に、嫌ですの」
ユリウスが困ったように笑った。まるで聞き分けのない子供を見るように。
「何故です。もう終わったではありませんか。父王も、ヒノモトも、全て片付きました。ならばこれからは――」
「黙りなさい」
日御子はその言葉を遮った。
「……姫様?」
日御子は顔を上げる。黄金の瞳に宿っていたのは、怒りでも憎しみでもない。ただ、決意だった。
「終わっていません。何も、終わっていませんの」
ユリウスが一歩近付く。
「姫様、ご安心ください。お仲間達も、すぐに理解してくださいます」
穏やかな声だった。だが、その言葉の意味を、この場の全員が理解していた。
洗脳。認識改変。また同じ事を繰り返すつもりなのだ。
ポリアンナが歯を食いしばる。だが近付けない。触れられれば終わる。それを知っている。
ユリウスはさらに歩み寄った。
「大丈夫です。今度こそ守ります。誰にも傷付けさせません。姫様だけは」
その瞬間、日御子の中で何かが切れた。
「違いますの」
小さな声だった。ユリウスが眉をひそめる。
「違いますの」
もう一度、日御子は呟いた。
「私のためなんかじゃない」
ユリウスが止まる。
日御子は震える手を伸ばし、地面に落ちていた剣を握った。血で滑りそうになる柄を、それでも離さない。
「全部、あなた自身のためです」
ユリウスは何も答えなかった。否定もしない。肯定もしない。ただ静かに、日御子を見つめていた。
「姫様」
やがて、優しく言う。
「たとえそうでも、私は貴女を守ります」
そして、手を伸ばした。捕まえるために。連れて帰るために。今度こそ失わないために。
その瞬間、日御子が動いた。
残された力の全てを振り絞り、日御子は立ち上がった。
ユリウスの目が見開かれる。
遅かった。いや、もしかしたら間に合ったのかもしれない。
剣が走る。月光を裂く。そして、深く、深く、ユリウスの胸を貫いた。
時間が止まる。
ユリウスが自らの胸へ視線を落とす。
深々と突き刺さった剣。その傷口から、血が止めどなく溢れていた。
致命傷だった。
日御子は震える声で言った。
「父上のために。ヒノモトのために。そして、私自身のために」
涙が零れる。
「あなたを討ちますの」
◇
ユリウスは、静かに笑った。
「そうですか」
血を吐く。だが、どこか満足そうだった。
「お見事です、姫様」
ユリウスの身体が揺れ、膝が崩れ、地面へ倒れ込む。胸から血が溢れていた。
それでも、ユリウスは日御子から目を離さない。黄金の瞳を、ただ静かに見つめていた。
「姫様……」
口元から血が零れる。意識が遠のくにつれて、視界もゆっくりと滲んでいった。
月明かり。涙。黄金の瞳。
その姿が、少しずつ重なっていく。
幼い少女。笑顔。小さな手。守れなかった存在。
「……あぁ」
ユリウスが小さく笑った。
どちらなのか、もう分からない。目の前にいるのは、日御子なのか、妹なのか。
「ごめんな」
掠れた声だった。
「守れなくて」
血が溢れる。呼吸が苦しい。それでも、言葉だけは止まらなかった。
「ごめんな。もう……もう守ってやれない」
伸ばした手が地面へ落ちる。その指先に、名も知らぬ小さな花が一輪、そっと触れていた。
もう動かない。
ユリウス。
その命の灯火は、静かに消えた。
◇
誰も動かず、誰も言葉を発しなかった。ただ、夜風だけが静かな庭を吹き抜けている。
日御子は剣を握ったまま立ち尽くし、ユリウスの亡骸を見下ろしていた。
終わった。
終わったはずだった。
父王の仇。ヒノモト王国を滅ぼした男。全ての元凶だと思っていた男を、討ったのだ。
なのに、胸の奥が苦しい。息が出来ない。
真実を知ってから、ユリウスを討つという目的が、日御子を辛うじて立たせていた。
だが、それも終わった。
カラン。
剣が落ちた。その音で、日御子の意識が現実へ引き戻される。
血。死体。夜風。月明かり。
そして、記憶。
父上。
優しく笑う顔。
革命の日。
歓声。
拳を掲げる自分。
玉座の間。
振り下ろした刃。
父上の最期。
全部。全部。全部。
一気に流れ込んできた。
「あ……」
声が漏れる。
「ぁ……」
呼吸が出来ない。
頭が痛い。
胸が苦しい。
世界が回る。
「嘘ですの……」
小さな声が震えた。
首を振る。
何度も、何度も。
「そんな……」
父上の顔。父上の声。父上の最期。
『日御子』
「やめてください……」
日御子が頭を抱える。
『辛かったな』
「やめて……」
涙が溢れる。
『帰ってこい』
「やめてぇ……」
限界だった。
もう、支えられない。
張り詰めていたものが切れる。
「嫌だ」
小さな声。
「嫌……」
そして。
「嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
絶叫が夜空へ響く。全員が凍り付いた。
「嫌!」
「嫌!」
「嫌だぁぁぁぁぁぁ!!」
頭を抱える。
涙が止まらない。
身体が震える。
ポリアンナが駆け出した。
「日御子さん!」
その身体を強く抱き締める。腕の中で、日御子は今にも壊れてしまいそうなほど震えていた。
だが、止まらない。
「違います! 違いますの!」
「私は……!」
言葉が続かない。続けられない。だって、全部本当だから。
「誰か……」
掠れた声に、ポリアンナが息を呑む。
「誰か……助けて……」
アイザックは血が滲むほど強く拳を握り、鬼龍神は俯いた。
もりやんは泣いていた。
他の仲間たちも、誰一人として言葉を見つけられなかった。
「苦しい……息が……できないの……」
ポリアンナはただ、日御子を抱き締め続けた。
何も言えない。何も出来ない。
それでも、離すことだけはしなかった。
日御子の叫びは止まらない。
やがて夜が明け、東の空が白み始める。
それでも。それでも。
少女の悲鳴だけが響いていた。
第一部 完




