歪んだ想い
黄金の瞳が瞬く。
《天照の鏡》は止まらない。
革命の日を越え、そのさらに前へ。もっと昔へ、もっと古い記憶へと遡っていく。
◇
日御子の視界が変わった。
そこは、見たことのない小さな村だった。
青い空の下には緑の草原が広がり、花畑を柔らかな風が揺らしている。その穏やかな景色の中に、一人の少年がいた。
「兄様!」
黒髪の少女が、屈託のない笑顔で駆け寄ってくる。少年の手を掴み、嬉しそうに声を弾ませた。
「見てください! 綺麗なお花です!」
「昨日も見たよ」
少年は苦笑したが、その表情は優しかった。
少女が頬を膨らませる。
「昨日と今日では違うのです!」
「そういうものなの?」
「そういうものです!」
胸を張る少女を見て、少年が小さく笑った。
その笑顔に、日御子は息を呑む。
知らない。見たこともない。
それでも、理解できた。
これはユリウスだ。
まだ何も失っていなかった頃の、ユリウス。
記憶はそのまま流れていく。
村祭りの日、並んだ屋台を前に、少女が一つの店をじっと見つめていた。
「あれが食べたいです」
「さっきも食べただろう」
「別腹というらしいです」
「何だそれは」
「分かりません!」
元気よく答える少女に、少年は呆れたように息を吐いた。それでも最後には二人で笑い、祭りの喧騒の中を並んで歩いていく。
二人とも、この日々が終わるなどとは思っていなかった。
◇
夕暮れ。
二人は丘の上に座っていた。
茜色の空を見上げていた少女が、ふいに口を開く。
「兄様」
「ん?」
「兄様は優しいですね」
少年が眉をひそめた。
「突然どうしたの?」
「だって、いつも私を守ってくれるから」
風が吹き、足元の花が揺れる。
少女は笑った。
「だから私も、兄様を守ります」
少年が吹き出す。
「何をしてくれるんだか」
「いっぱい出来ます!」
「例えば?」
少女は少し考え、自信満々に作ったばかりの花冠を差し出した。
「花冠をあげます!」
「それはあまり役に立たないな」
「役に立ちます!」
「でも、ありがとう」
二人の笑い声が丘に響いた。
その光景を見ながら、日御子の胸が締め付けられる。
まだ見ていないのに、この記憶の先に何が待っているのかを知っているような、嫌な予感だけが残った。
◇
空が赤く染まっていた。
夕焼けではない。
炎だった。
村が燃えている。
悲鳴と怒号が入り交じり、剣戟の音があちこちから響いていた。ほんの少し前までそこにあった平穏は、跡形もなく壊されている。
「兄様!」
少女の叫び声。
少年が振り返る。
人の波と煙、その向こうで炎が揺れている。
少女の姿が見えない。
「――っ!」
少年は駆け出した。
何度も名前を呼びながら人の間を縫い、煙の中を走る。転んでもすぐに立ち上がり、炎が広がる村の中を探し続けた。
返事はなかった。
そして、燃え落ちた家屋の陰で、ようやく見つけた。
少女が倒れている。
少し離れた場所には、あの花冠が落ちていた。
少年は膝をつき、震える手で少女の肩へ触れた。
冷たい。
信じられなかった。認められなかった。
「兄様」
聞こえるはずのない声が聞こえた気がした。
いつものように笑う少女の姿が一瞬だけ重なる。
現実には、もう何も残っていない。
少年の唇が震えた。
声にならなかった。
叫びすら出ない。
それでも叫び続けた。
やがて、喉の奥から押し潰されたような慟哭が漏れた。
少女の亡骸を抱き締める。離せば、本当に消えてしまうかのように。
日御子は見ていた。
少年の瞳から、光が失われていく瞬間を。
記憶はさらに続いた。
小さな墓と、花の供えられた石碑。その前に、ユリウスが一人で座っている。
どれほどの時間が過ぎたのか分からない。ただ、季節が変わり、景色が移ろっても、彼は何度もそこを訪れていた。
「……守れなかった」
小さな声が落ちる。
返事はない。
ユリウスは墓石へ手を触れた。壊れ物を扱うように、優しく。
「約束したのにな」
守ると、そう言った。
それなのに、守れなかった。
◇
さらに年月が流れる。
青年になったユリウスの瞳に、かつての面影はほとんど残っていなかった。
帰る場所を失った彼は流れ者となった。傭兵や伝令、雑用まで、生きるために何でもした。
その旅の中で、ユリウスは多くの死を見た。
国のために戦う者。
家族のために剣を取る者。
平和を願いながら、誰かを殺す者。
誰もが、自分なりに正しいと信じていた。
それでも、人は死んだ。
守りたいものがあっても、守れない。
正しいと信じても、それで誰かが救われるとは限らない。
そんな光景を繰り返し見るうちに、ユリウスの中に残っていたものが、少しずつ削れていった。
「正義は人を救わない」
誰に向けた言葉でもなかった。
「正しさは、誰も守らない」
空を見上げても、答えはなかった。
戦乱の中を生き延びたユリウスは、やがて帝国へ辿り着く。
帰る場所も、守るべき人もいない。
そんな彼を、帝国は諜報員として迎え入れた。
人の心の動きを読み、懐へ入り込み、相手の認識を望む方向へ導く才能。ユリウスはそれを武器に、帝国内で頭角を現していった。
数年後、帝国諜報局から一つの任務を与えられる。
ヒノモト王国への潜入。
王家の監視。
それが、全ての始まりだった。
◇
まだ平和だった頃のヒノモト王国。
王城の庭園を、一人の少女が歩いている。
幼い頃の日御子だった。
転んだ子供を見ればすぐに駆け寄り、泣いている子がいれば隣へ座って励ます。誰かが困っていれば、相手が誰であろうと迷わず手を差し伸べていた。
その姿を、ユリウスは遠くから見つめていた。
息が止まる。
胸の奥を、忘れたはずの痛みが締め付けた。
似ていた。
笑顔が。
声が。
誰かのために泣ける、その優しさが。
亡くした妹に、あまりにも似ていた。
本来なら、王家の監視対象の一人。
それだけのはずだった。
だが、その日を境に、ユリウスは任務以上に日御子のことを考えるようになった。
気付けば観察する時間が増え、その笑顔が曇るたびに胸がざわつく。日御子が子供へ手を差し伸べる姿を見つめながら、ユリウスは小さく呟いた。
「またいつか失うのか」
誰にも届かない声だった。
「また守れないのか」
その言葉には恐怖が滲んでいた。
失うことへの恐怖。
守れないことへの恐怖。
もう一度、同じ後悔を味わうことへの恐怖。
「いや」
ユリウスは首を横へ振った。
「今度は違う」
今度こそ失わせない。
今度こそ守る。
その時はまだ、ただ守りたいという願いだったのかもしれない。
けれど、日御子を見つめ続けるうちに、その意味は少しずつ変わっていった。
世界は人を傷付ける。
正しいと信じた選択さえ、その人自身を壊すことがある。
ならば、自分が手を加えればいい。
傷付く道へ進みそうなら止める。間違ったものを信じそうなら正す。道を外れそうになれば、戻してやればいい。
「誰にも奪わせない」
ユリウスの声は静かだった。
「誰にも壊させない」
いつしか彼にとって、守るべきものは日御子の命だけではなくなっていた。
何を見るのか。
何を信じるのか。
誰と関わり、何を選ぶのか。
そのすべてに自分が手を掛け、正しい方向へ導き続ける。
そうして自分が管理している限り、日御子は壊れない。
「誰にも触れさせない」
そこに悪意はなかった。
ユリウスは、それこそが守ることなのだと本気で信じていた。
必要なら何度でも手を入れ、形を整える。
そして、自分の手で最も美しい形へ育てていく。
ユリウスは微笑んだ。
優しく。
どこまでも優しく。
「私が完成させる」
「作品として」
日御子は胸が締め付けられた。
守れなかった妹。
二度と大切なものを失いたくないという願い。
その強い想いが、彼をここまで歪ませてしまったのだ。
◇
景色が消えた。
森の屋敷。
現実へ戻る。
目の前には、ユリウスが静かに立っていた。
日御子は震えていた。
怒りではない。
恐怖でもない。
胸を満たしていたのは、深い悲しみだった。
「それが……」
掠れた声が漏れる。
「それが、あなたにとっての守ることなんですの……?」
ユリウスが少しだけ目を見開く。
そして、微笑んだ。
「そこまで見えましたか」
優しい声だった。まるで昔話でもするように。
「ええ。私は貴女を守りました」
そこに迷いはない。
「誰よりも大切に。誰よりも美しく。誰よりも輝かせた」
「そして今も、こうして生きておられる」
日御子の拳が震える。
ユリウスは誇るように続けた。
「姫様」
その呼び方は、昔と何も変わらない。
穏やかで、懐かしくて。
だからこそ、恐ろしかった。
「貴女は、私の最高傑作です」
誰も言葉を発せない。
日御子だけが、震える声で呟いた。
「違う……」
涙が零れる。
「私は……作品なんかじゃないですの……」
ユリウスの笑みが僅かに揺れた。
そして初めて、ほんの少しだけ寂しそうな顔をした。
【第三十八話 一緒に帰りましょう】へ続く




