天照の鏡
「私が何者か、ですか」
静寂の中、ユリウスが小さく笑った。
「私は統天帝国エテルナ諜報局所属、局長第一側近のユリウスと申します」
誰も口を開かない。
ユリウスはそのまま日御子へ視線を向けた。
「そして――姫様」
穏やかな声だった。
「お久しぶりです。お忘れですか?」
日御子の身体が震えた。
激しい頭痛とともに、鼻から鮮血が滴る。
思い出せそうで、思い出せない。何かに手が掛かっているのに、あと少しのところで掴めない。
ポリアンナがユリウスを睨みつけた。
「あなたの目的は何ですか」
「目的ですか」
ユリウスは懐かしそうに目を細める。
「私に与えられた任務は一つ。元々は、ヒノモト国王を意のままに操れるようにすることでした」
全員が息を呑んだ。
日御子の瞳が揺れる。
「父上を……?」
「はい」
ユリウスは頷いた。
「上からの命令です。私は時間をかけて王の側近となり、何度も接触しました。そして、そのたびに洗脳を試みた」
そこで小さく肩を竦める。
「ですが、失敗しました」
その声には、僅かな敬意が滲んでいた。
「あの方は本当に強い王でした。何度試しても通じなかった」
ユリウスが静かに告げる。
「《王威》――厄介な異能でした」
日御子は言葉を失った。
父は暴君だった。
そう信じてきた。
そう教えられてきた。
――誰に?
そこへ意識を向けた瞬間、思考が僅かに空白になる。
だというのに、ユリウスの口調に嘘は感じられない。
まるで、本当に父を尊敬していたかのようだった。
「だから私は、別の方法を考えました」
ユリウスが日御子を見る。
その眼差しは優しく、どこか遠い昔を懐かしんでいるようにも見えた。
「何故か、姫様にも洗脳が効きにくかった」
日御子の胸がざわつく。
「ですが、姫様は本当にお優しい方でした。聡明で、民を愛し、弱者を見捨てない」
ユリウスは穏やかな口調のまま続ける。
「だからこそ、直接操る必要はなかったのです」
ズキリと耐え難い痛みが走り、頭蓋の内側で何かが軋む。
「やめて……」
日御子が呟く。
アイザックが一歩踏み出した。
途端に、日御子を囲む兵たちの剣先が、一斉に彼女へ向く。
アイザックは歯を食いしばり、足を止めた。
ユリウスの独白が続く。
「認知を僅かに歪ませ、疑念を植え付ける。見えるものを少しずつ変え、考える方向を誘導する。それだけで十分でした」
日御子の呼吸が乱れた。
嫌だ。聞きたくない。
それなのに、身体が動かない。
「姫様は賢い方です。誰かに命じられれば、きっと疑ったでしょう」
ユリウスは静かに微笑む。
「だから私は、姫様がご自身で判断している、そう信じるように少しずつ誘導していったのです」
「違いますの」
日御子が首を振る。
「そんなはずありませんの……」
声が震える。
「父上は暴君だった。民を苦しめていた。だから私は――」
言葉が止まった。
ユリウスは日御子を見つめたまま、穏やかに告げる。
「貴女は、私の最高傑作ですよ」
誰も言葉を発しなかった。
ただ、日御子だけが震えている。
「嘘ですの」
か細い声だった。
「そんなの……嘘ですの」
何度も首を振る。
否定しなければならない。受け入れてはいけない。
そう思うほど、頭の奥で何かが崩れ始めていた。
「違う……」
「違いますの……」
◇
――父上。
声が聞こえた。
日御子の身体が硬直する。
知らない。
知らないはずだった。
それなのに、どうしようもなく懐かしい。
次の瞬間、映像が脳へ流れ込んできた。
王城。
広い庭園。
幼い自分。
笑っている父。
優しく頭を撫でてくれた、大きな手。
さらに別の光景が重なる。
家臣たちに囲まれた宴。笑い声。祝福。
父は民の中へ入り、一人ひとりの声へ耳を傾けていた。困っている者には手を差し伸べ、救われた者たちは何度も頭を下げている。
次々と押し寄せる光景は、どれも日御子の知らないものだった。
それなのに、全て覚えている。
「っぁ……」
日御子の呼吸が乱れた。
何年もの間、奥深くへ押し込められていた記憶が、一気に堰を切って溢れ出している。
「やめ……」
頭を押さえ、膝をつく。
それでも記憶は止まらない。
革命の日。
泣いていた家臣。
必死に自分を止めようとしていた父。
そして、その父を睨みつける自分。
胸の中にあった怒りも、憎しみも、正義も、当時の感情そのものとして蘇ってくる。
「違う……」
日御子の声が震えた。
「違う!」
さらに記憶が流れ込む。
玉座の間。
父は剣を捨てた。
何も言い返さなかった。
最後まで怒らなかった。
それでも自分は、父を許そうとしなかった。
日御子の身体が震える。
私は騙され、利用されていた。
そうだ。
私は被害者だ。
そう思いたかった。
それなら、自分は悪くないと思える。
けれど、蘇った記憶は、その逃げ道を許してくれなかった。
ユリウスは疑念を植え付けた。見える世界を歪ませ、憎しみを育てるように仕向けた。
それは事実だ。
自分は確かに騙され、利用されていた。
それでも――父を憎んだのは、自分だった。
民のためだと信じ、父を倒すべきだと決め、革命を選んだ。
誰かに剣を握らされたわけではない。
最後に父へ剣を振り下ろしたのは、間違いなく自分だった。
「違う!!」
叫んだその瞬間、頭の奥で何かが砕けた。
それは壁だったのか。
鎖だったのか。
日御子には分からない。
ただ、長い間閉ざされていた何かが崩れ落ち、押し込められていた記憶も感情も、何もかもが一気に溢れ出した。
まるで、長い夢から覚めるように。
◇
世界が静まった。
誰も動かず、誰も声を発しない。
日御子はゆっくりと顔を上げる。
その瞬間、身体の奥から温かな光が溢れ出した。
黄金の輝きが日御子を包み、周囲の空気が震える。
「な……」
ポリアンナが息を呑む。
咲夜姫ものぶおも、その光景を前に動けない。
ユリウスだけが大きく目を見開いた。
「その光は……まさか!」
「覚醒異能……!?」
日御子が目を開く。
黄金の瞳には、これまでとはまるで違う世界が映っていた。
《天照の鏡》。
人の感情や記憶、認知へ加えられた歪み。目に見える姿の奥に隠されたもの。
あらゆる偽りを越え、その者が抱えてきた真実が、情報や映像となって直接日御子の中へ流れ込んでくる。
幻も、暗示も、記憶を覆っていたものも、もう彼女の目を欺くことはできない。
日御子はユリウスを見た。
その姿に、別の光景が重なる。
統天帝国諜報局の将校。
その奥にある、遠い日の王城。
幼い自分の傍らに立つ青年。
笑顔。
優しい声。
そして、長い間、意図的に記憶から消されていた名前。
日御子の唇が震えた。
「……ユウマ」
ユリウスの瞳が大きく揺れる。
やがて、ふっと笑った。
「ようやく思い出して頂けました」
どこか嬉しそうな声だった。
しかし、その表情にすぐ困惑が浮かぶ。
「ですが……私はまだ何もしていない。洗脳は解除していない」
「やはり、姫様には覚醒異能の因子が……。しかし、何故……」
独り言のような呟きだった。人の認知を操り続けてきた男が、目の前の光景を測りかねていた。
日御子はゆっくりと立ち上がった。
黄金の瞳が、真っ直ぐユリウスを見据える。
「全部……見える」
掠れた声だったが、そこには確かな意思があった。
「あなたも、私も」
日御子の瞳へ、さらに膨大な情報と映像が流れ込んでくる。
「そして――あの日の真実も」
ユリウスの表情から、笑みが消えた。
【第三十六話 革命の真実】へ続く




