消された記録
アビスが木刀を振り続けていた頃――。
遠く離れた帝都では、レオンが人体実験施設から回収した資料を調べていた。
統天帝国軍、軍務局本部。
執務室の机には、被験者たちの記録が広げられている。
被験者番号、血液型、出生地、共鳴率。
どの記録にも、必ず同じ項目が並んでいた。
「……共鳴率とは何だ」
記録には数値だけが並び、その意味はどこにも記されていない。
移送先で咲夜姫が指摘したとおり、被験者にはS型が多い。
レオンは新しい羊皮紙を取り出し、被験者を共鳴率の高い順に並べていった。
二十二パーセント。
二十一パーセント。
十六パーセント。
上位には、S型の被験者が集中している。
記録を並べると、さらにもう一つの偏りが見えてきた。
共鳴率の高い被験者ほど検査の回数が多く、投与された薬品や経過も詳細に記録されていた。
研究者たちが重視していたのは、血液型そのものではなく、それと結びつく共鳴率という数値だった。
レオンは羊皮紙へ、現時点で導き出せる事実を書き加えた。
『S型の被験者は、共鳴率が高い傾向にある』
『共鳴率の高い者ほど、重点的な研究対象に選ばれている』
ペンを置き、椅子へ深く背を預ける。
「君は、一体何を示している」
静かな執務室に、レオンの声だけが落ちた。
回収された資料だけでは、これ以上の答えは得られそうになかった。
研究者の名は、ポリアンナから聞いている。だが、帝国が懸賞金をかける男の証言では、誰も裁けない。
保護した警備兵たちは、まだ聞き取りに応じられる状態まで回復しておらず、被害者たちは研究者の名前すら知らなかった。
ならば、別方向から調べるしかない。
この研究が、何を目的として行われていたのか。
その手掛かりは、施設を作った記録に残っているはずだった。
◇
レオンは軍務局の地下にある記録保管庫を訪れた。
巨大な石造りの空間に無数の棚が並び、帝国軍の創設から現在に至るまでの記録が保管されている。
地下特有の冷気に、乾いた紙と革表紙の匂いが混じっていた。
軍施設登録簿。
建設許可記録。
予算台帳。
補給記録。
人員配置簿。
軍という巨大な組織を動かせば、必ずどこかに記録が残る。
レオンは人体実験施設が存在していた地域と、実験が行われていた年代を手掛かりに、該当する資料を一冊ずつ調べていった。
しかし、施設登録簿に該当する建物はない。
建設許可も、人員配置の記録も見つからなかった。
「……あり得ない」
あれほど巨大な施設を建設し、維持するには、大量の資材や人員が必要になる。研究器具、食料、医薬品も継続して運び込まなければならない。
何一つ記録を残さず、長期間にわたって運営できるはずがなかった。
レオンは施設名から探すのをやめ、登録簿に並ぶ番号を追った。
施設番号二四〇三。
次に記されているのは、二四〇七。
三つの番号が抜け落ちている。
未使用番号の可能性を考え、交付記録を確認する。だが、二四〇四から二四〇六までの番号は、前後の施設と同じ日に確かに交付されていた。
さらに予算台帳には、三つの番号へ建設予算と維持費が割り当てられている。金額だけを残し、施設名も所在地も削除されていた。
「記録がないのではない」
レオンは不自然な空欄を見つめた。
「存在した記録を、消したのか」
複数の部署から、同じ三つの施設に関する情報だけが取り除かれている。
だが、全ての痕跡を消し去ることはできなかった。
欠番を手掛かりに資料を調べ続けたレオンは、一冊の補給台帳に綴じられた輸送許可証を見つけた。
大量の医薬品。
研究器具。
用途不明の特殊薬品。
輸送先の名称は消されていたが、施設番号は二四〇六。配送地域も、人体実験施設が存在していた山岳地帯と一致している。
「見つけた……」
レオンは許可証の末尾へ視線を落とした。
そこには、諜報局長リリアナの署名と印章が残されていた。
人体実験施設と諜報局。
二つの点が、一本の線で繋がった。
「そこまで辿り着きましたか」
静まり返った保管庫に、不意に男の声が響いた。
レオンの手が止まる。
足音は聞こえなかった。
ゆっくりと振り返ると、棚の間に一人の男が立っていた。
「君ですか」
諜報局長第二側近、エラスムス。
彼は眼鏡の位置を直し、丁寧に頭を下げた。
「お久しぶりです、首席」
「次席にそう呼ばれても、然程嬉しくありません」
学生時代から変わらないやり取りだった。
二人の価値観が一致したことは、一度もない。
それでも、互いの能力だけは認めていた。
あの頃、周りの者たちは、受けた傷を他人へ移すエラスムスの異能を恐れ、彼から距離を置いていた。レオンには、それが納得できなかった。
エラスムスは、レオンの手元に広げられた欠番の一覧と補給記録へ視線を落とした。
「施設を調べているんですね」
「何をしに来たんですか」
「忠告です」
エラスムスは迷うことなく答えた。
「これ以上、調べるのはやめておきなさい」
保管庫に静寂が落ちる。
「貴方は優秀です。だから、このまま調べ続ければ、その先へ辿り着いてしまう」
「辿り着くと、どうなるんですか」
「貴方は、一度知ってしまえば、見なかったことにはできない。昔から、そういう人でしたから」
脅しには聞こえなかった。
少なくともレオンには、本気で自分の身を案じているように思えた。
「施設の研究者は、エラスムスと名乗ったそうです」
それでも、エラスムスの表情は変わらなかった。
「貴方に話せることは何もありません」
「それで信用しろと?」
「無理でしょうね」
エラスムスは悪びれた様子もなく肩を竦めた。
「私は、貴方の理想論が昔から嫌いでした」
「知っています。学生時代から何度も聞きました」
「正直に言えば、今でも面倒な人だと思っています」
「随分な言い方ですね」
「ですが、死んでほしいとは思っていません」
レオンは僅かに目を細めた。
冗談を言っている顔ではなかった。
「ここへ来たのは、誰の指示ですか」
その問いに、エラスムスの動きが止まる。
彼は何かあるたびに、決まって同じ言葉を使ってきた。
『上司命令ですから』
『私に言われましても困ります』
だが、今回は違った。
「上司の指示ではありません」
「珍しいですね」
「そうですか?」
「君が自分の意思で動くとは思いませんでした」
エラスムスは僅かに苦笑し、レオンから視線を外した。
「同窓のよしみですよ。……ただ、それだけです」
眼鏡を押し上げる指先が、いつもより少しだけ忙しない。
「そうですか。ありがとうございます」
レオンが素直に頭を下げると、エラスムスは小さく息を吐いた。
「……貴方は、本当に昔から変わりませんね」
そう言って踵を返し、保管庫の出口へ向かう。
「忠告はしました。あとは、貴方の自由です」
それだけを言い残し、エラスムスは立ち去った。
◇
レオンは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
人体実験施設。
消された記録。
諜報局長の署名。
そして、エラスムスの忠告。
別々に見えた痕跡が、同じ疑惑を指し示している。
今すぐ諜報局へ向かい、リリアナ局長本人を問い詰めたい。
レオンは資料を抱え、保管庫を出た。
だが、諜報局へ続く廊下を前にして足を止める。
「……悪手ですね」
自分に、諜報局長へ直接事情を問いただす権限はない。証拠もまだ、状況を示すものに留まっている。
感情に任せて乗り込めば、調査ではなく越権行為になる。
正しい手順を踏め。
それが軍人としての務めだった。
そして、自分には報告すべき上官がいる。
レオンは進路を変え、軍務局長室へ向かった。
◇
アルベルトは執務机へ向かい、書類に目を通していた。
扉を叩く音が響く。
「入れ」
レオンが入室した。
その表情を見ただけで、アルベルトはただ事ではないと察した。
「どうした」
「報告があります」
レオンは机へ資料を置いた。
「先日の人体実験施設についてです」
アルベルトは無言で資料を手に取った。
共鳴率と血液型の関係。
記録から消された施設番号。
二四〇六へ送られた大量の医薬品と研究器具。
最後に残された、諜報局長の署名。
紙をめくる音だけが執務室に響く。
やがて、アルベルトの手が止まった。
「……諜報局か」
「施設への直接的な関与までは断定できません」
レオンは慎重に答える。
「ですが、少なくとも諜報局長名義で物資の輸送が承認されていたことは事実です」
エラスムスの名は、口にしなかった。確証もないまま、旧友の名を上官へ告げる気にはなれなかった。
アルベルトは資料を机へ置いた。
鈍い音が響く。
「帝国の民間人を攫い、人体実験に利用した施設だぞ」
低い声に、抑えきれない怒りが滲んでいた。
「その存在を知りながら隠していたのなら、決して許されることではない」
「どうしますか」
レオンが尋ねる。
アルベルトは迷うことなく立ち上がり、軍服の襟を正した。
「確かめに行く」
「どちらへ?」
アルベルトは扉へ向かいながら答えた。
「諜報局長本人に聞く」
【第二十話 表と裏】へ続く




