続ける者
いつもの朝。
NKJ本部の庭では、木刀が空気を切る音が一定の間隔で響いていた。
ヒュッ。
ヒュッ。
ヒュッ。
速度も軌道も変わらない。
アビスは額から汗を流しながら、何千回と繰り返してきた動作を黙々と続けていた。疲労で腕が重くなっても、振り下ろす位置は僅かにもぶれない。
庭から少し離れた縁側では、鬼龍神が湯呑みを片手にその様子を眺めていた。昨日の模擬戦で殴られた顔は、まだ少し腫れている。
(朝から、よくやるな……)
誰かに命じられたわけでも、報酬が出るわけでもない。それでもアビスは、鬼龍神が起きてくるより前から木刀を振り続けている。
「アビスさんが気になりますか?」
声をかけてきたのは、のぶおだった。
「まあな」
のぶおも縁側から庭へ目を向ける。
「毎日ですよ」
「毎日?」
「雨の日は軒下で、休みの日も欠かさず振っています」
鬼龍神は僅かに眉をひそめた。
「変な奴だな」
「本人には言わないでくださいね」
「言わん」
鬼龍神は即答し、湯呑みへ口をつけた。
その時、庭の向こうから元気な声が飛んできた。
「鬼龍神さーん!」
日御子だった。
「変なのが来た」
「変なのとは何ですの!」
日御子は頬を膨らませながら、縁側まで歩いてくる。
「暇ですの?」
「暇だ」
「でしたら、訓練ですの」
「しない」
「探索は?」
「行かん」
「もっと交流するべきですの!」
「昨日だけで一か月分は交流した」
入隊して、まだ数日しか経っていなかった。
日御子が不満そうに鬼龍神を睨んでいると、庭からアビスが歩いてきた。
額や首筋には汗が流れているが、表情はほとんど変わっていない。
鬼龍神は何となく尋ねた。
「何本振った?」
「千本です」
「毎日か?」
「毎日です」
日御子も僅かに引いた。
「多いですの」
「そうですか?」
アビス本人は、不思議そうに首を傾げる。
「楽しいのか?」
鬼龍神に尋ねられ、アビスは少しだけ考えた。
「楽しくはありません」
「なら、何で続ける?」
「強くなりたいので」
「そこまでしてか?」
アビスは手にした木刀へ視線を落とした。
「弱いままでは、皆さんの隣に立てませんから」
「別に、弱くてもいいだろ」
鬼龍神は肩を竦める。
「誰にだって、向いてないことはある。諦めた方が楽なこともある」
アビスは静かに首を横へ振った。
「でも、諦めたら届きません」
鬼龍神は黙った。
「今は、アイザックさんにも、のぶおさんにも、鬼龍神さんにも届かない。だから、届くまで続けます」
その言葉に、自虐や悲壮感はなかった。
ただ、自分が弱いという事実を受け入れ、その先へ進もうとしているだけだった。
《迅雷》を使うほど、自分の時間が削られていく。だから鬼龍神は、必要以上に戦わず、届かないものは諦めて生きてきた。
だが、アビスは届かないからこそ続けるという。
鬼龍神には、その考え方が理解できなかった。
しばらくアビスを見つめたあと、鬼龍神は縁側から立ち上がった。
近くへ立てかけてあった木刀を手に取る。
「アビス、ちょっと来い」
「どこへですか?」
「手合わせだ」
アビスの目が僅かに見開かれた。
「鬼龍神さんと?」
「ああ」
「手合わせですの!?」
日御子が誰よりも早く反応した。
「皆さん、手合わせが始まりますのー!」
本部へ向かって大声を上げる。
「勝手に人を集めるな」
鬼龍神は露骨に嫌そうな顔をした。
◇
日御子が触れ回ったせいで、訓練場にはいつの間にか仲間たちが集まっていた。
ポリアンナや咲夜姫だけでなく、アイザック、のぶお、もりやん、ふるーる、ふぉろんたいごまで揃っている。
「賭けますの?」
「賭けてはいけません」
ふぉろんたいごが即座に止めた。
訓練場の中央では、アビスが木刀を正面に構えている。
対する鬼龍神は、木刀を肩へ担いだままだった。
「先に言っておくが、異能は使わない」
アビスは黙って頷いた。
力量差は分かっている。
それでも、戦ってみたかった。
「始めですの!」
日御子が勝手に開始を宣言した。
次の瞬間、アビスが地面を蹴った。
鋭い踏み込みから、迷いのない一撃が鬼龍神の肩口へ振り下ろされる。
鬼龍神は斜め後ろへ半歩下がった。
それだけで、木刀は目の前を通り過ぎる。
アビスは即座に手首を返し、横薙ぎ、突き、袈裟斬りへとつなげた。
鬼龍神は木刀を構えようともしない。
半歩。
一歩。
僅かな体重移動だけで、全ての攻撃をかわしていく。
「すごい……」
咲夜姫が思わず呟いた。
のぶおも腕を組み、二人の動きを見つめている。
「上手いですね」
「速さじゃねぇな」
アイザックが頷く。
「経験だ」
アビスがもう一度踏み込んだ瞬間、鬼龍神の木刀が初めて動いた。
振り下ろされた一撃を木刀の腹で軽く受け流し、そのまま額を叩く。
コツン。
「いてっ」
アビスは勢いを崩され、尻餅をついた。
「ほら、終わりだ」
鬼龍神が木刀を肩へ戻す。
だが、アビスはすぐに立ち上がった。
「まだです」
「まだやるのか?」
「はい」
答えに迷いはなかった。
再び向かい合う。
今度のアビスは、最初の一撃を浅い位置で止めた。
鬼龍神が後ろへ退くと読み、その先へ木刀を横薙ぎに振るう。
「ほう」
しかし、鬼龍神は下がらなかった。
一歩前へ踏み込み、木刀が加速する前にアビスの懐へ入る。そのまま足を掛け、肩を軽く押した。
アビスの身体が地面へ転がる。
「避けると思いました」
「相手が思ったとおりに動くとは限らねぇぞ」
アビスはまた立ち上がった。
今度は視線を鬼龍神の肩へ向けながら、木刀を低く構えて脚を狙う。
だが、木刀を握る右手が動いた瞬間、鬼龍神の一撃がその手首を叩いた。
痺れた指から木刀が落ちる。
「目線だけで騙そうとしても、身体が先に動いてる」
鬼龍神が落ちた木刀を足先で返した。
アビスはそれを拾い、再び構える。
それからも手合わせは続いた。
鬼龍神が半歩退けば、アビスはその先を狙う。
懐へ入られれば、次は距離を取って迎え撃つ。
手首を打たれれば、握りと構えを変える。
同じ失敗を一つずつ直していくが、そのたびに鬼龍神は別の弱点を突いた。
足を払われ、地面へ倒れる。
木刀を弾かれ、胸へ切っ先を突きつけられる。
攻撃をかわされ、背後から肩を叩かれる。
最初は笑っていた仲間たちも、いつの間にか黙って二人を見つめていた。
一方的だった。
勝負と呼ぶことすら難しいほど、実力には差がある。
それでもアビスは、倒されるたびに木刀を拾い、立ち上がった。
(弱いな)
技術も、経験も、判断力も足りていない。
それでもアビスの目は、倒されたことではなく、自分が何を間違えたのかを追っていた。
鬼龍神は、才能に恵まれた人間を何人も見てきた。
人より早く技を覚え、周囲から天才と呼ばれた者たちも、思うように伸びなくなれば一人ずつ姿を消した。足りなかったのは才能ではない。成果の見えない時間に耐えることだった。
鬼龍神には、途中で諦めた者たちの気持ちがよく分かった。
報われる保証のない努力を続けるなど、自分にはできない。
だが、アビスは違う。
再び木刀を構えた腕は震え、呼吸も乱れている。それでも、その足は鬼龍神へ向いていた。
(面倒な生き方だ)
だからこそ、鬼龍神は僅かに興味を覚えた。
止まらない奴が、最後にどこまで行くのか。
それだけは、鬼龍神にも分からなかった。
やがて、アビスが膝をついた。
肩で大きく息をし、木刀を握る腕も震えている。
「終わりだ」
鬼龍神が告げる。
アビスは木刀を支えに立とうとするが、足に力が入らない。
「まだ……」
「そこまでだ」
鬼龍神の声が、僅かに低くなった。
アビスが顔を上げる。
「お前は今、弱い」
鬼龍神は断言した。
アビスは否定しなかった。
「でもな」
こういうことを言うのは苦手なのか、鬼龍神は僅かに視線を逸らす。
「止まらない奴は、嫌いじゃねぇ」
アビスの目が僅かに見開かれた。
「続けろ。お前なら、きっとそのうち届く」
鬼龍神はそれだけ言うと、木刀を肩へ担いで背を向けた。
アビスはしばらく、その背中を見つめていた。
やがて木刀を握り直し、小さく頭を下げる。
「……はい」
鬼龍神は振り返らなかった。
だが、その口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
◇
鬼龍神が訓練場を去ると、集まっていた仲間たちも本部へ戻り始めた。
「お昼ですの」
「飯だコラー!」
「今日は何でしょうね」
賑やかな声が、少しずつ遠ざかっていく。
訓練場に残ったアビスは、その場へ腰を下ろした。
しばらく目を閉じ、乱れた呼吸が収まるのを待つ。
腕の震えが僅かに治まると、アビスは再び木刀を握って立ち上がった。
鬼龍神の言葉が、頭の中に残っている。
『お前は今、弱い』
そのとおりだった。
今日の手合わせで、嫌というほど思い知らされた。
まだ遠い。
今の自分では届かない。
それでも、アビスは木刀を構えた。
腕は重く、足も痛む。
ゆっくりと息を吸い、いつもと同じ軌道で木刀を振り下ろす。
ヒュッ。
乾いた音が、静かな訓練場へ響いた。
今日の日課に、もう一度だけ加えた素振り。
昨日と同じに見えて、それは今日のアビスにしか振れない、千一本目だった。
【第十九話 消された記録】へ続く




