帝国軍襲来
「帝国軍です!」
ユールの声が地下へ響き、全員の意識が入口へ向いた。
「日御子さんたちと被害者の方々は、すでに地上へ出ています。ですが、山道をこちらへ向かってくる軍勢を見つけました!」
エラスムスは、その一瞬を逃さなかった。
「潮時ですね。私は戦闘員ではありませんし、勝てない相手と戦う趣味もありませんので」
口元の血を拭いながら、床を軽く踏み鳴らす。
鈍い音とともに壁際の棚が横へ滑り、その奥から人一人が通れるほどの細い通路が現れた。エラスムスは負傷を感じさせない身のこなしで、その中へ身を滑り込ませる。
「逃がすか!」
アイザックが炎を放つ。だが、通路の奥で重い鉄扉が落ち、紅蓮の炎を遮った。
轟音が地下を揺らし、鉄扉の表面が赤く焼ける。それでも扉を破るには至らず、奥からエラスムスの気配が遠ざかっていった。
ポリアンナは小さく息を吐く。
「追跡は不要です。被害者の安全を確かめましょう」
◇
一行が施設を出ると、日御子と咲夜姫が、木陰へ避難させた被害者たちの手当てをしていた。
「ポリアンナさん!」
咲夜姫が顔を上げる。
「こちらは全員無事です」
その傍らで、日御子の双眸は淡い光を帯びていた。
「私の《王域》でも捉えていますの。百人以上が隊列を組み、山道をこちらへ向かっています」
「帝国軍で間違いありません」
咲夜姫が続ける。
「ユールさんが軍旗の確認もしました。到着まで、まだ少し時間はあります」
そのやり取りの陰で、なぜかユールが、一歩、また一歩と後退した。
「何をしていますの?」
日御子に気づかれ、ユールの肩が跳ねる。
「いや、その……私はここで失礼しようかなと」
「なぜですの?」
ユールは露骨に目を逸らしたあと、観念したように答えた。
「私、元帝国兵ですから」
沈黙が流れる。
「初耳ですの」
「言ってませんでしたからね」
なぜか少し誇らしげだった。
「脱走兵扱いされたら、捕まるかもしれないんですよ?」
ユールは山道の方角へ視線を向けた。
まだ姿は見えないが、大勢の足音と鎧の擦れ合う音が、次第に近づいている。
「いやぁ……無理無理」
小さく呟くなり、ユールは踵を返した。
「じゃあ皆さん、頑張ってください」
「あっ」
日御子が声を上げたが、もう遅い。ユールは脱兎のごとく森へ消えていった。
「根性ねぇな」
「命を大切にしていると言ってください!」
遠くから抗議の声だけが返ってきた。
「忙しい人ですの……」
日御子は呆れたように呟いた。
◇
その直後だった。
森の奥から一斉に鳥が飛び立ち、規則正しい軍靴の音が山中へ大きく響き渡った。
やがて木々の間から統天帝国の軍旗が現れ、その後ろから、百を超える帝国兵が整然と姿を見せた。
中央に、長身の男の姿が見える。黒髪に飾り気のない軍装、腰には一振りの剣。派手さはないが、その場にいる誰よりも強い存在感を放っていた。
男は目の前の日御子たちを見据えたあと、木陰で休ませている被害者たちへ僅かに視線を向けた。
すぐに日御子へ視線を戻し、一歩前へ出る。
「私は統天帝国エテルナ軍務局所属、帝国軍第二大隊隊長レオン・クラウゼルと申します」
落ち着き払った声だった。
「日御子殿。投降してください。私はあなたを拘束し、帝都へ連行するよう命じられています」
日御子はレオンを真っ直ぐに見返す。
「その後は?」
僅かな沈黙を挟み、レオンは答えた。
「処刑が予定されています」
空気が凍りつく。
「おい……てめぇ、ふざけてんのか」
アイザックの目が細くなる。もりやんも無言で弓へ手を伸ばした。咲夜姫とのぶおも日御子を庇える位置へ動く。
「ですが、私はその判断に賛成していません」
レオンの言葉に、全員の動きが止まった。
「少なくとも、私が調べた限り、あなたは処刑に値する罪を犯していません。帝都へ来ていただければ、私が必ず上層部を説得します」
「それを信用して、捕まれと言いますの?」
「いいえ。信用されるとは思っていません」
レオンは即答した。
「ただ、私はそうするつもりです」
嘘をついているようには見えなかった。だからといって、自ら処刑台へ近づく理由にはならない。
「お断りですの」
「そうですか」
レオンの表情は変わらなかった。
アイザックが一歩前へ出ると、握った拳に熱が集まり始めた。
「話は終わったか?」
もりやんもその隣へ並び、弓へ手を掛ける。
「戦う?」
のぶおは何も言わず、日御子を庇うように前へ立って両手を構えた。
帝国兵たちも一斉に武器へ手を掛け、両者の間に張り詰めた空気が広がる。
「待て」
レオンの一声で、兵士たちの動きが止まった。
「ですが、隊長」
「命令だ」
短い言葉に、兵士たちは従った。
レオンは再び被害者たちへ目を向けた。
「その前に、一つ確認したい。この施設と、あちらで保護されている者たちは、どういうことですか?」
「それはこちらが聞きたいですね」
ポリアンナは、咲夜姫が施設内から持ち出した資料を差し出す。
「帝国の施設で、周辺の村から攫われた人々が研究対象にされていました」
レオンは資料を受け取り、ページをめくった。
被験者の個人情報、共鳴率、実験結果、失敗例、処分記録。読み進めるほど、その表情が険しくなっていく。
「施設番号と管理記録を確認しろ。負傷者の救護も急げ」
命令を受けた兵士たちが動き出した。
◇
しばらくして戻ってきた兵士の顔色は悪かった。
「報告します。施設内を捜索しましたが、施設番号や管理責任者を示す記録は見つかりませんでした。携行している軍施設一覧にも、該当する施設はありません」
「責任者は?」
「不明です。研究員と思われる者も発見できませんでした」
「ほかには?」
兵士は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「地下区画で帝国兵五名を発見しました。全員生存していますが、重傷です」
レオンの眉が僅かに動く。
「研究員は、負傷した兵を残して逃げたのか」
「そのようです」
レオンは目を閉じ、深く息を吐いた。
「ふざけるな……」
抑えられた声に、確かな怒りが滲んでいた。
日御子は意外に思った。冷徹な軍人に見えたが、兵を見捨てた者への怒りは本物だった。
レオンは感情を押し込めるように目を開く。
「まずは被害者と負傷兵の救助を優先する。被害者はこちらで保護し、安全な場所まで移送します」
ポリアンナの目が細くなった。
「その被害者を、『また』帝国へ引き渡せと?」
重い沈黙が落ちた。帝国兵たちでさえ何も言えず、レオンはしばらく被害者たちを見つめたあと、苦しげに息を吐く。
「信用できないのは当然です」
反論も言い訳もせず、ただポリアンナの言葉を認めた。
「しかし、被害者たちをこのままにしておくわけにはいきません」
それも事実だった。衰弱した彼らには、食料と一刻も早い治療が必要になる。
「では、仕方ありません」
ポリアンナは静かに息を整えた。
「私たちも同行します。被害者の移送が終わるまで、あなた方を監視させていただきます」
帝国兵たちがざわついた。だが、レオンは迷うことなく頷く。
「構いません」
ポリアンナとレオンの合意を受け、両陣営は武器から手を離した。張り詰めていた空気が僅かに緩み、被害者の移送準備が始まる。
レオンはその様子を確認してから、日御子へ向き直った。
「日御子殿は、今すぐここを離れてください」
「……私だけですの?」
「はい。あなたがいると、話が複雑になりますから」
その声には僅かな後ろめたさが滲んでいた。
(確かに合理的ですの)
日御子は少し考え、やがて小さく頷く。
「私は帝国軍の標的ですの。私が残れば、被害者の保護よりも、私を拘束するかどうかが問題になります」
「そのとおりです。今あなたを拘束すれば戦闘になり、被害者を危険に晒す。ですから、今は追いません」
アイザックが感心したように口笛を鳴らす。
「意外と話の分かる奴か?」
「そうでもありません。任務を放棄したわけではありませんので。次に会えば拘束します」
「真面目かよ」
アイザックが拍子抜けしたように鼻で笑う。
「分かりましたの。私は先に戻ります」
「でしたら、私も一緒に――」
咲夜姫が申し出るが、日御子は首を振った。
「帝国軍に同行する皆さんの方が危険ですの。咲夜姫さんは、ポリアンナさんたちと一緒にいてください」
「それに《王域》があるので、森の中でも周囲を警戒できますの」
咲夜姫は不安そうに日御子を見つめたものの、やがて渋々頷いた。
「……分かりました。くれぐれも気をつけてください」
◇
帝国軍が被害者の搬送準備を進める傍ら、NKJの面々も人数確認と応急処置に追われていた。
その一方で、ポリアンナとレオンは、施設から持ち出された資料を並んで確認している。立場は違っても、この施設に対して抱く疑念は同じように見えた。
「詳しく調べる必要がありますね」
ポリアンナの言葉に、レオンも険しい表情で頷いた。
「だが、今は被害者の救助が先です」
二人は資料を閉じ、それぞれの持ち場へ戻った。
移送の準備が進む中、日御子は一人で帰路につこうとしていた。
「お気をつけて」
ポリアンナに声をかけられ、日御子は振り返る。
「分かっていますの」
「お前、迷子になるんじゃねぇぞ」
アイザックにからかわれ、日御子は不満そうに頬を膨らませた。
「子供ではありませんの」
「そうか?」
アイザックが笑う。
「焼き芋」
今度は、もりやんが日御子を呼び止めた。
「戻ったら、残しておく」
「……冷めてしまいますの」
「早く帰ればいい」
日御子は目を瞬き、やがて小さく笑った。
「分かりましたの」
皆へ軽く手を振り、一人で森の中へ歩き出した。
もっとも、その帰り道を一人で歩けたのは、ほんの僅かな間だけだった。
【第十五話 スカウト】へ続く




