第15話 送り出す静けさ
朝の雪花村は、
いつもより静かだった。
雪は細かく風も弱い。
音がないわけじゃないのに、
世界が一枚、薄い布を被ったみたいに感じられる。
雪也はその静けさの中で身支度を整えていた。
―――もう帰る日だ。
胸の奥にはっきりとした重さがある。
寂しさでも、
不安でも、
後悔でもない。
名前をつけるにはまだ少し早い、
そんな重さだった。
荷物をまとめながら、雪也は何度も手を止めた。
思い返そうとしなくても、
真白の声も、
あかりの背中も、
美琴の沈黙も、
勝手に浮かんでくる。
失うかもしれない。
それでも、ここにあったものまで消えるわけじゃない。
そのことだけは、
もう前みたいに見失わずにいられる気がした。
===
食堂へ行くと、
真白がすでにそこにいた。
「……おはようございます」
声はいつも通りだった。
でも、目が少しだけ赤い。
「おはよう」
雪也が席に着くと、
真白は少しだけ迷うように立ち尽くした。
言いたいことがある。
でも、どう切り出すか決めきれていない。
そんな顔だった。
朝食はいつも通り湯気を立てている。
味噌汁の匂いも、白いご飯の湯気も、
変わらないはずなのに、
今日は妙に一つ一つが目についた。
「今日、帰るんですよね」
真白が、ようやく言った。
「……ああ。世話になった。」
真白は小さく頷いた。
それから、そばに置いていた小さな包みを両手で持ち上げる。
「これ……」
差し出されたのは、
青い布のお守りだった。
見覚えのある色だった。
あの布屋で、真白が目を留めていた色だ。
布の縫い目は丁寧で。
手に取る前から、
時間をかけて作られたものだと分かる。
雪也は少しだけ息を止めた。
「持っていってください」
真白は少し照れたように笑った。
「……返さなくていいです」
その一言が胸に残った。
「前に、私が作ったおにぎりを置いていったこと、ありましたよね」
「……ああ」
「本当は、あの時も渡したかったんです。でも、無理に受け取ってほしいわけじゃなくて」
真白は少しだけ困ったように笑った。
「雪也さんが、受け取れる時に受け取ってくれたら私はそれでよかったんです」
雪也は差し出されたお守りを見つめた。
青い布の温かさが、
指先に静かに残っている。
「これも、同じです」
真白はお守りをそっと見つめる。
「雪也さん、ひとりで抱え込んじゃいそうだから。さみしくなったら、少しでも思い出してくれたらいいなって」
雪也は、しばらく何も言えなかった。
「……受け取る」
真白が顔を上げる。
「今度は、最初から」
「……はい」
真白は泣きそうな顔で笑った。
雪也はそっと手を伸ばして笑いながら受け取った。
布越しに伝わる感触がまだ少し温かい気がした。
「これ、夜中に作ってたやつか」
真白がぱっと顔を上げる。
「み、見てたんですか!?」
「少しだけ」
「もう……」
真白は恥ずかしそうに視線を逸らした。
でも、どこか嬉しそうでもあった。
「もっと上手にできたらよかったんですけど」
「いや……十分だ」
雪也はお守りを見つめた。
「ありがとう。大切にする。」
それ以上の言葉は、
うまく見つからなかった。
真白もそれ以上は求めなかった。
ただ、小さく二人で笑った。
「……また、ここに来てくださいね」
約束はできない。
ここに戻ることが、本当に正しいのかもわからない。
でも、曖昧に濁したくもなかった。
雪也は少しだけ考えてから、
頷いた。
「……うん」
真白は、その返事で十分だという顔をした。
無理に笑っている感じはもうなかった。
===
玄関先には、
あかりが腕を組んで立っていた。
「行くのか」
「ああ」
「ふーん」
あかりはそれ以上すぐには何も言わず、
雪也の手元を見た。
「それ、真白からか」
「……ああ」
「似合ってんじゃん」
「そうか?」
「ああ。前よりはな」
雪也は思わず少しだけ笑った。
「あかり、前の僕をなんだと思ってたんだよ」
「人間のふりした何か」
「ひどい言いっぷりだな」
「今はまだ人間寄り」
ぶっきらぼうなやり取りなのに、
不思議と気まずくはなかった。
あかりは雪道を一度見て、
それから雪也の背中を軽く叩いた。
「……戻ってこなくていい」
雪也は、少し驚いてあかりを見る。
「でも、生きてりゃまた会うこともあるさ」
あかりは肩をすくめた。
「そういうもんだろ」
それは約束じゃない。
一種の慰めでもない。
ただ、あかりなりの誠実だった。
「……世話になった」
「おう」
「ありがとな」
あかりは少しだけ目を細めた。
それから、いつもの調子で言う。
「ちゃんと前向いて歩いてね」
雪也は、小さく頷いた。
「ああ」
それで十分だった。
===
雪也は最後に神社へ向かった。
理由はもう考えなかった。
鳥居をくぐる。
空気が変わる。
止まる、というより、
静かに整う。
境内の中央に美琴が立っていた。
「行くんですね」
「……行く。決めたんだ。」
短い言葉だけで、
それで足りた。
雪は変わらず降り続いている。
霞のような白さが、境内の輪郭を少しずつ曖昧にしていく。
「……怖いですか」
美琴が聞いた。
「……怖い」
雪也はすぐに答えた。
「また、同じように怖くなるかもしれない」
「はい」
「また、近づいて、揺れて、離れたくなるかもしれない」
「はい」
美琴は、一つずつそのまま受け止める。
雪也は手の中のお守りを少しだけ握り直した。
「それでも、歩く」
その言葉はずっと静かだった。
でも、迷いは少なかった。
美琴はほんの少しだけ目を細めた。
「あなたは、
もうここに留まるべき人ではありません」
雪也はその言葉を否定せず、受け入れた。
ここにいたい気持ちはある。
でも、ここに留まり続けることとは違う。
それが今は分かる。
「……美琴」
「はい」
「僕、たぶんまた怖くなる」
「はい」
「でも、そのときは」
雪也はそこで少しだけ息を吐いた。
「……また、思い出す」
美琴は静かに雪也を見た。
「何をですか」
雪也は手の中のお守りを少しだけ握りしめる。
「ここで、戻ったこと」
「切ろうとしても、終わらなかったこと」
「怖くても、また結べたこと」
美琴の瞳がわずかに揺れた。
「……はい」
少しだけ、間が空く。
美琴は、
雪也をまっすぐに見た。
「あなたが前に進むなら、わたしは消えません」
雪也はすぐに返事ができなかった。
消えない。
その言葉だけが残った。
美琴はそこに居続けるのか。
それとも、自分の中に残ると言っているのか。
その境目は分からなかった。
けれど、分からないままでよかった。
前に進むことが、ここで過ごした時間を置き去りにすることではないのだと、
今はただそれだけが胸に残っていた。
やがて、美琴が一歩だけ後ろへ下がる。
二人の間に、静かな距離が生まれる。
「振り返らないでください」
美琴は少し悲しそうな、寂しそうな声色だった。
その言葉は命令でもない、試しているわけでもない。
ただ、送り出す言葉だった。
雪也は頷いた。
返事はしなかった。
返事をすると、
そこで立ち止まってしまいそうだった。
美琴はもう何も言わなかった。
雪也は境内の外へ一歩踏み出す。
時間が、ほんの一瞬だけ止まるみたいな静けさ。
背中に気配だけが残っている。
でも、確かめない。
振り返らない。
手の中のお守りを強く握る。
そのまま、
もう一歩前へ出た。
===
雪花村の出口で、
一度だけ強い風が吹いた。
雪が舞い視界が白くなる。
その白さの向こうに、
静かな気配があった気がした。
時間が、先へ進むのを待っているような静けさ。
雪也は足を止めなかった。
振り返らず、
ただ前へ歩く。
吹雪の中へ。
そこに何があるのか、まだ分からないまま。
でもそれでよかった。
失うかもしれない。
また怖くなるかもしれない。
それでも、
大切だったことは消えない。
切ろうとしても終わらなかった夜も。
結べることを知った朝も。
手の中に残った、お守りの温かさも。
ちゃんと、ここにある。
――ぬくもりは、雪とともに。
冷たいはずの朝なのに、
手のひらはじんわりと少し温かかった。
雪也はその温かさを握ったまま、
雪の中を歩き続けた。




