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SETSUKA  作者: meiban
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15/19

第15話 送り出す静けさ

朝の雪花村は、

いつもより静かだった。


雪は細かく風も弱い。

音がないわけじゃないのに、

世界が一枚、薄い布を被ったみたいに感じられる。


雪也はその静けさの中で身支度を整えていた。


―――もう帰る日だ。


胸の奥にはっきりとした重さがある。


寂しさでも、

不安でも、

後悔でもない。


名前をつけるにはまだ少し早い、

そんな重さだった。


荷物をまとめながら、雪也は何度も手を止めた。


思い返そうとしなくても、

真白の声も、

あかりの背中も、

美琴の沈黙も、

勝手に浮かんでくる。


失うかもしれない。

それでも、ここにあったものまで消えるわけじゃない。


そのことだけは、

もう前みたいに見失わずにいられる気がした。



===



食堂へ行くと、

真白がすでにそこにいた。


「……おはようございます」


声はいつも通りだった。

でも、目が少しだけ赤い。


「おはよう」


雪也が席に着くと、

真白は少しだけ迷うように立ち尽くした。


言いたいことがある。

でも、どう切り出すか決めきれていない。

そんな顔だった。


朝食はいつも通り湯気を立てている。


味噌汁の匂いも、白いご飯の湯気も、

変わらないはずなのに、

今日は妙に一つ一つが目についた。


「今日、帰るんですよね」


真白が、ようやく言った。


「……ああ。世話になった。」


真白は小さく頷いた。

それから、そばに置いていた小さな包みを両手で持ち上げる。


「これ……」


差し出されたのは、

青い布のお守りだった。


見覚えのある色だった。

あの布屋で、真白が目を留めていた色だ。


布の縫い目は丁寧で。


手に取る前から、

時間をかけて作られたものだと分かる。


雪也は少しだけ息を止めた。


「持っていってください」


真白は少し照れたように笑った。


「……返さなくていいです」


その一言が胸に残った。


「前に、私が作ったおにぎりを置いていったこと、ありましたよね」


「……ああ」


「本当は、あの時も渡したかったんです。でも、無理に受け取ってほしいわけじゃなくて」


真白は少しだけ困ったように笑った。


「雪也さんが、受け取れる時に受け取ってくれたら私はそれでよかったんです」


雪也は差し出されたお守りを見つめた。


青い布の温かさが、

指先に静かに残っている。


「これも、同じです」


真白はお守りをそっと見つめる。


「雪也さん、ひとりで抱え込んじゃいそうだから。さみしくなったら、少しでも思い出してくれたらいいなって」


雪也は、しばらく何も言えなかった。


「……受け取る」


真白が顔を上げる。


「今度は、最初から」


「……はい」


真白は泣きそうな顔で笑った。

雪也はそっと手を伸ばして笑いながら受け取った。


布越しに伝わる感触がまだ少し温かい気がした。


「これ、夜中に作ってたやつか」


真白がぱっと顔を上げる。


「み、見てたんですか!?」


「少しだけ」


「もう……」


真白は恥ずかしそうに視線を逸らした。

でも、どこか嬉しそうでもあった。


「もっと上手にできたらよかったんですけど」


「いや……十分だ」


雪也はお守りを見つめた。


「ありがとう。大切にする。」


それ以上の言葉は、

うまく見つからなかった。


真白もそれ以上は求めなかった。


ただ、小さく二人で笑った。


「……また、ここに来てくださいね」


約束はできない。

ここに戻ることが、本当に正しいのかもわからない。

でも、曖昧に濁したくもなかった。


雪也は少しだけ考えてから、

頷いた。


「……うん」


真白は、その返事で十分だという顔をした。

無理に笑っている感じはもうなかった。



===



玄関先には、

あかりが腕を組んで立っていた。


「行くのか」


「ああ」


「ふーん」


あかりはそれ以上すぐには何も言わず、

雪也の手元を見た。


「それ、真白からか」


「……ああ」


「似合ってんじゃん」


「そうか?」


「ああ。前よりはな」


雪也は思わず少しだけ笑った。


「あかり、前の僕をなんだと思ってたんだよ」


「人間のふりした何か」


「ひどい言いっぷりだな」


「今はまだ人間寄り」


ぶっきらぼうなやり取りなのに、

不思議と気まずくはなかった。


あかりは雪道を一度見て、

それから雪也の背中を軽く叩いた。


「……戻ってこなくていい」


雪也は、少し驚いてあかりを見る。


「でも、生きてりゃまた会うこともあるさ」


あかりは肩をすくめた。


「そういうもんだろ」


それは約束じゃない。

一種の慰めでもない。


ただ、あかりなりの誠実だった。


「……世話になった」


「おう」


「ありがとな」


あかりは少しだけ目を細めた。

それから、いつもの調子で言う。


「ちゃんと前向いて歩いてね」


雪也は、小さく頷いた。


「ああ」


それで十分だった。



===



雪也は最後に神社へ向かった。


理由はもう考えなかった。


鳥居をくぐる。

空気が変わる。


止まる、というより、

静かに整う。


境内の中央に美琴が立っていた。


「行くんですね」


「……行く。決めたんだ。」


短い言葉だけで、

それで足りた。


雪は変わらず降り続いている。

霞のような白さが、境内の輪郭を少しずつ曖昧にしていく。


「……怖いですか」


美琴が聞いた。


「……怖い」


雪也はすぐに答えた。


「また、同じように怖くなるかもしれない」


「はい」


「また、近づいて、揺れて、離れたくなるかもしれない」


「はい」


美琴は、一つずつそのまま受け止める。


雪也は手の中のお守りを少しだけ握り直した。


「それでも、歩く」


その言葉はずっと静かだった。


でも、迷いは少なかった。


美琴はほんの少しだけ目を細めた。


「あなたは、

 もうここに留まるべき人ではありません」


雪也はその言葉を否定せず、受け入れた。


ここにいたい気持ちはある。

でも、ここに留まり続けることとは違う。

それが今は分かる。


「……美琴」


「はい」


「僕、たぶんまた怖くなる」


「はい」


「でも、そのときは」


雪也はそこで少しだけ息を吐いた。


「……また、思い出す」


美琴は静かに雪也を見た。


「何をですか」


雪也は手の中のお守りを少しだけ握りしめる。


「ここで、戻ったこと」

「切ろうとしても、終わらなかったこと」

「怖くても、また結べたこと」


美琴の瞳がわずかに揺れた。


「……はい」


少しだけ、間が空く。


美琴は、

雪也をまっすぐに見た。


「あなたが前に進むなら、わたしは消えません」


雪也はすぐに返事ができなかった。


消えない。


その言葉だけが残った。


美琴はそこに居続けるのか。

それとも、自分の中に残ると言っているのか。


その境目は分からなかった。


けれど、分からないままでよかった。


前に進むことが、ここで過ごした時間を置き去りにすることではないのだと、

今はただそれだけが胸に残っていた。


やがて、美琴が一歩だけ後ろへ下がる。


二人の間に、静かな距離が生まれる。


「振り返らないでください」


美琴は少し悲しそうな、寂しそうな声色だった。


その言葉は命令でもない、試しているわけでもない。


ただ、送り出す言葉だった。


雪也は頷いた。


返事はしなかった。

返事をすると、

そこで立ち止まってしまいそうだった。


美琴はもう何も言わなかった。


雪也は境内の外へ一歩踏み出す。


時間が、ほんの一瞬だけ止まるみたいな静けさ。


背中に気配だけが残っている。


でも、確かめない。


振り返らない。


手の中のお守りを強く握る。


そのまま、

もう一歩前へ出た。



===



雪花村の出口で、

一度だけ強い風が吹いた。


雪が舞い視界が白くなる。


その白さの向こうに、

静かな気配があった気がした。


時間が、先へ進むのを待っているような静けさ。


雪也は足を止めなかった。


振り返らず、

ただ前へ歩く。


吹雪の中へ。


そこに何があるのか、まだ分からないまま。


でもそれでよかった。


失うかもしれない。

また怖くなるかもしれない。


それでも、

大切だったことは消えない。


切ろうとしても終わらなかった夜も。

結べることを知った朝も。

手の中に残った、お守りの温かさも。


ちゃんと、ここにある。



――ぬくもりは、雪とともに。



冷たいはずの朝なのに、

手のひらはじんわりと少し温かかった。


雪也はその温かさを握ったまま、

雪の中を歩き続けた。



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