第13話 逃げ場のない静けさ
その夜は、眠ろうとしてもまったく眠れなかった。
目を閉じるたびに今日のことが何度も浮かぶ。
真白の手の中の包み。
少し崩れたおにぎり。
「おにぎり、まだあります」という声。
切ろうとした。
でも、終わらなかった。
それが、胸の奥でずっと重さを持っていた。
――結んだ。
その事実は少しだけ救いだった。
でも同時に、もう今までみたいには切れないのだと、
突きつけられた感じもした。
布団の中で寝返りを打つ。
息を吐いても、胸の奥の熱が抜けない。
結局、雪也は体を起こした。
外はまだ暗い。
雪の気配だけが静かに続いている。
――行かない理由はもうない。
そう思ったときには上着に手が伸びていた。
鳥居をくぐるといつもより空気が重かった。
冷たいのに張りつくような静けさ。
境内の中央に美琴が立っていた。
「……早いですね」
「……眠れなかった」
「はい」
理由を聞かれない。
それが、少しだけ楽だった。
美琴は社殿の前に立ったまま、
動かない。
雪也も、その少し手前で足を止めた。
しばらく、雪の落ちる気配だけが続く。
「……なあ」
声を出すまでに少し時間がかかった。
「僕は、今日……何回も逃げようとした」
美琴は何も言わない。
「切るか、離れるか、
最初からなかったことにするか」
言葉にすると自分の卑怯さがはっきりする。
「……でも、それでも戻った」
「はい」
短い肯定。
それだけなのに、ごまかせない感じがした。
「それって……成長ってやつなのか?」
雪也は自分でも少し皮肉っぽい声で聞いた。
美琴は少しだけ首を傾げた。
「成長ではありません」
即答だった。
雪也は苦笑する。
「……だよな」
「逃げても、終わらなくなっただけです」
胸の奥がぎゅっと縮む。
「……それ、一番きついやつじゃないの?」
「はい」
迷いのない返事。
美琴は雪也を見た。
「あなたは、失うことそのものより」
少し間が空く。
「失ったあと、自分がどうなるかを怖がっています」
雪也は目を伏せた。
否定できない。
「……壊れるからだよ」
声が思ったより低かった。
「前みたいに」
===
――小春。
名前を思い出しただけで、
胸の奥に古い痛みが戻ってくる。
唯一の友達だった。
そう思っていた。
けれど、ある日を境に、
小春は雪也の前からいなくなった。
拒絶された理由も、最後に何を間違えたのかも、
うまく分からないまま。
ただ、気づいたときにはもう、
彼女は転校していた。
幸せだと思うこと。
楽しいと思うこと。
ずっと一緒にいたいと願うこと。
そういうものほど、
失ったあとに自分を壊すのだと知った。
だから、封じた。
僕はもう壊れたくなかった。
===
美琴はすぐには答えなかった。
雪の白さがやけに明るく見える。
「……なあ、美琴」
「はい」
「また誰かを大事にしたら、僕は壊れないか?」
その問いはずっと胸の奥に残っていた。
美琴は、
視線を逸らさなかった。
「壊れます」
胸の奥が一瞬止まる。
「……え」
「痛みます。揺れます」
美琴の声は静かだった。
容赦がないのに冷たくはなかった。
「でも」
少しだけ、間が空く。
「戻れます」
雪也はすぐに返事ができなかった。
壊れないとは言ってくれなかった。
そのことが、かえって胸に残った。
「……簡単に言うな」
ようやく出た言葉は、少し掠れていた。
「簡単ではありません」
美琴はそう言って、
雪也をまっすぐ見た。
「だから、あなたはここにいます」
神社の静けさが、
少しだけ形を持った気がした。
逃げたい。
でも、逃げきれない。
その場所にたしかに自分は立っている。
「……僕、また同じことするかもしれない」
「はい」
「また怖くなって、近づいたぶんだけ離れたくなる」
「はい」
「それでも……」
雪也はそこで言葉を切った。
それでも、の先を
まだうまく言えない。
美琴は追わなかった。
「そのときは、また戻ればいいんです」
雪也は目を上げた。
「……そんな簡単に」
「簡単ではありません」
同じ言葉。
でもさっきとは少し違う響きだった。
「だから、戻ったことはなくなりません」
雪也は、小さく息を吐いた。
切ろうとしたことも、
傷つけたことも消えない。
でも、戻ったことも消えない。
その事実だけが、
静かに胸に残る。
「……そうか」
小さく頷く。
美琴は、
それ以上何も言わなかった。
雪が降る。
音はない。
でも、
その無音の中にだけ、
はっきり時間が流れていた。
===
花月館に戻ると、
まだ誰も起きていなかった。
廊下は静かで、
自分の足音だけが響く。
部屋へ戻ろうとしたとき、
台所の方から小さな灯りが漏れているのに気づいた。
そっと覗くと、
真白がいた。
囲炉裏の火に小鍋をかけて、
お湯を沸かしている。
「……真白?」
「わっ」
真白が、びくりと肩を震わせた。
「ゆ、雪也さん!? 起きてたんですか!?」
「……お前こそ」
「あ、えっと……
なんだか眠れなくて」
少し困ったように笑う。
「温かいもの飲もうかなって」
雪也は少し迷ってから、
台所の中へ入った。
「……僕も、いいか」
「はい、もちろん!」
真白は嬉しそうに湯呑みを二つ出した。
お茶を淹れる音。
立ちのぼる湯気。
それだけで、台所の空気が少しやわらかくなる。
沈黙が落ちる。
でも、今はそれが苦しくない。
真白は湯呑みを見つめたまま、そっと口を開いた。
「……おにぎり、食べましたか?」
雪也は少しだけ間を置いた。
「……食べた」
真白が顔を上げる。
「ほんとですか?」
「ああ」
「よかった」
その一言に変な力が抜けた。
責める言葉じゃない。
確認でもない。
ただ、安心したみたいな声だった。
雪也は湯呑みに口をつける。
少し熱い。
「……めっちゃうまかった」
言ってから、自分で少し驚いた。
真白も、少し驚いた顔をしてから、
やわらかく笑った。
「冷めてもおいしいように、がんばったので」
「ありがとうな」
また沈黙が落ちる。
でも、
今度の沈黙は逃げ場のないものじゃなかった。
「雪也さん」
「……何」
「今日は……その」
真白は少し言い淀んでから、首を振った。
「やっぱり、なんでもないです」
「……そうか」
たぶん、聞こうと思えば聞けた。
でも、今は聞かない方がいい気がした。
その"聞かない"は、朝の逃げとは違う。
ただ、この静けさを壊したくなかった。
二人で湯気を見ているあいだ、
どちらも急いで何かを言わなくてよかった。
それだけで十分楽しかった。




