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SETSUKA  作者: meiban
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12/19

第12話 切ってしまう癖

朝、雪也は目を覚ました瞬間に、

妙な息苦しさを感じていた。


障子越しの光は柔らかい。

外も静かだ。

雪も、昨日と変わらず降っている。


なのに。

胸の奥が落ち着かなかった。


――今日は、何かを間違える。


そんな直感が目を開けた瞬間からそこにあった。


顔を洗っても、

廊下を歩いても、

その感覚は消えない。


食堂に入ると、真白はすでに朝食の支度をしていた。


「おはようございます!」


振り向いた真白の笑顔は昨日までと変わらない。

変わらないはずなのに、今日はその明るさが少しだけ眩しかった。


「……おはよう」


「今日はですね、お昼はおにぎり作ろうと思ってるんです!」


「……おにぎり?」


「はい。雪也さん、最近よく外歩いてるじゃないですか。

食べるもの持ってた方がいいかなって」


理由を"外を歩くから"にしてくれたのが、

かえって苦しかった。


真白は少しでも僕のために何かしたいだけなんだろう。

雪乃さんとの一件もあり、少し心を通わせた存在だ。

それが分かってしまう。


分かってしまうから、

もう逃げたくなる。


「……別に、いいよ」


そう言った瞬間、

真白の表情がまたほんの一瞬だけ止まった。


「あ……そうですか」


すぐに笑顔に戻る。

でも、戻り方が少しだけ早い。


雪也は視線を逸らした。


「僕、今日は……一人で歩くから」


「……はい」


真白は頷いた。

それ以上は聞かなかった。


胸の奥がちくりと痛む。


朝食の湯気だけが上がる。

誰も箸の音を立てない時間が、

やけに長く感じられた。



逃げるように外に出ると、

雪は少しだけ緩んでいた。


足元の感触が昨日と違う。

踏むたびに少しだけ、ザクっと沈む。


雪也は無意識に神社の方角を見た。

けれど、すぐに目を逸らす。


――行くな。


今日は行かない方がいい。


行けば、また近づく。

近づけば、また落ち着かなくなる。

そうなったら、たぶんまた同じことをやる。


そう思って逆の道へ歩き出した。


数歩進んだところで、背後から声がした。


「雪也さーん」


振り返ると、

真白が立っていた。


手に、小さな包みを持っている。


「やっぱり、作ったんです!」


真白は少し息を切らしながら笑った。


「食べたくなかったら無理にとは言いませんけど、

持ってるだけでも――」


「……いらない」


口が、先に動いた。


真白の声が止まる。


「……そう、ですか」


笑ってはいた。

けれど、それが無理に作ったものだということくらい、

雪也にも分かった。


「ごめんなさい。余計なことでしたね」


――ああ、やってしまった。


違う、と言いたかった。


でも言葉が出てこなかった。


真白は包みを抱えたまま、

小さく頭を下げた。


「行ってらっしゃい」


それだけ言って歩いていく。


雪也は、その背中を呼び止められなかった。


呼び止めたところで、

何を言えばいいのかわからなかった。


雪の上に残る足跡は静かにただ遠ざかっていった。



===



気づけば、

あの鳥居の前に立っていた。


来ないつもりだったのに、足はここまで雪也を運んでいた。


中へ入ることもできず、

鳥居の外で立ち尽くす。


境界の向こうから冷たい空気だけが流れてくる。


「……言ってしまいましたか」


背後から声がした。


美琴だった。


しばらく、沈黙が落ちる。


雪が静かに降っているはずなのに、その音さえ聞こえない。

ただ、自分の呼吸だけがやけに近い。


「真白さん、泣いてましたよ」


その一言で喉が詰まった。


「……」


「何があったのか、よくわからないですけど」


美琴は一息おいて静かに言った。


「でも、真白さんを傷つけたのは事実ですね」


何も言えなかった。


言い返す言葉も、言い訳する言葉も、

どこにもない。


「……戻るわ」


「……はい」


美琴に背を向けて、

雪也は花月館へ駆け戻った。



===



宿に戻っても中は暗く、真白も雪乃さんもいないようだった。


部屋へ戻ると、

障子の前に小さな包みが置かれていた。


見覚えのある布。


さっき真白が持っていたものと、

同じ結び方だった。


雪也はしばらくそれを見下ろしていた。


しゃがみこみ、そっと手に取る。


まだ少しだけ温かい気がした。


気のせいかもしれない。

それでも、そう思ってしまった。


布をほどくと、

おにぎりが二つ並んでいた。


ひとつは少し形が崩れている。


握るときに指が強く入ったみたいに、

角が少しだけ潰れていた。


食べる前から喉が詰まった。


「……」


拒絶したのは自分だ。

いらないと言ったのも自分だ。


それなのに、真白は何も言わずに置いていった。


押しつけたわけじゃない。

引き留めたわけでもない。


ただ、そこに残していった。


雪也は包みを閉じ、

しばらく両手で抱えたまま動けなかった。



===



夕方近くになっても、部屋にいるのが息苦しかった。


包みを持ったまま廊下へ出る。


台所の方から真白の声がした。

でも、いつもより少し小さい。


笑っている。

笑っているのに、その声がやけに遠かった。


雪也はその場で立ち止まる。


戻るか。

このままやめるか。


逃げる方がずっと楽だった。


それでも、足はそのまま台所の方へ向いた。


真白は囲炉裏のそばで何かを片付けていた。

居間に入ってきたのに気づくと少し驚いた顔をする。


「あ……雪也さん」


「……」


うまく言葉が出ない。


手の中の包みがやけに重かった。


「その……」


真白の方が先に視線を逸らした。


「さっきはすみませんでした。

一人がいいって言ってたのに勝手に追いかけちゃって」


違う。


そう言いたかった。

でも、喉の奥で詰まる。


「……ごめん」


やっと出たのは、それだけだった。

真白が目を瞬かせる。


「僕、今日……ちゃんと分かってたのに」


そこまで言って、止まる。


何をどう言えば足りるのか、

自分でも分からなかった。


ただ、自分が真白を傷つけたことは確かに分かっていた。


真白はしばらく黙っていた。

それから、少しだけ困ったように笑った。


「……雪也さん」


「……ん?」


「おにぎり、まだあります」


その言葉に、

胸の奥が強く鳴った。


責めるでもなく、

突き放すでもなく、

なかったことにもせずに。


真白はそこに残していた。


雪也は、手の中の包みを少し持ち上げた。


「……受け取った」


「はい」


真白は笑った。

その笑顔は朝より少しだけ弱い。


「……あとで、食べる」


「はい。

冷めてても、おいしいように作ったつもりです」


「……ありがとう」


それだけの会話だった。


でもさっきまで二人の間にあったものが、

少しだけほどけた気がする。


真白はそれ以上何も聞かなかった。

雪也も説明しなかった。


それで十分だった。



夜。


部屋に戻ってから雪也はおにぎりの入った包みを開いた。


もう、すっかり冷えていた。


ひと口、齧る。


塩の加減は少し強い。

でも、本当に温かいおにぎりだった。


昼には拒絶したものが、

今は喉の奥に静かに落ちていく。


食べるたびに、

胸の奥の痛みが少しだけ形を変えていった。


本当においしいおにぎりだった。




===




その夜更け、

雪也は再び神社へ向かった。


今度は迷わなかった。


鳥居をくぐる。

空気が変わる。


時間が薄く引き伸ばされる。

美琴は社殿の前に立っていた。


「来ると思っていました」


「……僕も」


雪也は、その少し手前で立ち止まった。


しばらく沈黙が落ちる。

でも、今夜はその沈黙から逃げたくなかった。


「……今日は一度切ってしまった」


雪也は、自分の声が思ったより低いことに気づいた。


美琴は何も言わずに聞いている。


「近づきすぎたと思った。

だから……すぐに切った方が楽だって、そう思った」


「はい」


短い返事。

責めるでも慰めるでもない。


「真白にも、たぶん……そういうふうに見せた」


「はい」


雪也は唇を噛んだ。


「最低だ」


美琴はすぐには答えなかった。

雪がひとひらと落ちる。


「最低ではありませんよ」


「……」


「あなたは、それから結びました」


その一言が、

胸の奥に静かにしみ込んだ。


「……結ぶ?」


「はい」


美琴は雪也を見た。


「切ったままでは、終わらなかった」


雪也は何も言えなかった。


たしかにそうだ。


拒絶して、

離れて、

そのままにしてしまうこともできた。


でも、また結んだ。


痛くても、

格好悪くても、

戻った。


「……それで、十分なのか」


「今日は」


美琴の声は静かだった。


「切ってしまっただけではありません。

また結んだんです」


切ることしか知らなかった自分に、

別の動きが残っていたのだと、今さらのように分かってしまった。


「……また、やるかもしれない」


「はい」


「また、同じことを」


「はい」


美琴は、全部をそのまま受け止めるみたいに言う。


「それでも、今日はこうやって結びました」


雪也は目を伏せた。


神社の冷たさの中で胸の奥だけが少し熱い。


「……そうだな」


小さく頷く。


許されたわけではない。

傷つけたことが消えるわけでもない。


美琴は雪也を責めなかった。

けれど、その静けさは逃げ道を塞ぐようでもあった。


切った。

結んだ。


その二つを、どちらもなかったことにはしてくれない。


でも切ったあとに残るのが空白だけじゃないと、

初めて知った夜だった。


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