第11話 近づくほど居心地が悪い
神社を出たあとも、
境内の静けさはしばらく耳の奥に残っていた。
耳は平衡感覚を司り、空間そのものを認知するというが。
どう考えても、あの瞬間にいなくなるなんて、おかしい。
雪也は雪道を歩きながら、
何度か後ろを振り返りそうになった。
でも振り返らなかった。
振り返ったところで、まるで連写したなかの一枚の写真だけ幽霊が写るかのように、美琴がひょんと現れるのかなんて分からない。
ただ、確かめるのは少し怖かった。
不思議さよりも、肩先に残っている感覚を無意識に手で払う。
「雪を払おうとしただけだ……」
それくらい分かっている。
なのに、身体が先に引いた。
「……」
自分の反応に、雪也は失望してしまった。
花月館へ戻ると、食堂は賑やかだった。
ちょうどすこしお腹が減ったころである。
「雪也さん、遅いですよー!」
真白が手を振る。
湯気の向こうで、顔が少し赤い。
「すまん、ちょっと寄り道してた」
「またですか?」
「……たまたま」
真白は少しだけ口を尖らせたが、
すぐに笑顔に戻った。
「まあ、いいです!今日は味噌汁、失敗してません!」
「それ、毎回言ってるよな」
「毎回、大事なんです!」
他愛ないやり取り。
笑い声。
湯気の向こうの温かさ。
心がほどけるような気がした。
それなのに、
雪也は椅子に座ったまま、
どこか落ち着かなかった。
――この時間は、長く続かない。
そんな根拠のない考えが勝手に胸の奥で形になる。
期待しすぎない。
踏み込みすぎない。
そうしておけば、失ったときに痛みは少ない。
箸を持つ手が、少しだけ止まった。
「……どうかしました?」
真白が心配そうに覗き込む。
「いや、なんでもない」
反射みたいにそう答えていた。
真白は一瞬だけ何か言いたげにしたが、
それ以上は聞かなかった。
その“踏み込まなさ”に、
雪也は少しだけ安心してしまう。
――やっぱり、このくらいが楽だ。
「……あっ」
真白が、何かを思い出したように声を上げた。
「そういえば雪也さん、今日、お時間ありますか?」
「……時間?」
「はい。村の商店に買い出しに行きたくて。
荷物が多いので、手伝ってもらえたらなって」
雪也は、一瞬だけ迷った。
一緒に出かける。
一緒に時間を過ごす。
来たばっかりのころは普通に一緒に行っていたような気がするけど、
神社での自分の反応に、雪也は何か心の奥に隠された不安を感じ取ってしまった。
「……僕じゃなくても」
そこまで言いかけて、止まる。
真白の顔が、
ほんの少しだけ曇った。
――まただ。
「……いや、いい」
「え?」
「手伝う」
真白の顔がぱっと明るくなった。
「本当ですか!? ありがとうございます!
じゃあ、この後出ましょう!」
「……ああ」
頷きながら、
雪也は小さく息を吐いた。
断れたはずなのに断らなかった。
ただ、真白が悲しむのを僕は見たくない。
その結果が嬉しいのか、怖いのか、
自分でも分からなかった。
===
昼過ぎ。
真白と一緒に村の商店へ向かった。
雪道を歩きながら、
真白が楽しそうに話しかけてくる。
「雪也さんって、どんな食べ物が好きなんですか?」
「……別に」
「別にじゃ分かりませんよー」
「なんでも」
「なんでも、も分かりません!」
真白は頬を膨らませた。
「だって、お料理作るときの参考にしたいんです」
「……」
雪也は少しだけ考える。
「……甘いのは、あんまり」
「甘いの苦手なんですね!」
真白は嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、しょっぱいのは?」
「普通」
「辛いのは?」
「まあ、平気」
「すっぱいのは?」
「全部聞く気か!」
真白は、にこっと笑った。
「知りたいんです」
その笑顔に、
雪也は何も言えなくなった。
――知りたい、か。
そう言われると逃げづらい。
「……肉」
「え?」
「肉は好き」
真白の顔がぱっと明るくなる。
「じゃあ特別に今度、お肉をこれでもかと使った料理作りますね!」
「別に、そこまでしなくても」
「します!」
即答だった。
真白は嬉しそうに鼻歌を歌いながら歩き出す。
雪也はその背中を見つめたまま小さく息を吐いた。
距離が縮まっていく。
それが怖い。
でも、少しだけ嬉しい。
その矛盾が、
胸の奥で静かに揺れていた。
===
商店での買い物を終え、荷物を抱えて帰る途中、
真白が一軒の布屋の前で立ち止まった。
「わあ……」
小さな声。
軒先には色とりどりの布が並んでいる。
「こういうの、好きなのか」
「はい!」
真白は嬉しそうに頷いた。
「実は絵だけじゃなくて裁縫も得意なんですよ!
料理は苦手ですけど……こういうのは昔から好きで」
そう言いながら、
一枚の青い布をそっと指先で撫でた。
ラフ絵の緻密さからも思っていたが、さすがの手の器用さだ。
なぜ料理だけ……。
真白が見惚れていたのは深い青の布だった。
雪の白の中だとなおさら目を引く。
「この色、きれいですね」
「……ああ」
「雪也さんに似合いそうです」
「青が?」
「はい。なんとなく」
真白は少し照れたように笑った。
「お守り袋とか、この布で作ったら綺麗だろうなって」
「お守り?」
「はい。小さいころ、よく作ってたんです」
真白は布を見つめたまま続ける。
「私の想いを込めて、誰かに持っていてほしいものを、
こうやって形にするの好きなんです」
その言葉に、
雪也は少しだけ視線を逸らした。
「……別に、僕は、いらないからね」
「遠慮しなくていいんですよ?」
「遠慮じゃない」
「ふふっ」
真白は笑って、
それ以上は言わなかった。
でも、その横顔は少しだけ嬉しそうだった。
雪也は青い布から目を離せなかった。
――お守り、か。
お守りって、例えば家族の無病息災や安全・幸せを願うような、
大切な人に自分の想いを込めて作り託すものだと思っている。
向けられる親密さとしては、それなりに強い。
だからこそ、真白の何気ない言葉をただの冗談みたいには受け流せなかった。
さらに歩いていると、
道端で白い猫が座っていた。
「あっ」
真白が立ち止まる。
「猫ちゃんです!」
雪の上で丸くなっていた猫は、
こちらをじっと見ている。
真白がしゃがみこんだ。
「こっちおいでー」
手招きするが、猫は動かない。
「……人見知りなんですかね」
少し残念そうな声。
雪也は荷物を置いて、
猫にゆっくり近づいた。
「……おい」
猫が顔を上げる。
雪也は静かにしゃがみ、そっと手を差し出した。
猫はしばらく警戒していたが、
やがてその手に頭を擦りつけてきた。
「わあ!」
真白が嬉しそうに声を上げる。
「雪也さん、猫に好かれてる!」
「……たまたまだよこれ」
「たまたまじゃないですよ。
だって私には全然来てくれなかったですもん」
真白は悔しそうに言ったあと
ぷくっとして笑った。
雪也は猫の背を撫でながら、
ふと思う。
――今はこうしてここにいる。
でも少し経てば、あの時の小春と同じように突然いなくなる。
猫も。
この時間も。
たぶん、全部。
「雪也さん?」
真白が覗き込む。
「……ん?ああ、なんでもない」
雪也は手を離した。
猫はそのまま、ゆっくり雪道の向こうへ歩いていった。
白い道に小さな足跡だけが続いていく。
「……行っちゃいましたね」
「ああ」
真白がその足跡を目で追いながら言った。
「でも、また会えるかもしれませんね」
雪也は少し黙った。
足跡は残っているのに、
姿はもう遠い。
「……そうだな」
口ではそう答えたが、
胸の奥では、また別のことを考えていた。
――会えたとしても、
次はもうこっちに来ないかもしれない。
夕方、花月館へ戻ると、
あかりに声をかけられた。
「真白と買い物行ってたでしょ」
「……見てたのか」
「窓からね」
あかりはニヤつきながら雪也を見ていた。
「真白と買い物、楽しそうだったねー」
「別に……」
「ふ~ん、そういう顔には見えなかったけど」
少しの沈黙が起きた。
そして雪也は答えた。
「うん……。すごく楽しかった」
「お、おう、そうなんだ」
茶化すつもりだったあかりの声が、そこで少しだけ間の抜けたものになる。
雪也自身も、そんなふうに答えた自分に少し驚いていた。
楽しかった。
そう思ったことを、
無理に打ち消さなくてもいいような気がした。
===
その夜、
雪也は再び神社へ向かった。
なんだか落ち着かなかった。
鳥居をくぐる。
また空気が変わる。
昼よりもはっきりと。
時間が薄く引き伸ばされるみたいだった。
美琴は社殿の前に立っていた。
「こんばんは」
「……こんばんは」
一呼吸ぶんの間があいた。
不思議と沈黙は苦しくなかった。
でも楽でもない。
「今日は、少し近づいていますね」
「何に?」
「ここに」
美琴はそれだけ言って、
境内の奥を見た。
雪也は少しだけ苦笑した。
「……すぐ帰るつもりだった」
「はい」
たったそれだけのやり取りなのに、
なぜか誤魔化せない気がした。
雪也は鳥居の方へ視線をやる。
「……もう戻る」
「帰り道、送りましょうか?」
「いや、一人で帰れる」
言った瞬間、
自分でも少し早すぎたと思った。
別に美琴が嫌だったわけじゃない。
一人で帰りたいわけでもない。
ただ、やっぱりこうやって近づかれると、
うまく息ができなくなるみたいに落ち着かなくなる。
美琴は何も言わず小さく頷いた。
「そうですか」
責めるでもなく、
引き留めるでもなく。
そのまま社殿の影へ半歩、また半歩と下がっていく。
雪也は鳥居をくぐった。
一歩、二歩、三歩。
そこで足が止まる。
追い払いたかったわけじゃない。
なのに言葉だけはあんなふうに出た。
背中が妙に寒かった。
――こんなことをしにわざわざ神社に来たかったわけではない。
自分から離れたはずなのに
やっぱり今度も空いた距離が、やけに目についた。
名前はまだつかなかった。
それでも雪也は、その重さを抱えたまま、
花月館へ戻っていく。




