第10話 美琴
どうも、meibanです。
最近学生の時ぶりに国語辞典を買いました。
種類はたくさんあったのですが、一番読みやすそうなレイアウトの明鏡国語辞典にしました。
久しぶりに読んでみると、何も考えずに使っていた言葉の意味が実は間違っていたとか……いろいろな言葉の意味を知れて、とても勉強になりますね。
薪がはぜる音が、朝の静けさに小さく混じっている。
布団の中で目を開けたまま、雪也はしばらく天井を見ていた。
廊下の向こうから味噌汁の匂いがじんわりと流れてくる。
花月館が、少しずつ朝を迎えている。
まだ、幾分か眠い。
けれど、もう眠れそうにはなかった。
逃げるようにしてきたこの村を、いつかは出立しないといけない。
そう思うようになっていた。
「雪也さーん!起きてますかー!」
真白の声だ。
いつもより少し高い。たぶん張り切っている。
「もうすぐ朝ご飯できますから、ちゃんと来てくださいね!」
「……起きてる」
返事はしたが、すぐに布団から出る気にはならなかった。
昨日までの出来事が、思い出のシーンが、しぶとく頭に残っている。
天井の木目を眺めたまま、しばらく動けずにいた。
――ここに来てから、朝が怖くない。
その事実が、胸の奥をかすかにくすぐった。
でも同時に、いつもの調子が狂うような。
やはり期待なんて持たない方がいい。
失うときに痛むから。
「本当に起きてますかー!?」
また真白の声。
「返事だけして二度寝するパターン、もう何回も見破ってますよー!?」
「……寝てねえー!」
「昨日もそう言ってましたー!」
足音が近づいてくる。
廊下を走っている。
――まずい。
雪也は慌てて布団から飛び出した。
障子が、バンと開いた。
「ほらー!やっぱりー!!」
真白が勝ち誇った顔で目の前に立っている。
両手を腰に当てて、完全に決めポーズだ。
「……ああ、今、起きたところだ」
「絶対嘘です!髪の毛、鳥の巣みたいになってます!」
「……ほっとけ」
「ほっときません!朝ごはん冷めちゃいます!」
真白はずかずかと部屋に入ってきて、
雪也の袖を掴んだ。
いつの間にか日常のように感じられる。いつもの朝。
だがここは旅館である。
家族の朝の寸劇ではないのである。
「ちょっ……!」
「早く早くー!」
「引っ張んな!」
「雪也さん、重いです!」
「お前が勝手に引っ張ってるんだろ!」
廊下を引きずられながら、
雪也は小さく息を吐いた。
――こういうの、慣れてきてる。
雪花村での暮らしが日常に感じられるようになり、雪也は少し不安になった。
でも、その気持ちには、わずかに笑いが混じっている。
食堂に着くと、
あかりがすでに座っていた。
野菜たっぷりの味噌汁を飲みながら、
じっとこちらを見ている。
「……何」
「寝起きの顔、ひどいね」
「ほっとけ」
「その“ほっとけ”、三日連続で聞いてるよ」
あかりは箸を置いた。
「昨日と同じ顔だろ」
「じゃあ今日もいつもと同じ雪也だな」
その言葉に、
胸の奥で何かつっかえるものを感じた。
雪也は黙って席に着き、
真白が嬉しそうにお椀を並べる。
「今日はですね!味噌汁、失敗してません!」
「……それ毎回言ってない?」
「毎回、大事なことなんです!」
真白は胸を張った。
雪也は思い出したように神妙な顔つきで伝える。
「昨日しょっぱかったぞ」
「えっ」
真白の動きが、ぴたりと止まる。
「……あれ、気づいてました?」
「全員気づいてたと思うけど」
真白はとぼけるような素振り。
あかりが即座に言った。
「私、海かと思った」
「そ、そんな……」
真白は、がくりと膝をついた。
たしかに昨日の味噌汁は、とても潮の風味を感じられた。
わかめの塩分なのだろうか。
でも今日のはだしがほんのり効いていて、おいしい。
確かに、おいしい。
「私、もう料理の才能ないのかも……」
「いや、そこまで落ち込むな」
雪也は思わず苦笑した。
「だって……あかりちゃんにまで……」
「今日のはすげえおいしいぞ。なああかり…?」
「うん!昨日とはだいぶ違って、おいしい、ね!」
あかりはまた味噌汁を飲んだ。
真白はゆっくり顔を上げる。
「……雪也さん、今、笑いましたね?」
「笑ってない」
「笑いました! 私、見ました!」
真白は急に元気を取り戻した。
「じゃあ今日の味噌汁、雪也さんには二杯目サービスします!」
「いや、一杯でいい」
「遠慮しないでください!」
「遠慮してない」
雪也は小さくため息をつき、進んで食していく。
真白は嬉しそうに調理場へ戻っていった。
「……ねえあのさ」
あかりが少し声を低くした。
「なんか最近顔つきが変わったね」
「……は?」
「なんというか、前より積極的になったというか」
「……まあな」
あかりは箸でご飯をつまみながら言う。
「前は『誰とも関わりたくねぇ』みたいな顔してた、
でも今は『本当は関わりたくないけど、ちょっと関わってる』みたいな顔」
「……そうか」
あかりは立ち上がった。
「まあ、その顔の方が見てて楽だわ」
それだけ言って、
食器を下げに行った。
雪也は、自分の頬に触れた。
――変わった?
雪花村に来てもう1週間は過ぎているだろうか。
逃げ出すように家を出て、この村に来てすっかりなじんでしまった。
ここに来てからの出来事が、まるでスライドショーのように頭をよぎっていく。
あかりがそう言うなら、たぶん自分の中の何かが変わっている。
それが嬉しいのか、
それとも怖いのか。
ほんの少しだけど、嫌な予感がした。
この場所から戻れなくなりそうな気がしていた。
落ち着く日常に甘えてはいけない。
そう分かっているのに、雪也は唇を嚙みしめ逡巡していた。
冷え切ったリビング。
誰もいない食卓。
帰りたいと願うような場所ではなかったはずだ。
それなのに今、唯一の家族のことをたまらなく恋しく思っている。
それが、なんだか少しだけ……変だなと。
そう、感じた。
===
朝食を終えると、
雪也は外に出た。
冷たい空気が一気に流れ込んでくる。
肺が縮む。
頭が少しだけ冴えた。
雪は音もなく降っている。
村は静かで、どこか息を潜めているようだった。
――ここは、落ち着く。
見慣れた風景に打たれてしまった自分に、
雪也は小さく舌打ちした。
落ち着く場所は長くいる場所じゃない。
そうやって今まで生きてきた。
帰るべきなのだろうか。
なのに、
足は自然と神社の方へ向かっていた。
「……何やってんだろ」
誰に言うでもなく、
足は止まらなかった。
鳥居の前に立つと、空気が一段冷たくなる。
前にも来たことがある不思議な場所だ。
一歩、また一歩、
足を踏み入れた瞬間、風が止んだ。
村の静けさとは違う。
空気の層が一枚だけ増えたような静けさ。
「……また、か」
小さく呟くと、
自分の声がやけに響いた。
境内の奥へゆっくりと進むと足音が雪に吸い込まれていく。
そのときだった。
――カラン。
はっきり聞こえたのに、
どこから鳴ったのか分からない。
視線を上げる。
そこには、巫女装束を纏った少女が立っていた。
雪の中に最初からそこにいたみたいに、
銀色の髪が静かに揺れている。
雪花村に来たばっかりのころに、
真白に連れられてここへ来たときに境内を掃いていた少女。
――美琴だ。
驚きはなかった。
花月館でも何度か会い、先日もみんなでご飯を食べた。
何より、この前も丘の上で天体観測(という名の観光)をしたばかりだ。
太陽の光を受けて銀髪を輝かせる、
美琴の艶やかさにみほれてしまう。
「おはようございます」
声は静かだった。
「……あ、お、おはよう。元気?」
集中していたその時、突然の挨拶に驚き入る。
ふと、あの言葉が頭に浮かんだ。
――あなたは来るべき人だったのでしょう。
その一言だけ頭から妙に離れない。
改めて二人きりでこうやって会話をするのは久しぶりだった。
というより、美琴と面と向かって会話をするのは、
"避けてきた"ような気がする。
美琴は境内を見回すように視線を巡らせ、
静かに言った。
「今日は、少し長く留まっていますね」
「……何が?」
「あなたの足が」
雪也は思わず足元を見た。
雪の上にくっきりと足跡が残っている。
自分のものしかないはずなのに、
なぜかひどく目についた。
「……意味、分からないな」
「分からなくていいですよ」
それだけ言って、
美琴は空を見上げた。
少し間が空く。
雪也は言い返す言葉を見つけられないまま、ただ立っていた。
「……雪、冷たいですね」
「え?」
急に話が変わった。
美琴は手のひらを空へ向け、そこに雪がそっと落ちる。
「最近、外の雪に手で触れていなかったような」
「……ずっと神社にいるから?」
「はい」
確かに神社か花月館以外で美琴と会ったのは数回だろうか。
手のひらの雪を見つめたままに、
美琴は小さく息を吐いた。
「あぁ、雪の冷たさ、少し忘れていました。いつも寒さを肌で感じるだけなので」
その言い方が妙に人間らしくて、
雪也は少し拍子抜けした。
「それって、忘れるもんなのか」
「忘れてしまいますね。雪也さんはもう慣れているでしょうけど」
美琴は神妙な顔をしながら、そっと手を下ろした。
「でも触れると、ああ、じんわり冷たいなって思い出します」
雪也は、その横顔から目を離せずにいた。
美琴が一歩近づいてきて、
ほんの少しだけ。雪を踏む音がかすかにした。
そのとき、美琴の手が雪也の肩先へ伸びた。
―――ふと身体が先に引いてしまった。
半歩。
自分でも意識しないうちに距離を空けていた。
美琴の手が止まる。
雪也はその止まった手を見たまま動けなかった。
美琴は何も言わず、静かに手を下ろした。
「……すみません」
言われて、
自分が何をされたのか、ようやく分かった。
ただ、少し肩についた雪を払おうとしただけだと分かる。
そうだと分かるのに。
「いや……」
違う。
謝るのは美琴じゃない。
でも、その続きをうまく言えなかった。
胸の奥になんだか鈍い痛みみたいなものが残る。
美琴は何も返さなかった。
ただ、音のない境内で少しだけ目を伏せていた。
「……今日は、ここまでにしておきましょう」
「え?」
「冷えますからね。……すみません」
そう言って美琴は社殿の影の方へ下がった。
雪が少し強く吹き付ける。
雪也が目を細め、もう一度視線を向けたとき、
そこには、もう誰もいなかった。
「……え?」
境内に残ったのは、
さっきまで誰かがいた気配だけ。
雪也は唖然としてその場から動けなかった。
しばらくして、ようやく息を吐く。
吐いたはずの息が、喉の奥でつっかえたように抜けていかない。
何かが引っかかったまま残っている。
それが温かいのか、冷たいのかさえ分からなかった。




