第9話 星に、誓いを。
窓から入る柔らかい光に誘われるかのように、雪也は目を覚ました。
あれからいつの間にか眠ってしまっていたようだ。
隣にいたはずのあかりは、暖炉の側で古びたラジオのチューナーを弄っている。
外の様子を見る限り、ようやく大変な一夜を明け、いつもの穏やかな山へと戻っているようだった。
「よっ、おそようさん。」
あかりはまるで昨晩の取り乱した様子がなかったかのように平静を保って挨拶した。でも。
「おはようさん。目の下、腫れてるぞ。」
雪也はからかうように、あかりに伝える。
「もー!そういうのは言わない約束でしょ、デリカシーがないなあ。」
あかりは口を尖らせ、でも少し笑いながら雪也にそう答えた。
『...今日の天気予報をお伝えします。本日の雪花村の天気は晴れ。今晩の到来が予想される流星群もはっきりみえそうです。』
調節が終わったのだろう、ラジオから陽気なBGMとともにそんな声が流れてきた。
「よかった~!真白ちゃんや美琴っちと一緒に見ようって約束してたんだよね~!」
「そんなに有名な流星群なのか?」
「えっ、雪也知らないの?30年に一度くらいしか来ないらしいよ?これは見るしかないでしょ。」
この村に来る前にも数十年に一度の流星が来たってニュースで言ってたような気がするが、天気予報でもよく10年に一度の寒波とかよく言っているし、そんなもんなんだろうか。
「雪也、なんか信じてないって顔してるなあ。そうだ!雪也も今日ついてきなよ!」
雪也は正直面倒だったが、あかりの圧に押され、真冬の星空観察会に渋々参加する(させられる?)ことになった。
下山前、一晩明かした室内を改めて見渡す。
キッチンの戸棚には大きなマグカップ、玄関には男性用の大きなスノーブーツやバックパック。
あちこちに、あかりの叔父さんがここにいた痕跡が、二人で過ごしていた痕跡が残っている。
もう使うものではないかもしれない。でもそれでいいんだ。
別れるということは、すべてを忘れなくちゃいけない、なんてことは決してないんだ。
もし全てを捨て去り忘れようとしていたら、それは別れじゃなくて、逃げているだけなのかもしれない。
……僕は、どっちだろう。別れか、逃避か。
聞くまでもない質問だなと、自分自身で笑ってしまった。
踏み出せないでいる感覚だけがずっと残っている。
これから雪が溶け、彼女の名前と同じ、あの季節がやってくる。
「……小春」
雪也は一人、小さく、彼女の名前を呼ぶ。
あかりはそんな様子の雪也を、温かな眼差しで、そっと見ていた。
「んじゃ雪也、行こうか」
あかりは朗らかに、声を掛けた。
「行ってきます」
あかりは続けてそう言い、山小屋の扉をゆっくりと閉じた。
雪也にはその芯のある声が、まるで道標のように心強く思えた。
雪山を下り、無事に花月館に到着した。
「ただいまー!」
あかりが玄関の引き戸をガラガラと開けて入っていく。
「あかりちゃーん!もうほんとに心配したよー!」
号泣しながら真白があかりに抱きつく。
夕方になっても帰ってこず、電話も繋がらない二人のことをずっと心配してくれていたらしい。
「なんとか山小屋には戻れて、二人で一晩篭もってたんだ。」
雪也は正直にそう答えた。
「......あかりちゃん、大丈夫だった?雪也さんになにかされなかった?」
真白は驚き、あかりにすぐさまそう聞いた。
雪也は昨晩のことを思い出す。
二人で毛布に包まり、暖炉で話し、そして、雪也の胸の中で泣きはらした時のあかりの肩の震えや、あかりの温度を。
あかりも同じことを思い出したようだ。
「......だ、大丈夫だったよ!心配しないで!」
と、顔を真っ赤にして、明らかに焦ったようにうろたえた。
「なに今の間!ほんとうに大丈夫?あやしいな~!雪也さん、どうなんですか!?」
真白は今度は雪也にターゲットを移したようだ。
「......だ、大丈夫だ!何もない!何も!」
「そういうふうに強く言ってるのが逆にあやしいですよ!」
あの時間、交わした言葉は、あかりと雪也だけの秘密だ。
その後も真白の執拗な質問攻撃が続いたが、雪也は疲れてるから、寝たいから、と理由をつけ、そそくさと部屋に行き、なんとかやり過ごした。
実際疲れていたのだろう、夕方までぐっすりと眠っていた。
トントントン、という調理場からの包丁の音で目を覚ました。
食堂へ向かうと、真白やあかり、そして美琴も集まっていた。
「雪也さん、お邪魔してます。流星群、楽しみですね。もうこの村には慣れましたか?」
美琴が抑揚の小さい声色で話しかけた。とても透き通った声だ。
「うん、だいぶね。とても居心地のいい村だなって思う。」
「そうですか。でも、もうそうそろ、みたいですね。」
美琴は何かを知っているかのようにそう呟く。
雪也は自分が村の来訪者であることを、村に”呼ばれた”存在であることを思い出す。
“呼ばれた”理由に薄々気づいていることをまるで見透かされているようで、少し怖気づいた。
「大丈夫です。雪也さんならきっと、大丈夫だと思います。」
その言葉は、雪也の「この場所にもっと長くいたい、安らいでいたい。」という気持ちを暗に否定されているようで、胸がチクリと痛んだ。
「おう。サンキューな。」
雪也はそう答えるので精一杯だった。
晩ごはんを皆でわいわいと食べている間に陽はすっかり沈み、夜の静けさが訪れた。
4人で花月館を出て、流星群を眺めるため、村のはずれにある丘へと4人で向かっていく。
道中、雪灯籠祭りの準備をしているようで、村人たちが灯りをつけて確かめていた。
「雪也さん、雪也さん、みてください!」
真白が近寄った先には腰の高さくらいの小さな雪灯籠があった。
4人で雪灯籠を囲い、チロチロと揺れる火を眺める。
その火はどこか頼りなく、儚げで、雪に反射してゆらゆらと揺れていた。
「かわいいなあ。灯火さん、頑張って~。」
真白は火が消えないように、小さく、そっと呟く。
あかりや美琴も、その言葉を聞いて、その火を見ていた。見守っていた。
雪也も「頑張れ、頑張れ。」と心の中で小さく呟いた。
それは、か弱い灯火を励ます言葉であったのと同時に、これから己の弱さと向き合わなければいけない自分自身へ向けた言葉だったのかもしれない。
―――そのことに気づくのは、もっともっと先のことだった。
村の外れにある小高い丘を登った先には、満点の星空が輝いていた。
大小さまざまな星々が、自分の存在を知らしめようと、精一杯にキラキラと光を放っている。
その銀砂を撒いたような夜空を前に、雪也は息をのんだ。
街明かりがないからだろうか。嵐が過ぎ去り、余計なものを吹き飛ばしてくれたからだろうか。
幾筋もの流星が、星の合間をサーッ、サーッと駆け抜けていく。
美琴は手を合わせ、息を潜めて流れ星を眺めている。
「お願いごと、お願いごとー!」
と、空を抱こうとするかのように真白は両手を伸ばし、走り出した。
あかりはというと、その様子を見てパーカーのポッケに手を突っ込んだままふっと笑い、また視線を宙へと戻した。
あかりは、出会った中で一番真剣な眼差しで、流星群を見つめていた。
おそらく彼女は、美琴の神社でも願い事をしなかったように、今もきっと、星に願いを託したりはしていないんだろう。口は固く閉じ、ただひたすらに見つめている。
あれは願っているんじゃない、誓いだ。
幼い頃に両親を亡くし、育ててもらった叔父をまた亡くし、その現実から少しばかり逃げてしまっていたあかり。
あかりはようやく、自分の弱さと向き合い、認めることができたのだ。
誓っているのは両親に対してだろうか、叔父に対してだろうか、それとも彼女の言う「ふるさと」であるこの村や自然に対してだろうか。
雪也はそのどれでもないような気がした。
あかりはもう、都合のいいように、他者を解釈したりすることはないだろう。
誓っているのは、あかり自身に対してだと雪也は確信した。
「綺麗だな。」
雪也はあかりの側に行き、そう声をかける。
「うん。流星群だけじゃなくて、冬の大三角も綺麗に見えてる。」
あかりが指差した方向を、雪也も見上げる。
「あれがベテルギウス、あっちがプロキオン、んでこっちがシリウス。」
流れ星に負けじとばかりに、眩く輝いている。
「詳しいんだな。」
雪也はあかりに言った。
「ん。昔ね、叔父さんが教えてくれたんだ。この丘、この場所で。」
あかりはそれだけ言って、夜空を眺め続けた。
「雪也。その、いろいろとありがとな。なかなかタイミングなくて言えてなかったから。」
帰り際、あかりが少し照れたように頬を掻きながら、雪也にそう言った。
「私は、もっと強く在りたい。昨日雪也と話して、そう思ったんだ。ちゃんと目の前を見て、人の優しさを優しさとして受け取って、悲しみを悲しみとして受け取めて。」
あかりは深呼吸をし、星を仰ぐ。
「そんな人に、私はなりたい。私は私に、正直に在りたいって、在ろうって、そう思ったんだ。」
「だから雪也、ほんと、ありがとな。」
あかりは雪也にそっと手を差し出す。
「僕は何もしてないよ、何も。」
雪也はぶっきらぼうにそう言った。あかりの手は、まだ握れなかった。
「やっぱり雪也は優しいね。いや、優しいって、ずっとそう思ってた。」
「でも、優しいのと、逃げているのは、似ているようで、違うよね。」
あかりの眼差しが、雪也の瞳をじっと見つめている。
星を眺めていた時よりももっと真剣で、切実な色をしていた。
「雪也。次は、雪也の番だね。」
そう言うとあかりは前を歩いている真白や美琴の方へと駆け出していった。
その後ろ姿は、少し前に花月館で見送った少女の背中よりも、強く、大きく見えた。
分かっている。分かっているんだ。次は、僕の番だ。
さよならの時が、別れの季節が近づいている。
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また同じ夢を見た。
「ゆきやくん!今日もぼうけんしようよ!」
と弾む声が僕を呼んでいる。
彼女の名前と同じ季節、桜並木の中を誘われるがまま彼女の背中を追いかける。
そして風が強く吹いたその瞬間、淡い桃色の吹雪に包まれ、少女の姿は消えてしまう。
気づけばそこには、舞い落ちる花びらだけが残っていた。
「......こはる。」
僕はそう呼んだだけで、次の言葉は出てこなかった。
―――夢の中のはずなのに、その光景はやけに鮮明だった。
別れのあの日、小春は雪也をただ睨みつけるかのようにじっと見つめ、何も言わずに去っていった。
なぜ、どうして。
なぜ、どうして。
疑問符が雪也の頭を埋め尽くしていた。
でも、今なら分かる。僕はあのときからずっと、重大な勘違いをしていたんだ。
小春は、雪也を嫌ってなどいなかったのだ。
幼かった小春は、彼女なりの不器用な優しさで、雪也に自分のことを忘れさせようとしていたんだ。離れ離れになったあとに、雪也が囚われてしまわないように。
でもそれは、返って逆効果だった。
別れを言う機会を奪われた雪也の心にはいつも、小春の視線が焼き付いていた。
本当は、もっと言いたいことがあった。
ちゃんと、さよならを言いたかった。
でも、あの時の僕はただ立ちすくむことしかできなかった。
―――桜並木の中で、あかりの声が、言葉が、響いた。
『次は、雪也の番だね。』
そこで夢は唐突に終わりを告げた。
目を開けると、部屋の窓から仄暗い光が差し込んでいる。
夜明けはもうすぐそこだ。
「......小春。」
布団の温もりの中で、もう一度だけ、彼女の名を呟いた。




