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第9話 ノルドの甘水

 白パンを焼いた日から三日後のことだ。


「売れた」


 荷馬車から降りたドルフの第一声はそれだった。


 前に来たときよりロバが一頭増えている。荷台には塩の袋と油の壺、種麦の袋が前回の倍。それから、革袋がひとつ。


「ラッセルの町で十樽が二日で売り切れた」


 ドルフは革袋をリーゼに放った。

 中で硬い音がした。


 リーゼが袋を開けた。

 銀貨が五枚。


「……五枚?」

「売値は一樽、銀貨一枚と銅貨二十。十樽で十二枚。四割で五枚弱。端数はおまけだ」


 リーゼは銀貨を一枚つまんで光に透かした。

 村長のハンスが後ろで小さく息を吐いた。


「この村で銀貨を見るのは二十年ぶりだ」


 ◇


 ドルフの話はこうだった。


 荒野を抜けて七日。ラッセルの町の市場で樽を開けた。

 最初は誰も買わなかった。「水に銀貨など払えるか」と笑われた。


 そこでドルフは杯一杯ずつ、ただで配った。

 飲んだ者は黙った。二杯目を求めた。

 そして宿屋の女将が、腹を下して三日寝込んでいた息子に一杯飲ませた。


「翌朝その子が市場に走ってきてな。『あの水をもう一杯』と。それで終わりだ」

「……治ったんですか」

「汚れた井戸水で腹を壊してた子だ。きれいな水を飲めば治る。当たり前の話だ」


 ドルフは肩をすくめた。


「だが町の連中には『万病に効く水』に聞こえた。噂ってのはそういうもんだ」


 町中が並んだ。十樽は二日で消え、三日目には「次はいつ来る」と訊かれた。


「樽は腐ってませんでしたか」

「七日目に開けた最後の樽が汲んだ日と同じ味だった。……アレンさんよ。樽に掛けたあの付与、商人が知ったら戦争になるぞ」

「戦争、ですか」

「水が腐らん。酒も腐らんだろう。油も、塩漬けも。……まあ今は言うな。言えば面倒が来る」


 ドルフは煙草に火をつけて空を見た。


「それともう一つ。悪い知らせと面倒な知らせがある」


 ◇


 悪い知らせは噂だった。


「『ノルドの甘水』はもうラッセルの外まで広まっとる。荒野の村に万病に効く井戸がある。死んだ土地に麦が実った。……噂は尾ひれがついて王都のほうへ流れていく」

「それは悪い知らせなんですか」

「噂はいいものだけ運ぶわけじゃない。そのうちお前の名前も届く。王都にな」


 俺は黙った。

 王都に俺の名前が。

 あの人たちの耳に。


 見つかればどうなるのだろう。呼び戻されるのか。それとももう一度「役立たず」と笑われるのか。

 どちらも嫌だった。

 俺はここにいたい。そう思っている自分に少し驚いた。


「面倒な知らせのほうはあれだ」


 ドルフが顎で門のほうを示した。


 門の外に人がいた。

 七人。


 痩せた女と、しがみつく子どもが三人。背中の曲がった老夫婦。それから、無口そうな若い男がひとり。

 全員が荷物と呼べるものをほとんど持っていなかった。


「ラッセルからついてきた。『麦が実る村がある』と聞いてな。……追い返せなかった」


 ◇


「どうするの」


 リーゼが低い声で言った。


「三十人が冬を越す麦はある。でも来年の種麦を残したら余りはわずか。七人増えれば春までぎりぎり」

「ぎりぎりでも越せるんですね」

「……越せる。たぶん。次の畑が間に合えば」


 ハンスが俺を見た。


「決めるのは管理官殿だ」


 村の全員が俺を見ていた。

 門の外の七人も俺を見ていた。


 俺は村に来た日のことを思い出していた。

 鍬を構えたリーゼが「期待しないで」と言いながら、俺を追い返さなかった日のことを。


 ──帰る場所がない人を追い返したくない。

 それだけだ。理屈ではなかった。


「受け入れます」


 リーゼが小さく息を吐いた。怒った顔ではなかった。


「……言うと思った」

「すみません」

「謝らないでよ。麦の計算は私がする」

「お願いします。……ゲルトさん、屋根が残っている空き家は」

「二軒ある。詰めれば七人入る」

「今夜はそこに。食料の分け方は明日の朝、全員で決めましょう」


 自分の口からそんな言葉が出たことに驚いた。

 王都では五年間何一つ決めたことがなかったのに。


 ◇


 七人を門の内側に入れて、俺が最初にしたのは名前を聞くことだった。


 女はベルタ。夫を東の国境で亡くし、子ども三人を連れて二年、町から町へ流れてきた。子どもはハンナ、ルカ、末のエマ。

 老夫婦はオットーとグレタ。ラッセルで畑を人手に取られ、行き場をなくした。

 若い男はニコ。名前だけを答え、どこから来たのかも、何ができるのかも話さなかった。


 俺はベルタの額に手を伸ばしかけて、止めた。


「頑健を、と思ったんですが」

「……何か?」

「掛からない気がします。あなたがこの村で何をする人なのか、まだ俺に見えていないので」


 付与には名前と役割がいる。

 七人の名前は分かった。でもこの村での役割はまだ俺には見えない。


 ヨナスのときは「生きていること」で掛かった。でもあれは二十年この村で生きてきた人だからだ。

 今日来たばかりの人たちがここで何を担うのか。それは俺が決めることでも、勝手に見なすことでもない。本人たちがこれから決めることだ。


「じゃあ」


 ベルタが子どもを抱き直して言った。


「明日から何でもします。畑でも、水汲みでも。……それで役割になりますか」

「なります。たぶん」


 リーゼが横で「またたぶん」と呟いた。


 ◇


 夕方、ドルフは二十個の小樽を下ろし、水を詰めて積み直した。ロバが一頭増えたのはこのためだったらしい。


「次はラッセルの先、街道沿いの三つの町を回る。ひと月で戻る」


 荷馬車に上がりかけて、ドルフは振り返った。


「アレンさん。一つ言っとく」

「はい」

「次に来るときは七人じゃ済まんぞ」


 荷馬車は荒野の南へ消えていった。


 門の内側でリーゼが指を折って数えていた。


「三十七人」

「……名前覚えないと」

「頑張って、管理官殿」


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