第8話 初めての白パン
種を撒いて十二日目の朝、北の畑は金色になっていた。
最初の一掴みが芽を出した日、リーゼが残りの種を全部撒いた畑だ。
膝の高さだった麦は俺の胸の高さまで伸び、重そうに穂を垂れている。風が吹くと畑全体がさわさわと鳴った。
「……これが金色の波か」
隣でリーゼが呟いた。
父親に聞かされるだけで見たことのなかった景色。
「刈るわよ。全員出て」
リーゼは一瞬だけ目元を拭って、それから振り返って叫んだ。
◇
収穫は一日で終わった。
三十人のうち動ける者は全員が鎌を持った。頑健の付与のおかげか、誰も途中で座り込まなかった。
マーサは「二十年ぶりに鎌を握った」と言いながら誰よりも早く刈った。双子は束ねる係で、三度ほど入れ替わって叱られていた。
脱穀と選別にはさらに三日かかった。
麦の山を見た村長のハンスは、しばらく黙ってから言った。
「……三十人が冬を越してまだ余る」
問題はその後だった。
「石臼が」
ゲルトが村の倉から引きずり出してきたのは、ひび割れた石臼だった。大侵攻のときに半分欠けて、以来二十年使われていない。
「これで挽いても粉が粗い。殻が混じって黒くてざらざらしたパンにしかならん」
「アレン、何とかできない?」
リーゼが俺を見た。
最近村の全員がこういう目で俺を見る。慣れない。
俺は石臼に手を置いた。
欠けた石。役割は──麦を挽いて粉にすること。
ただ、それだけではたぶん粗い粉のままだ。付与は役割の範囲でしか効かない。井戸の毒は消せても体力は戻せなかったように。
「この石臼でどんな粉にしたいですか」
「そりゃ白くて細かい……王都のパン屋が使うような」
「じゃあそれが役割です」
麦を白く細かい粉に挽くための石臼。
「製粉」
いつもの染みていく感触。
ゲルトが麦を一掴み入れて、臼を回した。
出てきた粉は驚くほど細かく、指で摘むと絹のようだった。マーサがそれをふるいに掛けると、茶色いふすまが分かれて下に残ったのは真っ白な粉だった。
「……おお」
「でも欠けたところは直ってませんね」
「直らんのか」
「俺の付与は壊れたものを元には戻せないみたいです。門の板も割れたままでしたから」
ゲルトは欠けた縁を撫でて頷いた。
「ならそこは俺の仕事だ」
彼は欠けた縁を鑿で削って平らにし、倉にあった古い鉄の帯で臼を締め直した。
半日の仕事だった。石臼は二十年ぶりに本気で回り始めた。
◇
もう一つの問題は窯だった。
村のパン窯は二十年前に崩れたきりだ。石を積んだ土台だけが残っている。
「これにも付与を?」
「崩れたものにはたぶん意味がないです。不壊を掛けても崩れたまま壊れなくなるだけで」
俺は正直に言った。
リーゼは少しがっかりした顔をしたが、ゲルトは逆に腕まくりをした。
「石と泥があれば窯は積める。昔俺が積んだんだ。……腰が痛くなけりゃな」
腰は痛くなかった。
ゲルトは翌日の半日で窯を積み直した。双子が泥を運び、マーサが火の番をした。
俺は何もしていない。ただ、できあがった窯に手を当てて一つだけ掛けた。
火を均一に通す窯。
「均熱」
生地はマーサが仕込んだ。
二十年絶やさずに継いできたという酵母種を、白い粉と甘い水で練って一晩寝かせる。
「娘が生きてた頃は毎週焼いてたんだ」と彼女は手を止めずに言った。
◇
翌日の夕方、村に匂いが広がった。
焼けた小麦の、甘くて香ばしい匂い。
子どもたちが窯の前に並び、大人たちもその後ろに並んだ。誰も何も言わず、ただ窯を見ていた。
リーゼが木のへらで窯からパンを掻き出した。
丸くて、白くて、表面がきつね色に焼けたパンが、十二個。
一つが子どもの頭ほどもある。三人で一つを分けても全員に行き渡る数だった。
リーゼは最初の一つを割った。
湯気が上がった。中は真っ白でふわりと膨らんでいる。
彼女はその半分を俺に差し出した。
「……俺より子どもたちに」
「最初の一口はあんた」
有無を言わせぬ声だった。
俺はパンを受け取り、一口かじった。
熱い。甘い。柔らかい。
王都の高級店で食べたどのパンより、うまかった。たぶん腹が減っていたからだ。たぶんそれだけじゃない。
「……どう?」
「うまいです」
「それだけ?」
「……すごくうまいです」
リーゼは満足そうに頷いて、残りの半分を自分の口に入れた。
そして黙った。
目を閉じて長いこと噛んで、飲み込んでから一言だけ言った。
「白いパンって、こんな味なんだ」
◇
その夜、俺は井戸の縁に座っていた。
村はまだ起きていた。あちこちの家から笑い声が聞こえる。腹いっぱい食べた子どもたちがなかなか寝ないのだという。
「隣、いい?」
リーゼだった。返事を待たずに座った。
「ねえ。あんた、怒らないの?」
「何にですか」
「追放されたこと。五年も尽くして、役立たずって言われて、こんな荒野に飛ばされて」
俺は少し考えた。
「……怒り方がよく分からないんです。自分が悪かったのかな、と先に思ってしまって」
「ふうん」
リーゼは膝を抱えた。
「じゃあ私が代わりに怒っとく」
「え」
「あんたを追い出した連中に。いつか会ったら鍬で殴る」
「殴らないでください」
「殴る」
俺は笑ってしまった。
誰かが自分のために怒ってくれるというのは、こういう気持ちなのか。胸の奥のずっと固かったところが、少しだけ軽くなった気がした。
彼女は立ち上がり、家に戻りかけて振り返った。
「……ありがとう。パン、おいしかった」
それだけ言って、行ってしまった。
俺は井戸の縁に座ったまま、しばらく空を見ていた。
荒野の空は相変わらず広かった。
◇
三日後。
ドルフの荷馬車が村の門をくぐった。前に来てからまだ半月あまりしか経っていない。




