第62話 規定外の三回目
四本目の線を引いてから、十日。
西に緑の線が見えた。泉から丘まで。腰の高さの草が風で波になって丘の陰で終わっている。
ガロの仲間が二組、縄と丸太を担いで西へ出ていった。線の脇に小屋を建てるために。
その朝、鷲の道から荷馬車が来た。
ドルフの便ではない。荷馬車が一台にロバが一頭。御者は辺境伯の人夫だった。
荷台に灰色のローブが一人座っていた。
「……携行食は六日分持ちました」
ヴァンスは荷台から降りて最初にそれを言った。
「規定外の三回目です」
◇
「二冊目は春に、と言いました」
村長の家でヴァンスは机にペンを置いた。縁と平行に。
「春に間に合いませんでした。謝ります。……オズワルド様が三度書き直しています。砦の項が増えました。古壁の項が増えました。この冬からこの春までに掛かったものが増えたので頁が足りなくなりました」
几帳面な男は几帳面に遅れた理由を言った。
「二冊目は秋に。……たぶん、と言いたいところですが規定外の言葉なので言いません」
「言ってもいいですよ」
「言いません」
ヴァンスは背負い袋から油紙の包みを出した。
本ではなかった。帳面だった。革の表紙で紐で綴じてある。
「代わりに、これを」
◇
帳面を開いた。
几帳面な字ではなかった。太い、押しつけるような字だ。
『東の砦。守るもの。』
一行目にそう書いてあった。
その下に名前が並んでいた。
『砦の門。役割は、兵を通し、敵を止めること。』
『北の見張り台。役割は、霧を先に見ること。』
『砦の井戸。役割は、三百人に水を届けること。』
『兵舎。役割は、兵が眠ること。』
三十。
門、塔、井戸、兵舎、厩、炊事場、矢倉、鐘。砦の中で名前があるものが三十、役割と一緒に書いてある。
「ベルンハルト副長の字です」
ヴァンスが言った。
「『来年持っていく』と言伝しました。……来年まで待てなくなった、と。東の国境で黒い列が動き始めている、と前線から。副長は砦に一年いて三十の名前を集めました。集めた名前を、あなたが来年のひと月で掛けに来る前に一度あなたの手元に置いておきたい、と」
俺は帳面を閉じた。
重かった。三十の名前と一年の重さだ。
「……俺は来年のひと月まで砦には行けません」
「知っています。副長も知っています。規定通りです」
「なら、この帳面は」
「預かってほしい、と。……名前は知っている人が二人いれば片方が忘れても残る。副長はそう言いました。あなたが読んで覚えておく。砦では副長が読む。それだけで来年までに名前が消えない」
名前は呼ぶ人がいれば残る。
十日前にオルムの石を見ながら考えたことだ。王都の副ギルド長が砦で同じことを考えていた。
「……預かります」
俺は帳面を机に置いた。リーゼの帳面の横に。
「読みます。毎晩。……来年のひと月に三十を一日で掛けられるように」
「規定にはない方法です」
「規定にない方法はヴァンスさんが一番知っているでしょう」
ヴァンスは少しだけ口の端を動かした。
笑ったのかもしれなかった。
◇
昼、ヴァンスは線の人のところへ行った。
帳面を抱えて。
鷲の道の口の小屋はヴァンスが春に来たときより増えていた。東の線の脇に八つ。西の線の脇に、今日建て始めた二つ。
ガロが丸太を担いで立っていた。
「線の人、というのは」
ヴァンスが言った。
「規定のどこにもない人です。ノルドの住人ではない。王国の民でもない。辺境伯の領民でもない。……何の人ですか」
「線の人だ」
ガロは丸太を下ろさなかった。
「線の脇に住む。名前と役割は言う。言わないと腐る。……それだけだ。王国に税は払わん。ノルドにも払わん。線の脇の草は俺たちのものだ」
「帳面には」
「ある。線の人の頁が。ノルドの帳面にも、あんたが写した帳面にも」
ヴァンスは帳面を開いてしばらく線の人の頁を見ていた。
「……規定に、新しい頁が要ります」
それだけ言って何か書きつけた。
書いた字を俺は後で見せてもらった。『線の人。王国の民でもノルドの住人でもない。名前と役割を言う人。』それだけだった。几帳面な字で。
◇
夕方の列。
ヴァンスはいつも通り列の端で帳面を写していた。
二人、新しく来た人がいた。西の線を見て来た夫婦だ。ベルタが名前を読み、本人が役割を言い、俺が額に手を当てた。百六十二。
ヴァンスが数を書いた。
「百六十二」
「百六十二です」
「砦は三百です。……兵は名前を言う役割ではありません。兵の役割は規定で決まっています。……ミロは例外です」
ミロ。母さんの盾の兵。第三隊から町に残った一人。
ヴァンスはそれも帳面に書いていた。『規定の例外。一名。』
「ヴァンスさん」
「はい」
「来年、砦に行ったら。……三十の名前の他に三百の兵に掛けることになると思いますか」
「副長はそう望んでいません」
ヴァンスは即答した。
「兵は入れ替わります。名前を覚えても来年には別の兵です。……副長が集めたのは入れ替わらないものの名前です。門と井戸と塔。人ではなく、人を守るもの。……それが副長の答えです。三百人の仕事を消された人の」
三百人の仕事を消した日のことを俺は忘れていなかった。
その三百人の代弁者が今は三十の名前を集めている。消されたものの代わりに、守るものの名前を。
「……預かります」
俺はもう一度言った。
今度はヴァンスではなく帳面に向かって。
◇
ヴァンスは四日いて、辺境伯の人夫の荷馬車で戻った。
西の線を測って帳面に書いた。『四本目。持続、端なし。』ほつれの端がない、という意味の端だ。範囲の端とは別の言葉で、同じ字を使う。ヴァンスはそれを気にしなかった。規定の言葉だからだ。
オルムの石にも触れた。『名前のある石。役割、井戸の縁。守る人、ガロ。』
「秋に二冊目を」
荷台の上から几帳面に言った。
「規定外の四回目になります」
「待っています」
「……携行食を八日分にします」
荷馬車が鷲の道へ消えた。
俺は砦の帳面を開いた。一行目から。
『砦の門。役割は、兵を通し、敵を止めること。』
声に出して読んだ。
三十の名前を毎晩。来年まで。
◇
──これは、俺の知らないところで起きていた話だ。東の砦で。
夜、砦の門の前に副ギルド長ベルンハルトが立っていた。
門に手を当てて、懐の紙を見ずに言った。
「砦の門。役割は、兵を通し、敵を止めること」
門は何も変わらなかった。
ベルンハルトの付与は切れる付与だ。三時間で切れる。一つに掛けるのは一息で済む。三十で四半刻。三時間のうちに十回は回れる。それでも毎晩、三十の名前を順に言って三十に掛けた。三時間で切れるものを三時間ごとに。門から始めて、鐘で終わる。
「……北の見張り台。役割は、霧を先に見ること」
見張り台の上で兵が東を見ていた。
国境の向こうで黒い列がまだ動いていた。




