第61話 四本目
三本目の線が緑になってから、十日。初夏だった。
朝の壁の上で、リーゼが帳面を開いた。
北に緑の線。東に緑の線。南に緑の線。三本とも泉で出会っている。線と線の間は赤茶けたままだ。
「ひと月、空いた」
リーゼが言った。
「三本目を引いたのが旗の八日目。今日で三十五日過ぎてる。……四本目、引けるわよ」
「引けます」
「どっち」
俺は泉のほうを見た。
十二本のうち九本が黒い。泉から出て四方へ散っている。西はその一本だ。
西は誰も住んでいない。岩場もない。道もない。赤い土が地平線まで続いているだけだ。
「……西に端がありません」
俺は言った。
「南は町の井戸。東は鷲の道の口。北は岩場。……西には名前のある場所がない。端が決まらないと線が引けない」
「じゃあ西は後」
「後にすると、西だけ最後まで黒いままです。黒い筋は魔物の道です」
リーゼは帳面を閉じた。
「端の名前を探す人がいる」
◇
「西に村はなかったのか」
夕方の列の後で、俺はヨナスに訊いた。
老人は泉の番人だ。二十年前のこの土地を、この町で一番知っている。
「……あった」
ヨナスはしばらく黙ってから言った。
「グレイスは村が五つあった。泉を真ん中にして。南がここ。ノルドだ。……西にも一つ。わしは若い頃に一度行った。井戸の深い村だった。縁で水を飲ませてもらった」
「名前は」
「覚えとらん」
老人は首を振った。
「二十年、呼ばんかった。ノルド以外の村の名は誰も呼ばんかった。呼ぶ相手がおらんかった。……泉の名も二十年呼ばんかったのと同じだ。わしは泉の名は覚えとった。番人だったからだ。村の名は番人の仕事じゃなかった」
呼ぶ人がいなくなった名前は、そこにあっても聞こえない。
泉の名前がそうだった。「グレイスの泉」を呼ぶ人がヨナス一人になって、荒野は「荒野」になった。
「場所は覚えていますか」
「泉から西へ半日。小さい丘の陰だ。……丘は残っとるだろう。丘は名前がなくても消えん」
◇
翌朝、ピムが西へ出た。
一人ではなかった。ガロが一緒だった。
線の人だ。鷲の道の口に小屋を建て直して、東の線の脇で暮らしている。線の人の頭、と帳面には書いてある。本人は「頭じゃない。最初に来ただけだ」と言う。
「西にも線が要る」
ガロは門の前で言った。
「線の脇は腐らない。線の脇は草が生える。線の脇は水がある。……東の線の脇はもう二十人いる。小屋が建つ場所がなくなってきた。西に線が引けるなら、西に住む奴がいる」
「線の人が線の端を探すんですか」
「線の人だからだ」
ガロは背負い袋を担ぎ直した。
「あんたは名前を聞いて掛ける人だ。俺は名前を持ってくる人だ。……役割だ。帳面に書いてある」
リーゼが帳面を開いて、線の人の頁を見て、何も言わずに閉じた。
書いてあるのだ。たぶん。
◇
二人は三日で戻った。ガロは土まみれで、腰に古い縄を巻いていた。
縄の先に平たい石が一つ括りつけてあった。片面が人の手で削られている。
「丘の陰に村の跡があった」
ピムが言った。
「屋根はない。壁の石が並んでるだけだ。真ん中に井戸。……深い。ガロが縄を下ろした。二十尋で底に当たった。水はない。乾いてる」
「石組みに字が彫ってあった」
ガロが石を地面に置いた。
削った面に字があった。風に削られて浅い。でも読めた。
オルム。
「井戸の縁の石だ。一つだけ外れてた。……持ってきた。井戸ごとは持ってこれんから」
ヨナスが石の前にしゃがんだ。
じっと見ていた。
「……オルム」
老人が言った。
小さい声だった。二十年ぶりに口に出した名前の声だ。
「そうだ。オルムだ。井戸の深い村。……水を飲ませてくれた村の者が言っとった。縁の石の名は井戸を掘った男の名だ、村の名もそこから取った、と。村が消えても石に残っとった」
ガロが立ったまま言った。
「彫った奴は、呼ばれなくなっても残るように彫ったんだろう」
◇
端の名前は、今呼ばれている名前でなくていいのか。
俺は石を見ながら考えた。
鷲の道の口も北の岩場も古壁も、今呼んでいる人がいる名前だ。
オルムは二十年誰も呼んでいない。
でも、今日ヨナスが呼んだ。ガロが読んだ。ピムが聞いた。俺が聞いた。
呼ぶ人がいれば名前だ。
石に彫った男は、呼ぶ人がいない二十年を越えて、今日呼ばせた。
「……試します」
俺は言った。
「グレイスの泉から、西へ。オルムの井戸まで」
「乾いた井戸よ」
リーゼが言った。
「水はない」
「水がなくても井戸です。役割は……」
俺は少し考えた。
役割は持ち主が決める。持ち主がいなければ守る人が決める。春に決めたことだ。オルムの井戸の持ち主はもういない。
「……守る人が決めます」
「誰」
「俺だ」
ガロが言った。
「西の線の脇に住むのは俺たちだ。あの井戸は俺たちが使う。……役割は、水を汲むこと。二十年汲めなくても、井戸の役割はそれしかない」
線の人が、線の端の役割を決めた。
リーゼは帳面に書いた。オルムの井戸。役割、水を汲むこと。守る人、ガロ。
◇
泉へ。
俺と、リーゼと、ヨナスと、ニコ。ガロがついてきた。「端を見た奴がいたほうがいい」と言って。
初夏の荒野は乾いていた。泉は澄んでいた。今日は何もない。水と草と、四人と一人。
ヨナスが縁に立った。
「グレイスの泉」
一度だけ呼んだ。
俺は両手を水に入れた。
温い。初夏の水だ。
グレイスの泉。役割は、グレイスの土地に水を配ること。
範囲は──ここから西へ。十二本のうちの西の一本。丘の陰の村の跡まで。オルムの井戸まで。
その一本だけ。
声に出して決めた。ガロが西を指した。低い丘が一つ、赤い土の上に乗っていた。
「清浄」
光は出ない。音もしない。
手のひらから、何かが水の中へ染みていく。
重かった。
でも北より軽かった。北は魔物が二十年往復した筋だった。西は誰も通らない筋だ。黒いだけで、血の匂いがない。
半日分の重さが半日で終わった。
底の筋が動いた。
西の一本の根元から白が走った。泉から西へ。見えなくなるまで半刻。
手を抜いた。両膝をついた。四本目でも同じだ。リーゼが肩を支えた。
「……届きましたか」
「見えない」
リーゼが西を見て言った。
「見えないけど。……丘の手前まで、土の色が違う」
◇
目が覚めると窯小屋の天井だった。
「一日」
リーゼの声が言った。
「一日寝てた。南と同じ。……ガロとピムが丘まで行った。朝に出て、夕方に戻った」
「……井戸は」
リーゼは帳面を開いた。
「乾いたまま。……でも、井戸の底が湿ってたって。ガロが縄を下ろして、石が濡れて上がってきた。二十年乾いてた井戸の底が」
「地脈の水だ」
戸口でヨナスの声がした。
「井戸は筋の上に掘る。二十年、筋が黒くて水が逃げとった。筋が澄めば水は戻る。……作ったんじゃない。戻っただけだ」
無いものは作れない。付与は水を作らない。
あった水が、来なくなっていただけだ。
俺は天井を見たまま息を吐いた。
オルムの井戸。
役割は水を汲むことだった。二十年汲めなかった。今日、底が湿った。
「四本」
リーゼが言った。
「残り八本」
「八本です」
「一本にひと月。……冬までに二本、冬に三本、春に三本」
「数えてますね」
「帳面係だから」
リーゼは帳面を閉じた。
「ガロが言ってた。線の脇に、また小屋が建つって。……西にも」
夕方、壁に登った。西に線はまだ見えない。土の色が違うだけだ。七日後には腰の高さの草になる。
その線の脇にガロの仲間が小屋を建てる。誰も住まなかった西に、今年、人が住む。
──それと一緒に、名前のある場所が一つ増えた。
オルムの井戸。名前は消えていなかった。石に残っていた。呼ぶ人がいなかっただけだ。
呼ぶ人がいれば名前は残る。
なら、呼ぶ人がいなくなれば。
北の岩場の向こうに、それを知っているものがいた。
まだ、知らなかった。




