第60話 残り九本
黒い旗が消えてから、十一日目の朝。ドルフの荷馬車が門をくぐった。
荷台の一番後ろから灰色のローブが降りた。
油紙で三重に包んだ本を両手で抱えて。
「……携行食は四日分持ちました」
ヴァンスは最初にそれを言った。
「規定外の二回目です。……鷲の道の口に小屋の跡がありました。腐った。ブルーノの人夫が建て直していました。線の脇に。『線の人』だと名乗っていました」
◇
村長の家で、ヴァンスは油紙を解いた。
薄い本だった。表紙はまだ仮のものだ。
第一章、第一行。
『付与は、切れないことがある。』
「オズワルド様から一冊目です。……王都のギルドに百冊。東の砦に三十冊。ここに一冊。規定の配り方ではありません」
俺は本を開いた。
最初の頁に杖の話があった。ミリアの杖。六年前の付与。「ギルドで一番古い、切れていない付与」と几帳面な字で。
次の頁に井戸。ノルドの井戸。「持続:端なし」。ヴァンスの測定の記録だ。
その次に、鷲の巣亭のばあちゃんの井戸。古壁。鎧ノルド。
全部、名前が書いてあった。対象の名前と、役割と、掛けた場所。
「……仮説の章はありませんね」
「ありません。『切れませんように』は本には書かない、と。……確かなことだけ書く本です」
ヴァンスはペンを出した。机の縁と平行に置いた。
「それと、三つ伝言です。一つ。ベルンハルト副長から。『砦の守るものの名前を三十集めた。来年持っていく』。二つ。ミリア様から。『冬に行きます』。……三つ。オズワルド様から」
ヴァンスは少しだけ間を置いた。
「『試すな』。……それだけです」
「……試していません」
「書いておきます。規定外の記録に」
◇
十四日の間に、ドルフの五人が列に並んだ。
名前と役割と世話役。ベルタが読み、本人が言い、俺が額に手を当てた。五人。百六十。
東の線の麦が膝の高さになった。線の人の二組は口に戻った。ヴァンスはドルフの帰りの便で王都へ戻った。「二冊目は春に」と言って。
黒い旗が消えてから、二十五日目。
北壁の上に、俺とリーゼとヨナスが並んだ。
北を見た。
線があった。
泉から北へ。赤茶けた荒野の上に緑の線が一本。まっすぐに、黒い岩場の足元まで。腰の高さの草が風で波になっていた。
南の線と東の線と、泉のところで三本が出会っている。
「……三本」
リーゼが言った。
「残り九本」
「九本です」
「一本にひと月。……九か月。次の王都行きまでに二本か三本」
リーゼは帳面を開いた。
開いて、書かずに北を見た。
「岩場の足元で線が終わってる。……あの向こうは」
「魔王領だ」
ヨナスが言った。
「北の筋は岩場の下で地面の奥に潜る。潜った先は荒野じゃない。……線は岩場で終わる。終わらせた。あんたが端を決めた」
老人は緑の線の先を長いこと見ていた。
「二十年黒かった道が緑になった。……魔物はもうあの筋を通らん。通るなら岩場の裏を遠回りする。遠回りには水がない。……荒野は道じゃなくなった。三本の線の分だけ」
◇
追放から、一年と十八日。
人口、百六十。
百五十五人と、ドルフが乗せてきた五人。線の人は四人。線の頁に。鷲の道の口に小屋を建て直して戻った。「名前は言った。帳面にある。それでいい」とガロが言った。
屋根は百六。十二の腐った屋根は葺き替えた。ゲルトが「腐らん屋根に」と言って、不壊の梁の上に新しい藁を載せた。
第三隊は九十四人。陣は北壁の外。天幕は二十四。全部に名前がある。
門の横に旗が二本。鷲と獅子。
帳面は六冊目に入った。
『名前のないもの』の頁が六枚。『線の人』の頁が一枚。『名前を知らなかった人』の頁が一枚。
最後の頁に、リーゼの字で一行。『数を間違えたら帳面係が直す』。
◇
夕方、列が終わった後で、リーゼが帳面を閉じて言った。
「ねえ」
「はい」
「次の王都行き」
「……来年の春です」
「私も行く」
俺はリーゼを見た。
「帳面係として。……三十日の留守はもうやった。できることが分かった。できないことも」
「できないこと」
「名前を知らない人に掛けること。……それはあんたの仕事。私の仕事は、帳面を持って隣で数えること。王都の壁の帳面を見てみたい。三冊あるって、ヴァンスが」
リーゼは帳面を胸に抱えた。
「父さんが言ってた。娘に王都を見せてやりたいって。……見てくる。父さんの代わりに」
「……ハンスさんは」
「『一回ずつ数える』って。来年の春まで数えるって。……数えさせる」
俺は頷いた。
来年の春。四本目の線を引いた後に。
「……リーゼ」
「何」
「ありがとう」
「それは聞いてない」
リーゼは帳面で俺の肩を叩いた。
叩いてから、少しだけ笑った。
「……アレン」
初めて名前を呼ばれた。一年と十八日で初めて。
「何ですか」
「次は私も行く。……それだけ」
◇
夜、壁に登った。
北に緑の線。黒い岩場の足元まで。
東に緑の線。鷲の道の口まで。線の脇に小屋の火が二つ。
南に緑の線。水路の湯気。
泉のところで三本が出会っている。
岩場の向こうは黒い。
魔王領。澱のヴェルムが退いていった場所。「次は、魔王が来る」と鎧の中でレオンが聞いた声。
レオンは五日前に前線へ戻った。鎧ノルドと五年前の剣で。「次の春、王都で会う」と言って。
ミリアは冬に来る。ヴァンスは春に二冊目を持ってくる。
道は両方向に通じる。来るものも、行くものも。
◇
俺の付与は切れない。
井戸も、畑も、壁も、門も、屋根も。
百六十人も。
泉から伸びる三本の線も。
王都の古壁も。レオンの鎧も。ベルタの帳面も。五つの墓標も。
「地味だ」と言われた付与だ。光らない。音もしない。手のひらから、何かが染みていくだけの。
教本の一行目に「切れないことがある」と書かれた付与だ。
残り九本。
一本にひと月。一回ずつ。
近道はない。
でも、人がいる。名前を持ってくる人が。数える人が。隣で触る人が。
切れない線を九本引く。
それがこの町の二年目だ。
(第二部 完)第二部(第31〜60話)完結。第三部(最終部・全30話)は11月7日(土)7:10から、1日3話で更新します。




