第59話 名前を知らなかった人
黒い旗が消えてから、十日が経った。
霧は一度も来なかった。
北の岩場は黒いまま静かだった。ピムが三日に一度、岩場まで行って戻ってくる。火の跡だけ。足跡は北へ。
その朝、北の畑が金色だった。
◇
春の麦だ。
北の畑と新畑の東半分。西半分は、黒い麦の根から青い芽がまた出ていた。重ねた豊穣が効いている。実るのは夏の終わりだろう。
東の線の麦はまだ青い。豊穣は掛けていない。普通の速さで育っている。
北の畑の麦が風で波になった。
一年前の秋と同じだ。金色の波。あのときは百人分だった。今年は百五十四人分と、九十五人分と、線の人の分。
マーサが鎌を持って畑の縁に立っていた。
「……刈るよ。今日から」
それだけ言って刈り始めた。
リーゼが帳面を開いた。収穫の頁。一年で二度目の頁だ。
◇
昼、門の外に五つの墓を掘った。
南の線の脇。緑の草の中。第三隊の兵が自分たちの手で掘った。荒野の土は固い。切れない鍬が五本貸し出された。
五人。泉で三人。壁の上で二人。
俺が名前を知らなかった人。
ヴォルフが墓の前に立った。
百人の隊の九十五人が並んだ。咳はもう誰もしていなかった。
「……読み上げる」
隊長は懐から羊皮紙を出した。規定の名簿だ。
「テオドル。第三隊、第一小隊。……泉で」
俺は繰り返した。
「テオドル」
「マルク。第一小隊。泉で」
「マルク」
「ヨーン。第二小隊。泉で」
「ヨーン」
「ギース。第三小隊。壁の上で」
「ギース」
「ハルム。第三小隊。壁の上で」
「ハルム」
五つ。
覚えた。一年前、三十人の名前を覚えた夕方と同じやり方で。一人ずつ。
遅かった。名前を覚えるのが、死んだ後だった。
「……役割は」
俺はヴォルフに訊いた。
「兵だ」
「……兵、です」
墓標は木だった。ゲルトが削った。
名前はヴォルフが彫った。役割は持ち主が言う。墓標の持ち主は隊だ。
「……墓標の役割は」
ヴォルフが言った。
「名前を覚えておくことだ。王都には名簿がある。ここにはこれしかない」
俺は一つずつ手を当てた。
テオドルの墓標。役割は、テオドルの名前を覚えておくこと。不壊。
マルクの墓標。ヨーンの墓標。ギースの墓標。ハルムの墓標。役割は同じ。一本ずつ。
いつもの感触だった。五本。木の墓標は、荒野の風でも雪でも崩れない。表面が黒くなっても、彫った名前は消えない。門と同じだ。
リーゼが帳面に新しい頁を作った。
『名前を知らなかった人』。
五つの名前。役割、兵。世話役、ヴォルフ。
「……帳面に死んだ人の頁はなかった」
リーゼが言った。
「今日からある。……一回ずつ数える。父さんの言う通りに」
◇
墓の前で、若い兵がヴォルフの前に出た。
盾に「母さん」と付けた兵だ。盾には熊の爪の跡が三本。割れてはいない。
「隊長。……名前と役割を言いたい」
ヴォルフは眉を上げた。
「規定にはない」
「はい。……ノルドの決まりです。名前と役割を言えばノルドの人になる。送り返さない。……領主殿が王にそう言ったと聞きました」
ヴォルフは俺を見た。
俺は頷いた。条件の三つ目だ。俺が決めた条件。
「……言え」
「ミロ。役割は壁の上に立つこと。……母さんの盾と一緒に」
俺はミロの額に手を当てた。
頑健。
掛かった。百五十五人。
ヴォルフは名簿から一行、線を引いた。
震えない線だった。
「第三隊は九十四人になった。……王にはわしが書く。『一人、ノルドに残った』と。規定にない報告だ」
墓から戻る道で、ニコが横に並んだ。
珍しく自分から。
「……ブラムの足跡は北へ行った。三十人まとまって。岩場の裏を回って」
フードの下で低く言った。
「あいつは旗の下で立ってる。俺は壁の上で立ってる。……どっちも立ってる。それだけだ」
「……それだけですか」
「それだけだ。見張りはそれ以外のことを知らなくていい」
ニコはそれ以上言わなかった。
言わないのが返事だった。
◇
夕方、門の横で俺は柱を見ていた。
鷲の旗の隣の柱。
一年前、辺境伯が旗を立てた日から、ずっと空いていた柱だ。リーゼが何度もその前で腕を組んで立った。
「……ヴォルフ隊長」
「何だ」
「王の旗を持っていますか」
「獅子の旗なら陣にある」
「この柱に立ててください」
ヴォルフは柱を見た。それから俺を見た。
「……条件は、町の中に入れない、だった」
「柱は門の外側です。……壁と同じです」
隊長は鼻を鳴らした。笑ったのかもしれなかった。
獅子の旗が鷲の旗の隣に立った。
王国の旗と辺境伯の旗。空いていた柱が埋まった。
リーゼが隣に来た。
「……空いてたほうがよかった?」
「空いていた柱は誰かのための柱でした。……五人のための、でいいと思います」
リーゼは長いこと二本の旗を見ていた。
「王都の壁に掛けた分だけここが狙われるって、王が言ったんでしょ」
「はい」
「で、王の兵が来て、五人死んで、王の旗が立った。……それが代償?」
「……たぶん。その一部です」
「一部」
「後で考えます。……もう、後で、が来ているので。考えながら立てます」
◇
夜、窯小屋で新しい麦のパンが焼けた。
石臼の粉。甘水の酵母。窯の均熱。今年の最初の白パン。
マーサが一つ目をヨナスに渡した。番人に。二つ目をヴォルフに。三つ目をミロに。
俺は四つ目だった。
噛んだ。熱かった。甘かった。
一年前、「初めての白パン」を食べた窯小屋で、二年目のパンを食べていた。
ハンスが火のそばでパンを割っていた。
「……二回目だ」
老人が言った。
「わしは二回目の春をこの町で数えた。一回ずつだ。……来年も数える。たぶん」
「たぶん、は俺の言葉です」
「貸せ」
ハンスは笑った。
◇
翌朝、カーラが東を指した。
「鷲の道から、荷馬車!」
道が開いた。魔王軍が口から引いたのだ。
荷馬車が五台。ロバの息。ドルフの春の二便目。
荷台の一番後ろに灰色のローブが座っていた。
膝の上に、油紙で三重に包んだ薄い本を一冊抱えて。




