第58話 北へ向かう一本
黒い旗を見てから八日目。夜明け前だった。
門を出た。
俺と、リーゼと、ヨナスと、ニコと、レオン。それとゲルト。縄と長い棒を担いで。「帰り道はわしが作る」と、冬と同じことを言った。
霧は薄かった。夜のうちに北へ引いていた。
緑の線の上を北へ。半日。
◇
「戦わない、と言った町が」
歩きながらレオンが言った。鎧ノルドの銀が夜明けの光で少しずつ色を変えた。
「戦いに行くのか」
「……戦いません」
俺は言った。
「守ります。……一年前、『戦いません。でも、壊れません』と言いました。今日は違います。戦わない。でも、守る。……壊れないだけでは足りないので」
レオンはそれ以上訊かなかった。
剣の柄に手を置いて前を歩いた。鎧の役割の通りに。後ろに俺たちが並んだ。
◇
泉は澄んでいた。
縁に五頭の熊の骨が転がっていた。血は土に吸われて黒い染みになっていた。水には一滴もない。
底の白い筋が二本。南と東。残りの十本は泉を出た先で黒い。
北の一本。
泉からまっすぐ北へ。岩場へ。黒い筋の上に魔物の足跡が重なっていた。狼と、熊と、大きいの。泉と岩場を何度も往復した跡だ。
道だった。あれが魔王軍の道だ。
「……岩場が端だ」
ヨナスが言った。
「北の筋は岩場の下で地面の奥に潜る。その先は魔王領だ。……荒野の中で、北の筋の端は岩場だ」
「北の岩場」
俺は繰り返した。
名前がある。二十年、この町の人がそう呼んできた。ピムが、カーラが、リーゼが。「北の岩場に火が見える」と。
端に名前がある。
◇
黒くない水に両手を入れた。
温い。春の水だ。
ヨナスが泉の縁に立った。腰を伸ばして、水に向かって、一度だけ呼んだ。
「グレイスの泉」
老人の声が朝の荒野に消えた。
俺は続けた。
グレイスの泉。役割は、グレイスの土地に水を配ること。
範囲は──ここから北へ。十二本のうちの北の一本。魔物が道にしている一本。北の岩場まで。
その一本だけ。
声に出して決めた。
リーゼが北を指した。黒い岩場を。岩場の中腹に黒い旗がまだ立っている。その旗を指で端に決めるように。
「清浄」
光は出ない。音もしない。
手のひらから、何かが水の中へ染みていく。
重かった。
南と同じ長さだ。半日の長さ。でも、南より重かった。黒が濃い。二十年、魔物が往復した筋だ。血の匂いが筋の中に染み込んでいる。
染みていくものが黒を押しながら北へ進んだ。押して、進んで、押して。
膝が笑った。腕が重くなった。
倒れなかった。
リーゼが肩を支えていた。秋と同じように。
◇
底の筋が動いた。
北の一本の根元。墨を洗い流すように、白が泉から北へ走り出した。
南のときは半刻で見えなくなった。今日はもっとゆっくりだった。黒が濃いからだ。白が黒を一歩ずつ押していた。
半刻。
一刻。
白い筋が泉の底から北へ。見えなくなった。
手を水から抜いた。
両膝をついていた。立てなかった。南と同じだ。一日寝る。たぶん。
「……届きましたか」
「見えない」
リーゼが言った。
「見えないけど。……北を見て」
◇
黒い岩場の下。
黒い筋の上を魔物が動いていた。
狼の群れ。熊。岩のような背中の大きいの。朝、岩場からこちらへ向かっていた群れだ。今日も来る、と澱は言った。その通りに来ていた。
群れが止まった。
筋の上で。
狼が鼻を地面に当てた。何度も。当てて、離して、当てて。
匂いがないのだ。
二十年辿ってきた黒い水の匂いが、筋の上から消えていた。
狼が散った。
筋の上から横へ。右へ。左へ。道を見失った犬のように。
荒野熊の夜にニコが言った。熊は鼻がいい、と。鼻がいいものは匂いで道を覚える。匂いが消えれば道も消える。……覚えていた匂いが、朝のうちになくなった。
熊が立ち止まって鼻を上げた。それから岩場のほうへ戻り始めた。
大きいのが一番長く立っていた。やがて向きを変えた。北へ。ゆっくりと。
魔物は黒い筋を道にする。
道が消えた。
「……三本」
ヨナスが言った。かすれていた。
「南と、東と、北。……わしの父が守れなかった泉から三本。十二本のうちの三本」
◇
岩場の中腹で霧が動いた。
黒い霧。人の形。
岩場の上から泉を見ていた。半日の距離を見ていた。見られているのが分かった。
声は俺には聞こえなかった。
これは後で聞いたレオンの報告だ。鎧の中で霧の声を聞いた、と。前線で聞いたのと同じ声がこう言った、と。
──切れないのなら。
──次は、魔王が来る。
黒い旗が岩場から消えた。
霧が北へ引いていった。魔物が霧と一緒に。黒い筋ではなく、岩場の裏を回って。道のない荒野を遠回りして。
澱のヴェルムは退いた。
倒したのではない。道を一本消しただけだ。九本残っている。
そこまでは覚えている。
その先はニコの背中だった。水路沿いを半日。ゲルトが棒で確かめた帰り道を。「見た目より重い」とニコがまた言った、らしい。
◇
目が覚めると、窯小屋の天井だった。
石の熱と脂の匂い。
二度目だ。三度目か。いつもの天井だった。
「……一日」
リーゼの声が横から言った。
「一日寝てた。南と同じ。……東より半日短い。帳面に書いた」
「……届きましたか」
「ニコとピムが岩場まで行った。……黒い旗はない。陣もない。火の跡だけ。足跡は北へ。岩場の裏を回って」
リーゼは帳面を閉じた。
「筋の上に足跡がない。一つも。……道じゃなくなったって、ピムが」
俺は天井を見たまま息を吐いた。
「戦いませんでした」
「知ってる」
「守りました」
「……知ってる。見てた」
リーゼは俺の額に手を当てた。熱はない。疲れだけ。
「九本残ってる」
「九本です」
「一本にひと月。……九か月」
「九か月」
「次の王都行きまでに二本。……帰ってきたら、また数えるから」
窯小屋の戸口から朝の光が入っていた。
霧はなかった。




