第57話 五年前の剣
黒い旗を見てから、七日目の朝だった。
霧が濃くなった。
灰色が黒に近くなった。北壁の向こうが見えなくなった。
壁の上に俺は立っていた。
ニコが隣に。カーラが反対側に。第三隊の五十人が壁の上に並んでいた。槍と盾に名前のある五十人。
壁の下、外側にレオンが立っていた。鎧ノルド。腰に五年前の剣。後ろに四十七人。
霧の中から来た。
◇
魔物が先だった。
狼が壁に当たった。熊が壁を登った。一年前と同じだ。熊は壁を登る。
岩のような背中の大きいのが、壁に顎を当てた。齧った。石を齧る音がした。
齧れなかった。
不壊の壁は齧れない。大きいのは顎を何度も当てて、何度も離した。
登ってきた熊を、壁の上の槍が刺した。
「母さん」と名付けられた盾が熊の前足を受けた。若い兵は吹き飛ばされなかった。盾は割れなかった。名前のある盾だった。
住民が来た。
頑健の百五十四人のうちの男と女が五十人ほど。農具を持って。一年前の荒野熊の夜と同じだ。壁を登った熊を鍬で殴る。折れない鍬で。
オットーが八十の体で鍬を振った。骨は折れない。
◇
傭兵は門に来た。
梯子を三本。白い布はない。
門の内側にゲルトが積んだ丸太があった。不壊の門は開かない。開くのは閂を外したときだけだ。閂の前に丸太。丸太の前に、ゲルトとバルドと水路を掘った男たち。
梯子が壁に掛かった。
傭兵が登ってきた。
ニコの槍が、梯子の一番上の男の前で止まった。
ブラムだった。
二人は動かなかった。
槍の先と革の鎧の間に一尺。
「……立ってるな」
ブラムが言った。
「立ってる」
「壁の上は腐らん。言った通りだ」
ブラムは梯子を降りた。
降りて、梯子を引いた。傭兵が三人落ちた。ブラムは振り返らなかった。
ニコは槍を引かなかった。
下に向けたまま北を見ていた。見張りの役割だった。
◇
霧の底から来た。
人の形。人より高い。
黒い霧がその周りだけ濃かった。霧が歩いていた。
澱のヴェルム。
壁の外の四十七人が後ずさった。霧が兵に触れた。
触れたところで割れた。
レオンが剣を抜いて前に立っていた。剣の周りで、霧が、水が油を避けるように割れた。
割れた霧の後ろに四十七人が並んでいた。咳をしていない。鎧ノルドの後ろで。
鎧は刃と牙を止める。霧は剣が弾く。
役割の通りだった。
「──その剣」
低く湿った声。
前線で聞いた声だ、とレオンが後で言った。
「五年前。三か月前。……三度目だ。持ち主は変わっておらんな」
「変わっていない」
レオンが言った。
「掛けた者も変わっていない。……壁の上にいる」
霧の中の顔のないものが壁を見上げた。
俺を見た。顔がなくても、見られているのが分かった。カイの皮と同じだった。
◇
そのときの町の形を書いておく。
門は閉じたまま。内側にゲルトの丸太。梯子は引かれた。壁の上に第三隊の五十人と、農具を持った住民。壁の下の北側にレオンと四十七人。
澱はレオンの剣の届かない場所に立っていた。霧だけがレオンの頭の上を越えて壁へ来た。
霧が壁を越えた。
レオンの剣が割る霧の外側から。壁の上へ。俺のところへ。
濃い霧が俺を包んだ。腐った水の匂い。目が痛かった。
俺の体には頑健が掛かっている。一年前、自分に掛けた。名前はアレン・グレイ。役割はこの町の領主。
霧は俺に触れた。
袖が黒くなった。袖は布だ。名前がない。腐った。
腐ったのは袖だけだった。袖の下の腕は何ともなかった。木を腐らせる霧が俺の肌を腐らせなかった。頑健は体に掛かっている。服には掛かっていない。
霧の中で、声が近かった。
「……お前か。掛けた者は」
「はい」
「名前で守るのだな。名前を知らぬものは守れん。……皮がそう見た」
俺は答えなかった。
「お前を殺す。殺せば切れない付与は増えん。……今あるものは消せん。だが、十一本目の線は引かせん」
霧が俺の喉に触れた。
触れて、止まった。
頑健は骨を守る。病を押し返す。
霧は病だ。俺の喉で押し返された。
「……腐らんのか。人も」
「掛かっているので」
◇
壁の下でレオンが動いた。
剣が霧を割って前に進んだ。
澱の人の形に向かって。五年前、グラウに届いた剣が同じ角度で進んだ。
霧が剣を避けた。
避けて、人の形が後ろに退いた。剣は届かなかった。五年前は届いた。今日は届かなかった。
澱は剣の届く場所に立たなかった。
「……二度は斬られん」
霧の底から声がした。
「掛けた者が腐らん。壁が齧れん。門が開かん。……計算が合わん」
人の形が霧の中で北を向いた。
「だが、道はある。黒い筋は十本。……今日は退く。明日また来る。明後日も。線はわしのものだ。十本ある限り魔物は来る」
霧が引いていった。
北へ。魔物が霧と一緒に引いていった。黒い筋の上を、匂いを辿って。壁から離れて北へ。
◇
壁の上で数えた。
五十人が四十八人になっていた。
二人。
壁の上で熊に引きずり落とされた兵。
名前を知らなかった。槍の名前は知っていた。昨夜、俺が触った槍だ。「ヴォルフ」と名付けた槍。持ち主の名前を俺は知らなかった。
泉で三人。壁の上で二人。第三隊は九十五人になった。
◇
夕方、霧が薄くなった壁の上で、俺は北を見ていた。
黒い陣は岩場に戻っていた。明日また来る。明後日も。
魔物は黒い筋を道にする。泉から北へ。岩場まで。その筋の上を来る。
泉から北へ向かう一本。
「……リーゼ」
隣にリーゼが来ていた。帳面係が壁に登るのは二度目だと言った。
「泉に行きます。明日の夜明け前に」
「……この戦の真ん中で?」
「戦の真ん中だからです。……北の一本を清めます。魔物が道にしている一本を」
「端は」
「北の岩場。……名前があります。二十年、この町の人がそう呼んできた場所です」
リーゼは長いこと黙っていた。
「三本目。……東からひと月以上空いてる?」
「三か月、空いています」
「一日半寝る?」
「北は半日の長さです。南と同じ。……一日で起きます。たぶん」
「たぶん」
「はい」
リーゼは帳面を閉じた。
「ニコと、ヨナスと、レオン。……レオンは鎧の役割で行く。五十人の前に立つのはヴォルフに代わってもらう。それが条件」
「はい」
「はい、じゃなくて」
「……約束します」
北の空に黒い旗がまだ立っていた。
明日、俺はその旗の方角へ線を一本引く。




