第56話 澱
──これは、俺の知らないところで、荒野の北で起きていた話だ。
後で分かった。傭兵のブラムが岩場の霧の中で聞いたことを、後でニコに伝えた。澱が傭兵の前で言ったことを。……それと、俺が後で推測したこと。
聞いた分は聞いた通りに書く。推測した分は推測だと分かるように書く。
◇
霧の中に澱は立っていた。
北の岩場の中腹。二十年前と同じ岩の窪み。焚き火が横に長く並んでいる。火は傭兵のものだ。澱に火は要らない。
澱のヴェルム。
四天王の中で、ただ一人刃を持たないもの。
持つのは霧だ。触れたものを澱ませる。水を、木を、肉を。澄んだものの底に黒いものを沈ませて、二度と浮かばせない。それが澱の術だった。
二十年前、澱はこの荒野に道を作った。
◇
魔王の命は短かった。王国への道を作れ。
荒野は広かった。水があり、村があり、泉があった。魔物は荒野を渡れなかった。渡る前に人に追われ、渇いて死んだ。
澱は泉を見た。
底から十二本の筋が走っている泉を。この泉が荒野中に水を配っている。この水が澄んでいる限り、荒野は人のものだ。
だから澱ませた。
千の魔物を泉で死なせた。自分の魔物を自分で。血が水に染み、筋を伝って荒野中に広がった。
水が黒くなった。畑が枯れた。村が消えた。
黒い筋は魔物の道になった。黒い水の匂いを魔物は辿る。辿って荒野を渡り、王国へ、南へ。
二十年。荒野は澱の道だった。
人は一つの村に三十人しか残らなかった。それでよかった。三十人は道の邪魔をしない。
番人の息子が一人、泉のそばに残っていた。それもよかった。名前を呼ぶ者が一人では何も守れない。澱はそう計算した。二十年、計算は合っていた。
◇
五年前、東の国境で、澱は同輩を失った。
牙のグラウ。四天王の一人。刃を持つもの。
人の勇者と戦った。澱は霧で勇者の一行を包んだ。いつもの通りに。人は霧の中で腐る。腐って倒れる。
倒れなかった。
魔術師のローブが霧を弾いた。勇者の剣が霧を割った。
割れた霧の中を、剣がまっすぐにグラウに届いた。
澱はそのローブと剣を覚えた。
人の術だった。人の付与だった。人の付与は切れる。一日で切れる。澱はそれを知っていた。人の教本を傭兵に読ませたことがある。『付与は必ず切れる』と一行目に書いてあった。
切れなかった。
一行目が嘘だった。
◇
あれから五年。澱は探した。
ローブは持ち主ごと王国の中で消えた。剣は一度消えて、戻った。同じ剣で同じ霧をもう一度弾いた。三か月前、国境の砦で。
持ち主は変わっていなかった。
掛けた者も。
掛けた者を探した。
人の皮を一つ作った。顔を思い出せない皮。皮を南の町の市場に送った。皮は鍬を買った。折れない鍬を。研ぎ屋が三つ砥石を駄目にした。
皮は訊いた。作った男はどこにいる。剣にも掛かるのか。
皮は荒野へ行った。嘘の名前を名乗った。
掛からなかった。
嘘の名前に掛からなかった。皮は裂かれた。裂かれる前に見た。町を。壁を。井戸を。百人の、掛かった人間を。
澱は理解した。
人の術は名前で縛る。あの男は名前で守る。
名前を知らないものは守れない。
◇
春。
澱は荒野に出た。二十年ぶりに。
泉は澄んでいた。底まで。
澱は血を流させた。五頭の熊の血を。二十年前と同じやり方で。
入らなかった。
澄んだ水が血を押し返した。澱の術が、澄んだ水の表面で止まった。二十年前は一滴目で底まで黒くなった水が。
戻らない。
届いたものは二度と戻らない。老人がそう言った。若い男が「切れないので」と言った。
澱は計算した。
四天王は計算する。それが四天王だ。
泉は戻らない。南の筋と東の筋も。二本、道が消えた。残りは十本。
王都の壁は切れなくなった。傭兵がそう伝えてきた。王国で一番大きな壁が二度と落ちなくなった。
これ以上増えれば。
砦の壁。港の壁。残りの十本の筋。全部切れなくなれば──魔王軍は二度と南へ行けない。
「……あの男を殺せば」
澱は霧の中で言った。誰にでもなく。
「切れない付与は増えん。城壁も、剣も、これ以上は。……今あるものは消せん。消せんものは増やさねばよい」
それが計算の答えだった。
泉を戻すことは諦めた。道は十本残っている。十本を守る。守るには、十一本目を引く男を消す。
◇
霧を町に送った。
腐った。木が。布が。人の半分が。
一晩で、腐るものがなくなった。
霧が戻ってきて澱に伝えた。名前のないものが町から消えた、と。一晩で全部に名前が付いた、と。
澱は霧の中で長いこと動かなかった。
二十年前、澱が道を作ったとき、荒野の人は泉の名前を呼ぶのをやめた。番人が一人残っただけだった。名前を呼ぶ者がいなければ守るものはない。それで荒野は道になった。
今は違う。
あの町は、一晩で二百を超える名前を付ける町だった。
「……直接行く」
澱は言った。
「魔物は線を渡れん。人を使う。門は人が開ける。壁は魔物が登る。……わしは霧で入る」
傭兵の隊長が頭を下げた。
第二国境隊の生き残りが三十人。村を焼いた男たちが旗の下で立ち上がった。
「勇者の剣がいる」
澱は最後に言った。
「五年前の剣。同輩を斬った剣。わしの霧を二度弾いた剣。……三度目はない。あれは剣が強いのではない。掛けた男が近くにいるだけだ。……男を消せば、剣もただの鉄になる」
それは澱の計算違いだった。
切れない付与は、掛けた男が死んでも切れない。あの男が使者の前でそう言った。澱はそれを信じなかった。
信じれば認めることになる。消せんものを人がいくらでも増やせると。それを認めれば、二十年の道も四天王の計算も全部崩れる。
だから、そう考えるしかなかったのだと思う。……これは俺の推測だ。ブラムは「澱は最後まで、お前を殺せば済むと言っていた」とだけニコに言った。
四天王は計算する。計算の外にあるものを信じない。
◇
──これが、俺の知らないところで、荒野の北で起きていた話だ。
半分はブラムの言葉。半分は俺の推測。
澱のヴェルムが町へ来た。黒い旗を見てから七日目の朝に。




