第55話 東の国境
黒い旗を見てから、六日目の朝だった。
門の外に傭兵が一人立っていた。
武器を持っていなかった。革の鎧の黒い渦の印。ラッセルの通りでニコを呼んだ男だった。荷運びの服ではなく、傭兵の鎧で。
「──ニコ! 第二国境隊のニコ!」
壁の上でニコは動かなかった。
槍を握ったまま。
「東の国境の話をする気になったか!」
◇
レオンが壁の上で剣に手を置いた。
ヴォルフが弓兵に手で合図した。射つな、と。白い布はない。でも、武器もない。
「……知った顔か」
レオンがニコに訊いた。
ニコは答えなかった。長いこと。
それから梯子を降りた。
門の内側に立って俺を見た。
「門を開けてくれ。……俺だけ出る」
「ニコ」
「名前を呼ばれた。壁の外で。……名前は呼ばれたら答える。俺の決まりだ。この町に来た日に決めた。名前だけは答える。一年、そうしてきた」
俺はゲルトを見た。ゲルトが閂を外した。
ニコが槍を担いで門の外に出た。
俺も出た。止められなかった。止める人がいなかった。リーゼは帳面係だ。帳面には「領主は門の外に出るな」とは書いていない。
◇
傭兵はブラムと名乗った。
「第二国境隊、第三小隊。……お前の隣にいた」
「……いた」
「ヴェルムが第二国境隊の生き残りを集めてる。村を焼いた奴は王国に戻れん。戻れば吊られる。……魔王軍は使ってくれる。旗を持たせてくれる。三十人来た。お前で三十一だ」
ブラムはニコの槍を見た。
「お前はあの夜逃げた。……俺は逃げなかった。逃げなかったから、こうなった。どっちが正しかったかは知らん。……来い。隣で立て。昔みたいに」
ニコは槍を地面に突いた。
「……断る」
それだけだった。
ブラムは驚かなかった。頷いた。
「だろうな。……なら言っておく。ヴェルムは明日、町へ来る。泉が戻らんなら、町を腐らせて、泉を清めた男を殺す。新しい線を引かせんために。……お前は壁の上にいろ。隣にいたよしみで言う。壁の上は腐らん。あの霧の中で腐らんのは、あの壁だけだ」
ブラムは背を向けた。
北へ歩いていった。振り返らなかった。
◇
門の内側で、ニコが俺を見た。
「……話す」
フードを下ろした。
初めて見た顔だった。一年、同じ町にいて、壁の上の顔はいつもフードの下だった。
「今日だ。話したいからじゃない。……名前を呼ばれた。壁の外で。答えた。なら、残りも答える」
村長の家でニコは話した。
俺と、リーゼと。それとベルタ。ベルタは帳面を持って机の端にいた。出ていけとはニコは言わなかった。
◇
「三年近く前の冬だ」
ニコは椅子に座らなかった。立ったまま、槍を抱えて。
「東の国境の村。魔王軍が村に食料を出させた。出さなければ焼くと言われて、出した。……それが王国の耳に入った。『魔王軍に食料を渡した村は敵の村だ。焼け』。命令だ。第二国境隊に来た」
ニコの声は平らだった。帳面を読むみたいに。
「夜、行った。三十人。俺は火を持っていた。……村の男が出てきた。桶を持って。火を消す桶だ。戦う気はなかった。桶を持って、俺を見て、『水だ』と言った。『魔物に渡したのは麦だ。水は渡していない。水だけは』と。……意味は、あの夜は分からんかった」
ニコは槍を握り直した。
「この荒野に来て、少し分かった。麦はまた撒ける。水は一度毒されたら二十年戻らん。……あの男は井戸を守ってた。麦を渡しても、井戸だけは渡さんかった。それが村の男の役割だったんだろう」
村長の家が静かだった。
「俺は火を投げた。命令だった。……桶の男は水を掛けた。掛けても藁は燃えた。男は燃える家に戻った。中に誰かいたんだろう。……俺はそれを見て、火を捨てて、走った。隊から。国境から。夜のうちに。ラッセルまで歩いた。半月。……ラッセルで冬を二つ越した。鍛冶の炉の火を守って。それから、ここに来た」
リーゼは帳面を開いていなかった。
「……村の名前は」
俺は訊いた。訊いてから後悔した。
ニコは首を振った。
「言わない。……言えば、あんたが覚える。覚えたら、あんたは掛ける人だ。……燃えた村に名前はもうない。俺が消した。消した名前をあんたに覚えさせるのは嫌だ」
ベルタはペンを置いていた。
何も訊かなかった。夫を東の国境で亡くした女は、何も訊かずに机の端に座っていた。
訊かないのがベルタの返事だった。ニコの「言わないのが返事だ」と同じ形の。
◇
「……それで全部だ」
ニコはフードを被り直した。
「俺は見張りだ。壁の上に立つ。……それ以外のことは知らなくていい。あんたが王にそう言った。『それ以外のことは、知らなくていいことです』と。……今日、全部言った。それでも知らなくていい。見張りの役割に、昔は入ってない」
一年前、王の前で言った言葉をニコは覚えていた。
俺がニコのために言った言葉を、ニコが自分で引き受けていた。
「……ニコ」
「何だ」
「明日、壁の上に立ってください。……役割は見張り。それだけです。それ以外は俺は知らなくていい。知ったけど、知らなくていい」
ニコは少しだけ笑った気がした。
冬の野営の夜と同じだった。
「……ああ」
ニコが出ていってから、リーゼが帳面を開いた。
開いて、閉じた。
「……書かない」
「書かないでください」
「名前と役割だけ。『ニコ。見張り』。……それ以外は帳面にない。帳面にないことは知らなくていい」
ベルタが立ち上がった。
机の端にペンを置いたまま。何も言わずに窯小屋のほうへ歩いていった。子どもたちを迎えに。
その背中を俺は見なかった。見ないのが、たぶん礼儀だった。
◇
夕方、ニコは壁の上にいた。
槍を担いで、北を見て。いつもと同じ場所で。
カーラが隣に立った。何も言わなかった。
レオンが反対側に。鎧ノルドの銀が霧の中で鈍かった。
北の岩場の黒い陣が動き始めていた。
南へ。今度は泉ではなく、町へ。
ブラムの言った通りだ。
ヴェルムが来る。
ニコは槍の先を北に向けた。
見張りの役割だった。それだけだった。




