第54話 名前のないもの
その夜。黒い旗を見てから、五日目の夜だった。
広場に松明が立った。
霧の中で、火はぼんやりと赤かった。火のそばの木は腐らない。熊の脂を燃やした煙が霧を押していた。
リーゼが不壊の帳面を開いた。
『名前のないもの』の頁。まだ一行目しかない。
「決まりは三つ」
リーゼが広場に向かって言った。百五十四人と、第三隊と、線の人に。
「一つ。名前は持ち主が付ける。領主は付けない。二つ。役割も持ち主が言う。持ち主がいないものは、守る人が言う。壁なら見張り、泉なら番人、畑なら耕す人。三つ。帳面に書いたら領主が触る。……それだけ。近道はない」
俺は井戸の縁に腰を下ろした。
一年前、三十人の列を作った場所だ。今夜は二百を超える名前が並ぶ。人ではなく、ものの名前が。
◇
屋根が先だった。
春に建った十二の屋根。腐りかけた藁と黒い梁。壊れたものは戻らない。でも、これ以上腐らせない。
屋根の下に住む人が来た。
「ヴィムの屋根。役割はヴィムとアンナの雨を防ぐこと」
「……腐った藁は戻りません」
「知っとる。葺き替える。腐らん屋根に葺き替える」
ヴィムが言った。
俺は梁に手を当てた。いつもの感触。黒い梁は黒いまま、黒が広がるのをやめた。
十二。
名前は全部違った。「ダンの屋根」「ハンナの屋根」。ベルタの末の娘が自分の名前を屋根に付けた。「エマの屋根」。役割は「エマが寝るところ」。
掛かった。役割は本人が決める。四歳でも。
◇
第三隊が来た。
ヴォルフが九十七人を広場に並べた。病んだ兵も毛布にくるまって、火のそばから。
「槍と盾に名前を付けろ」
ヴォルフが言った。
「規定にはない。……付けん槍は腐る。見たろう。天幕がどうなったか」
兵たちは黙っていた。
一人がおずおずと手を上げた。若い兵だった。
「……隊長。槍に名前って、何て」
「わしが知るか。お前の槍だ」
若い兵は長いこと自分の槍を見ていた。
それから言った。
「……盾は『母さん』」
誰も笑わなかった。
「役割は俺の前に立つこと。母さんはいつも俺の前に立ってた。東の国境で。……槍は『父さん』。役割は俺の後ろから突くこと。父さんはいつも後ろにいた」
俺は盾に手を当てた。
盾、「母さん」。役割はこの人の前に立つこと。
それから槍に。槍、「父さん」。役割はこの人の後ろから突くこと。
掛かった。二つとも。
名前は本人が決める。本人がそう呼ぶなら、それが名前だ。
九十七人。槍と盾で百九十四。
名前は全部違った。母親の名前。犬の名前。故郷の村の名前。一人は槍に「ヴォルフ」と付けた。隊長は何も言わなかった。
天幕は残っているものだけ。半分はもう腐って落ちていた。残った天幕に兵が名前を付けた。二十四。
「……俺たちには」
列の途中で、咳をしながら一人の兵が言った。
「俺たちには掛けないのか。槍と盾だけか」
俺は答えた。考えてから。
「掛けられます。……名前と役割を言えば。でも、役割を『王の兵』と言う人には掛けません。王の兵の役割は王が決めるものです。俺が決めることじゃない」
ヴォルフが兵を見た。
「……条件の三つ目だ。陣を抜けて町の人になると言う者には掛かる。王の兵のままなら掛からん。……どちらでもわしは止めん。今夜は槍と盾だ。考えるのは明日からでいい」
兵は咳をしながら頷いた。
それ以上、誰も訊かなかった。病んでいる体に掛けても治らない。それは全員が知っていた。
◇
線の人が来た。
四人。咳をしながら。一番年上の男がリーゼの前に立った。
「……名前を言う。役割も」
男は言った。
「ガロ。役割は線の脇に住むこと。……ノルドの人じゃない。線の人だ。それでも名前は言う。言わないと腐ると分かった」
リーゼは帳面を見た。『線の人』の頁。
それから俺を見た。
「役割、『線の脇に住む人』。……帳面は線の頁のまま。それでいい?」
「はい」
俺はガロの額に手を当てた。
頑健。
いつもの感触。咳は止まらなかった。頑健は病を消さない。押し返すだけだ。でも、今夜から悪くはならない。
四人。
掛かった。線の人のまま。
◇
鍬。井戸の桶。窯小屋の新しい長椅子。カーラの弓の張り替えた弦。
名前のないものは思ったより多かった。一年で、町は俺の知らないものでいっぱいになっていた。
真夜中、ゲルトが来た。
炉の脇のあの鉄塊を荷車に載せて。
「……こいつにも名前を付ける」
泥だらけの手で鉄塊を叩いた。
「鉄のまま何にもなれなかった鉄だ。役割は『鍬になること』だった。壊れなくなって、なれなくなった。……果たせない役割を、ずっと持たせておく気はねえ。今夜付け直す。名前は『最初の鉄』。役割は戒め。炉の脇に立って、領主様に順番を忘れさせないこと」
俺は鉄塊に手を当てた。
もう掛かっている。一年前に。端のない不壊が。
あのとき、役割はあった。鍬になること。不壊が先に掛かって、果たせなくなった役割だ。
今夜、炉の持ち主が、別の役割を言った。
最初の鉄。役割は戒め。
掛け直しはしなかった。要らない。何かが鉄の中で座り直した気がした。果たせない役割の不壊が、果たせる役割の不壊になった。それだけだ。
トムが荷車の脇で見ていた。
「……かわいそうじゃなくなった?」
「なくなった。……戒めは仕事だ」
ゲルトが言った。
◇
夜明け前。
新畑の西半分。
一年前、範囲を決めずに掛けて薄くなった畑。黒くなった麦。
俺は畑の境の石に手を当てた。
新畑の西半分。役割は麦を実らせること。範囲は、東半分との境の石から西の柵まで。それだけ。
「豊穣」
薄い付与の上に重ねた。端のあるものの上に端のないものを重ねたのと同じだ。薄いものの上に濃いものを。
黒い麦は黒いままだった。戻らない。でも、根は生きていた。土が濃くなった。
一年前の失敗だった。範囲を決めなかった、最初の失敗。
今夜、直った。直したのではない。重ねた。
◇
夜が明けた。
霧はまだあった。
腐ったものは腐ったままだった。黒い梁も、黒い麦も、破れた天幕も。戻らない。
でも、腐り続けるものがなくなっていた。名前のないものが町になくなっていた。
リーゼが帳面を閉じた。
『名前のないもの』の頁は六枚になっていた。二百五十二の名前。屋根が十二、槍と盾が百九十四、天幕が二十四、鍬と桶と椅子と弦が二十一、最初の鉄が一。全部、持ち主が付けた名前だ。
「……近道はない」
俺は井戸の縁で立てなくなっていた。膝が笑っていた。手のひらが熱かった。
「でも、人がいる」
「いた。……百五十四人と、九十七人と、四人」
リーゼが言った。
「一晩で二百五十二。あんたが触っただけ。名前を付けたのは全部他の人」
「はい。……俺は触っただけです」
◇
朝日が霧を薄くした頃、門の外で声がした。
一人。
黒い渦の印の革の鎧。傭兵が一人で門の前に立っていた。武器を持っていなかった。
壁の上でニコが動かなくなった。
傭兵は壁を見上げて叫んだ。
「──ニコ! 第二国境隊のニコ!」
霧の中で、その声だけがはっきりしていた。
「東の国境の話をする気になったか!」




