第53話 呪詛
泉から戻って、二日目の朝だった。黒い旗を見てから五日目。
目を覚ますと、窓の外が灰色だった。
霧だ。
朝霧ではない。荒野に朝霧は出ない。これは北から風に乗って来た霧だ。黒くはない。灰色で、重くて、匂いがした。腐った水の匂い。
村長の家の戸を開けると、広場が霧の底だった。
井戸の縁にベルタが立っていた。桶を持ったまま。
「……領主様。木が」
ベルタが指した。
井戸の桶の持ち手の木が黒ずんでいた。朝来たときは何ともなかったという。
◇
呪詛だった。
レオンが壁の上で言った。鎧の銀が霧の中で鈍かった。
「前線の霧と同じだ。薄いが、同じ。……触れた木が腐る。触れた者が病む。五年前、ガルドのローブが弾いていた。この剣が弾いている」
剣の周りだけ霧が割れていた。
レオンの後ろに第三隊の兵が十人。鎧の後ろに。誰も咳をしていなかった。
「町は」
「……見てくれ。俺が言うより早い」
◇
町を歩いた。
北壁は何ともなかった。石も丸太も。霧が壁を舐めて通った。通っただけだった。
門は黒ずんでいた。
一年前、炭になっても門だった、あの門だ。板の表面が霧で黒く濡れて、ところどころ腐りかけていた。でも、崩れなかった。腐った板が腐ったまま、門の形で立っていた。
不壊は腐っても崩れない。表面は黒くなる。でも、そこから先へ進まない。木の門は表面が腐る。石の壁は腐るものがない。どちらも、門のまま、壁のままだ。
屋根。
九十四の屋根は何ともなかった。一年前、八十七の屋根に掛けた夜と、その後の七つ。
その先の屋根。
春に三十人のために建てた十二の屋根。俺が王都にいる間にゲルトが建てた。帰ってからまだ掛けていない。人の列が先で、屋根は後にした。
十二の屋根が腐っていた。
藁が黒く、梁が黒く、一つはもう落ちていた。
「……名前を知らなかったので」
俺は言った。
誰にともなく。
◇
人。
百五十四人は咳をしていなかった。頑健は病を押し返す。霧の中で子どもたちが窯小屋に走っていった。ミナがロッテとエマの手を引いて。
押し返していた。全員。
第三隊の九十七人のうち、壁の上の五十人と壁の外の四十七人。
咳をしていた。半分が。
陣の天幕が腐っていた。布が黒く、破れて。天幕には名前がない。王国の規定の天幕だ。
新畑の西半分の麦が黒かった。一年前、薄く掛けたあの西半分。東半分は青かった。薄い付与は、呪いの前では薄かった。
「……名前を知らないものに掛からない」
俺は霧の中で自分の手を見た。
「知っているものには掛かった。全部切れていない。……でも、知らないものは腐る」
ノルドの弱点だった。
一年で初めて見つかった弱点。壁でも、門でも、人でもない。俺が名前を知らないもの。
◇
昼前に東から人が来た。
四人。緑の線の上を走ってきた。
線の人。鷲の道の口の、小屋の二組。
「……小屋が」
一番年上の男が門の前で膝をついた。咳をしていた。
「腐った。昨日の夜。霧が東からも来た。……黒い旗の連中が鷲の道の口に二十人。道を切りに来た。小屋は一晩で黒くなった。……線の上は霧が薄かった。線の上を走ってきた」
道は両方向に通じる。
魔王軍は道を切った。ラッセルから誰も来られない。ノルドから誰も行けない。
「水を」
リーゼが桶を差し出した。
男は飲んだ。甘水を。
咳が止まらなかった。頑健は掛かっていない。線の人は掛けてくれとは言わなかった。
◇
「掛かっていない人を壁の中へ」
リーゼが言った。
俺にではなく、ヴォルフに。
「兵も。咳をしてる人は全員。窯小屋の火のそばに。……あの霧の中で天幕なしで寝たら死ぬ」
「……条件は、町の中に入れない、だった」
ヴォルフが言った。
反対しているのではなかった。確かめていた。
俺は答えた。
「条件は俺が決めました。……俺が破ります。病んだ人は町の中へ。名前と役割を言えばノルドの人です。言わなくても火のそばへ。……送り返しません。陣にも」
ヴォルフは長いこと俺を見ていた。
「……破らせてもらう」
それだけ言って、壁の外へ兵を呼びに行った。
◇
夕方、村長の家でリーゼが帳面を広げた。
帳面の端が黒かった。
ベルタの帳面。五冊目。一年の名前と役割と世話役。
紙は木だ。霧が紙を腐らせ始めていた。
「……これは駄目」
リーゼが言った。声が少しだけ震えていた。
「屋根は建て直せる。天幕も。……帳面は建て直せない。一年分の名前が」
俺は帳面に手を置いた。
帳面には名前がある。「ベルタの帳面」。町中がそう呼ぶ。
役割は──名前を覚えておくこと。百五十四人と、線の人と、屋根と、鍬の名前を。
「不壊」
光は出ない。音もしない。手のひらから、薄い何かが紙に染みていく。
黒ずんだ端は黒ずんだままだった。壊れたものは戻らない。でも、黒はそれ以上広がらなかった。
リーゼは帳面の端を指でなぞった。
「……来た日に辞令に掛けたとき、『また!?』って言ったわよね」
「言われました」
「……今は言わない」
◇
夜、霧は晴れなかった。
窯小屋に咳の音が並んでいた。第三隊の兵と線の人。火のそばで毛布にくるまって。
窯小屋は屋根も壁も掛かっている。不壊の屋根の下では霧が薄かった。熊の脂の煙が戸口から霧を押し返していた。
治りはしない。頑健は治さない。ここにいる人には、そもそも掛かっていない。でも、これ以上吸わない。それだけが窯小屋にできることだった。
マーサが粥を回していた。脂と塩。
俺は窯小屋の戸口で霧を見ていた。
名前を知っているものは切れない。
名前を知らないものは腐る。
十二の屋根。天幕。西の畑。小屋。……俺が名前を知らなかったもの。知る前に腐ったもの。
「……名前を付けます」
リーゼに言った。
「全部に。屋根にも、天幕にも、鍬にも、小屋にも。……町中の名前のないものに。今夜」
「……一晩で?」
「名前と役割は持ち主が付けて、帳面に書く。俺は触るだけです。一つずつ。……触るのは一瞬です。井戸は一瞬でした。鍬も、鎧も。重いのは畑と壁と泉だけ。……屋根と天幕と鍬なら、一晩で何百でも」
「何百でも、一つずつ」
「一つずつ。近道はありません。でも、人がいます。名前を持ってくる人が」
リーゼは帳面を開いた。不壊の帳面を。
新しい頁の一行目に書いた。
『名前のないもの』。




