第52話 泉に黒を
黒い旗を見てから、三日目の朝だった。
黒い陣が動いた。
南へ、ではない。北へ。泉へ。
「熊を縄で引いてる」
壁の上でピムが言った。
「五頭。それと狼を十。……殺すために連れていってる。歩き方で分かる」
泉で確かめる。使者はそう言った。
確かめ方が分かった。二十年前と同じやり方だ。魔物を泉で殺して、血を流す。
◇
「行きます」
俺は言った。
リーゼは今度は袖を掴まなかった。帳面を胸に抱えていた。
「泉は泉が守ってるって言った」
「はい。……でも、見ていないと分かりません。戻らないと俺は言いました。俺が見ます」
ヴォルフが五十人を連れると言った。残りの五十人は壁の外。
レオンが剣に手を置いた。
「俺も行く」
「……レオンは町に」
俺は言った。
「北壁の外に五十人が立ちます。その前に立ってください。……鎧の役割は後ろの兵を守ること。泉にいる兵より、町の外にいる兵のほうが多い」
レオンは長いこと俺を見てから頷いた。
「……前に立つ。それが役割だ」
ヨナスが杖を持って門の前にいた。
誰も来いとは言っていない。
「番人だ」
それだけ言った。
ニコが槍を担いでその横に立った。言わないのが返事だった。
◇
水路沿いを北へ。半日。
緑の線の上を、五十人の兵と、老人と、元兵と、俺が歩いた。
線の両脇に足跡があった。
狼と、熊と、大きいのと、人。全部、線の外側を歩いていた。腰の高さの草の中には一つも入っていない。
緑の線は荒野の真ん中で、踏まれないまま泉まで続いていた。
「……魔物は線を避けとる」
ヴォルフが言った。
「黒い筋の上を歩くと聞いたことがある。東の国境の年寄りが言っとった。魔物は黒い筋を道にする、と。……清めた筋は道にならんのか」
「……分かりません。でも、足跡は嘘をつきません」
泉の手前でヴォルフが手を上げた。
兵が止まった。
泉は黒い陣に囲まれていた。
傭兵が五十ほど。残りの五十は町の北の陣に残っている、とヴォルフが言った。縄に繋がれた熊が五頭。狼が十。泉の縁に並べられている。
泉の向こうに霧があった。黒い霧。朝の荒野に、そこだけ夜が残っているみたいに。
霧の中に何かが立っていた。
人の形。人より高い。顔は見えない。見えなくても、顔を思い出せないカイの皮を思い出した。
「……あれが」
「澱だ」
ヨナスが言った。かすれていた。
「二十年前と同じ場所に、同じ形で立っとる」
傭兵たちはこちらを見なかった。
見ないようにしていた。熊の縄を握った手が白かった。五十の傭兵のうち何人かは、泉の水を見て顔をそむけた。澄んだ水をまっすぐ見られない顔だった。
俺は泉の縁まで歩いた。
ヴォルフが止めなかった。止めても行くと分かっていたのだろう。
縁に膝をついた。澄んだ水に指を入れた。
端がない。底まで白い。秋に掛けたままだ。冬を越して、春になって、血の匂いの中で、変わっていなかった。
確かめた。
立ち上がって兵の列に戻った。傭兵は誰も止めなかった。
◇
傭兵が熊の喉を切った。
一頭。縄を解かれた熊が泉の縁で倒れた。血が黒い土に広がって、泉に流れ込んだ。
二頭目。三頭目。
狼はまとめて。
泉の縁が赤くなった。
血が澄んだ水に触れた。
──水が血を押し返した。
油を避ける水のように。霧が剣を避けるように。血は泉の縁で薄く広がって、それ以上入らなかった。水面の上に赤い膜が揺れ、それから縁の土に吸われていった。
泉は澄んだまま。
底の白い筋が、血の下で白かった。
誰も声を出さなかった。
傭兵たちが血の膜を見ていた。五頭の熊の血が、泉に一滴も入らなかった。
ヨナスが杖を突いて前に出た。
五十人の兵の前に。傭兵の目の前に。番人として。
「グレイスの泉」
老人は泉の名を呼んだ。
「……二十年、呼ばんかった。今年は呼ぶ。毎日呼ぶ。……澄んだ泉は黒を飲まん。番人の息子が言う。もう戻らん」
霧の中の人の形が動いた。
「──戻らんのか」
低く湿った声だった。レオンが前線で聞いた声だ。
「二十年、この水はわしのものだった。……戻らんのか。届いたものは」
「戻りません」
俺は言った。自分でも驚くほど普通の声だった。
「切れないので」
◇
霧が動いた。
「……なら、黒い筋を道にする」
泉の底から十本の黒い筋が四方へ走っている。南と東は白い。残りの十本は泉を出た先で黒い。
その十本の先から来た。
狼。熊。岩のような背中の大きいの。
黒い筋に沿って、北から、西から、北東から。筋の上をまっすぐに。匂いを辿る犬のように。
「構え!」
ヴォルフが叫んだ。
五十人が盾を並べた。
狼が盾に当たり、槍が狼を刺した。
熊が盾を一枚吹き飛ばし、盾の後ろにいた兵が倒れた。熊がその上に乗り、兵は動かなくなった。
大きいのが来て、盾の列が割れた。割れたところにいた兵が、岩のような足の下で動かなかった。
傭兵は動かない。
盾も並べず、矢も射たず、泉の縁に立って、魔物が通るのを見ていた。魔物を使う側の顔。使われる側の顔も何人か混じっていた。
俺はニコに後ろへ引かれた。
ヨナスをニコが片腕で抱えていた。
「水路だ! 水路沿いへ!」
ヴォルフが叫んだ。
五十人が緑の線の上に退いた。
魔物は追ってきた。
追ってきて──線の上で止まった。
狼が緑の草の前で鼻を鳴らした。入らなかった。黒い筋の上をぐるぐる回って、入ってこなかった。熊も。大きいのも。
匂いがないのだ。黒い筋の匂いが、清めた線の上には。
◇
退きながら数えた。
五十人が四十七人になっていた。
三人。
戻らなかった。熊の下で動かなくなった兵と、大きいのに踏まれた兵と、もう一人。もう一人は、黒い筋の上で狼に引きずられていくのをヴォルフが見た。
死んだ。三人。
名前を知らなかった。壁の外に陣を張った百人の三人。俺はまだ一人も名前を聞いていなかった。
緑の線を南へ。
魔物は線の脇をついてきた。入れないまま。
霧の中から声が追ってきた。
「──戻らんなら」
低く、湿って。
「町を腐らせる」




