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第51話 黒い旗

 黒い旗を見た、翌日の朝だった。帰って二日目。

 リーゼは帳面の隅に「旗、二」と書いた。旗を見た夜を一日目に数える、と決めたらしい。以後、この町の日数はそれで数える。


 北壁の上に俺は立っていた。

 隣にヴォルフ。反対側にヨナス。老人は夜明け前からここにいた。


 岩場から黒い線が南へ降りてきていた。


 ◇


 魔物だった。

 狼の群れが三つ。熊が五頭。それと、見たことのない大きいのが一つ。岩のような背中で、四つ足で、狼の倍の高さがあった。ピムが「大きいの」と呼んでいたものだ。

 その後ろに人。

 百人ほど。槍と弓。兵の歩き方だった。王国の兵ではない。旗が違う。黒地に白い渦。


「……傭兵だ」


 ヴォルフが低く言った。


「魔王軍は人を使う。東の国境でもそうだった。魔物は壁を登る。人は門を開ける」


 黒い線は、町から半里の、荒野の真ん中で止まった。

 荒野に黒い陣が張られた。南の線の緑の脇に。


 ◇


「……同じだ」


 ヨナスが言った。

 老人の声は低かった。壁の石に両手を置いていた。


「二十年前と同じだ。旗も。並び方も。……あの大きいのもいた。あれは岩を食う。壁を齧る」


 俺はヨナスを見た。


「二十年前も使者が来た。白い布を持って。『泉の番人を渡せ』と言った。……番人はわしの父だった」


 ヨナスは泉の方角を見た。


「村は渡さなかった。魔物が来た。父は泉で死んだ。千の魔物が泉で死んだ。血が泉に染みた」


 ヨナスはそこで言葉を切った。

 壁の石を両手で握っていた。俺は待った。ヴォルフも待った。


「……それをやらせたのが『澱』だ。使者がそう名乗った。『澱のヴェルムの使いだ』と」


 澱のヴェルム。

 四天王の一人。二十年前にグレイスの泉を毒したもの。五年前にレオンの剣を覚えていたもの。

 名前があった。


「……名前を知っていたんですね」

「二十年、誰にも言わんかった。言っても誰も信じん。……番人の息子の言うことだ」


 ◇


 使者は昼に来た。


 一騎。白い布を槍の先に。

 人間だった。傭兵の隊長らしい男。革の鎧に黒い渦の印。


 門の前にヴォルフと俺とリーゼが立った。ニコは壁の上に。槍を下に向けて。


「澱のヴェルムの使いだ」


 男は馬を降りなかった。


「泉を清めた男を渡せ。……渡せば町は通らん。渡さねば二十年前と同じだ」


 ヴォルフが鼻を鳴らした。


「二十年前と同じ文句だ。……わしは二十年前、東の国境で聞いた。同じ旗の、同じ使いから。『砦の術師を渡せ』と」

「渡したか」

「渡さなかった。……砦は落ちた。術師は死んだ。渡しても落ちていた。そういう文句だ」


 男は答えなかった。

 俺を見た。


「お前か。泉を清めたのは」

「はい」


 俺は一歩前に出た。

 リーゼが袖を掴んだ。冬の夜と同じだった。何も言わない。言わなくても分かる。


 俺は袖を掴まれたまま言った。


「……俺を渡しても、泉は戻りません」


 男の眉が動いた。


「泉はもう澄んでいます。二本の地脈も。……俺の付与は切れません。俺が死んでも切れません。届いた分は二度と戻らない。……渡しても渡さなくても、泉は黒くならない」


 静かだった。

 リーゼの手が袖を強く握っていた。


「……なら、泉で確かめる」


 男はそれだけ言った。

 馬を返して北へ戻っていった。白い布が風で裏返った。


 ◇


「……本当に戻らないの」


 門を閉めてから、リーゼが訊いた。

 まだ袖を掴んでいた。


「二十年の黒は戻りません。たぶん、じゃなく。……井戸の水は、来た日から一度も苦くなっていません。泉の黒は底まで澄んで、戻らなかった。清浄は、届いた分が二度と戻らない」

「……『二十年の黒は』」

「はい。……新しい黒を流したら入るかどうか。それは確かめたことがありません。井戸に毒を流した人はいないので」


 リーゼの眉が上がった。


「使者には、黒くならないって言ったわよね」

「言いました。……二十年の毒を消した水が、新しい毒を飲むとは思えません。思えないだけです。たぶん」

「たぶん」

「はい。……だから、確かめさせるしかありません。泉は俺が守るものじゃない。もう、泉が泉を守っています。……守れるかどうかを見に行きます」


 リーゼは袖を離した。

 離してから、俺の肩を帳面で叩いた。


「『俺が死んでも』って、使者の前で言うな」

「……すみません」

「言うなら私に先に言いなさい。殴るから」


 ◇


 第三隊が陣を動かした。


 東南から北へ。北壁のすぐ外。

 ヴォルフが門の前で言った。


「条件は、町の中に入れない。……壁の外に陣を張る。北壁の外だ。壁の上に弓を置きたい。壁の上は町の中か、外か」


 俺は北壁を見上げた。

 不壊の北壁。役割は町を守ること。


「……壁の上は壁です。壁の役割は守ること。守る人は壁の上に立っていい。……壁は町の外側です。町の中には入らない。条件はそのままで」

「分かった」


 ヴォルフは頷いた。


「百人のうち五十を壁の上に。五十を北壁の外に。……北壁の外が一番危ない。わしが立つ」


 カーラが壁の上で第三隊の弓兵と並んだ。

 一年前、矢を向けた隊と矢を向けられた町が、同じ壁の上に立った。

 カーラは何も言わなかった。弓兵も何も言わなかった。並んで北を見た。


 広場ではリーゼが帳面を開いていた。

 冬の組の春版だ。昼は年寄りと子どもを窯小屋に。夜は二家族で一軒。火は落とさない。

 マーサが脂の壺を並べた。「二十年前と同じだ」と言って、それ以上は言わなかった。

 ゲルトが門の内側に丸太を積み始めた。不壊の門は燃えない。それでも積んだ。「手が空いてるからだ」と。


 ◇


 夕方、ニコが壁の上から降りてきた。

 珍しく自分から俺のところへ来た。


「……傭兵の立ち方を見た」


 フードの下で低く言った。


「知った立ち方だ。……第二国境隊の立ち方だ。一人いる」

「……ラッセルの」

「分からん。遠い。……だが、あの立ち方はあの隊で教わる。他では教えん」


 ニコはそれ以上言わなかった。

 槍を担いで壁に戻っていった。


 ◇


 日が落ちる前に、カーラが東を指した。


「東から、一騎!」


 鷲の道の方角。土煙が一つ。

 夕日を受けて銀が光った。


 銀の鎧。腰に古い剣。

 馬は泡を吹いていた。近衛の馬車よりずっと速く来た馬だ。


 門の前で馬を降りて、レオンは鎧の泥を払いもせずに言った。


「……鍬で殴られる前に着いたぞ」


 リーゼが鍬を門の脇から取った。

 取って、見て、戻した。


「……間に合ったからいい」



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