第50話 ただいま
ノルドを出て、三十日目の夕方だった。
北壁が見えた。
春の荒野の、赤茶けた地面の上に黒い線。線の上に人影が一つ。槍を持っている。
人影がこちらを見て、動かなくなった。
それから壁の内側に向かって何か叫んだ。
門が開いた。
◇
門の前に、肩掛けを巻いていない女が腕を組んで立っていた。
鷲の旗の隣の、空いた柱の前で。足元に鍬が一本、立てかけてあった。
「……三十日」
「三十日です」
「三十で三十」
「……はい」
「数えてたわよ。十日の約束で十一日の人が、三十で三十。……日が暮れる前でよかったわね。暮れてたら三十一にしてた」
リーゼはそれだけ言って、俺の外套の埃を乱暴に払った。
それから鍬を見て、俺を見て、鍬を門の内側に放り込んだ。
「……要らなかった」
俺は馬を降りた。
王都の北門で言わなかった言葉を言った。
「……ただいま」
「おかえり」
リーゼは帳面で俺の肩を叩いた。
叩いてから、少しだけ笑った。
◇
壁の外、東南に天幕が並んでいた。
百人の陣。王家の獅子の旗。
門の脇に髭の隊長が立っていた。
ヴォルフ。一年前、この門に矢を向けた男。
「領主殿。……一年ぶりだ」
「はい。……矢を向けないで済みましたね」
「まだ済んでおらん」
ヴォルフは北を見た。
「向ける相手が北にいる。……二日前から岩場に旗が立った。黒い旗だ。斥候を出した。戻ってきた者が一人。出した者は三人」
隊長はそれ以上言わなかった。
言わなくても分かった。二人は戻っていない。
「水は甘い。……帳面係の言った通りだ」
「リーゼが受け入れたと」
「門の前で鍬を持って立っていた。……一年前と同じ門で。今度は、頭を下げたのはわしのほうだ」
◇
夕方の列は長かった。
三十人。
ベルタの帳面には、名前と役割と世話役が全部書いてあった。三十日、俺がいなくても列は列のままだった。俺は額に手を当てるだけだ。
一人ずつ。
ベルタが名前を言う。本人がもう一度役割を言う。俺が額に手を当てる。
いつもの感触だ。手のひらが温かい。
二人目。三人目。十人目。
二十人目で手のひらが熱くなった。三十人目で腕が重かった。
来た日の三十人の列を思い出した。あの翌朝は筋肉痛だった。
「……三十人」
リーゼが帳面を閉じた。
「百五十四人。掛かってるのが百五十四。……帳面と同じになった」
列の最後がダンだった。
腕に添え木。十日目に狼に折られた人だ。額に手を当てた。掛かった。三十人目。
それから添え木に手を当てた。頑健は骨を守る。折れてからは守らない。くっつけもしない。
「……くっつくのは骨の仕事です。俺の仕事じゃない」
「知ってる」
ダンは言った。
「リーゼさんがそう言った。……折れても人は死なない、とも」
◇
リーゼの帳面に、頁が一つ足されていた。
『線の人』。
名前だけ。四人。鷲の道の口の、小屋の二組。ニコが先に伝えていた。
「ノルドの人じゃないって言ったんでしょ」
「線の人だ、と」
「……なら線の頁。役割は本人が決めるまで。掛けるかどうかも本人が決めるまで」
リーゼは頁の端を指で押さえた。
「線が道になった。人が線に沿って住む。……あんたが泉から引いた線の上に、知らない人が暮らし始めてる。町まで来ないで」
「……いいことか悪いことかは」
「知らない。後で考える。……私が」
◇
窯小屋でマーサが白パンを焼いていた。
東の線の麦はまだ芽だ。北の畑の春の麦。石臼の粉、甘水の酵母、窯の均熱。
一口食べて、訊かれる前に言った。
「……王都のよりうまいです」
「聞いてない」
マーサは二つ目を押しつけた。
ハンスが火のそばに座っていた。
冬より背筋が伸びていた。春だからだ、と言った。
「……王は何と言った」
「『王は考えた』と。……役人は七人。名前は一人も覚えていない、と」
「そうか」
老人はそれだけ言った。
それからリーゼを見た。
「帳面係が三十日、村長の仕事をした。……領主殿。覚えておけ」
「覚えています。帳面に書いてありました」
◇
窯小屋を出たところで、リーゼに言付けを渡した。
「ミリアから。……『門で道を空けてくれて、ありがとう』と。一年前の」
リーゼは足を止めた。
帳面を胸に抱え直した。
「……あれは道を空けただけ」
「そう伝えました」
「次の冬、来るって?」
「はい。怪我人が出る前に、と」
リーゼは北を見た。岩場の方角を。それから、ダンの腕のことを思い出したらしい顔をした。
「……遅い」
小さく言った。
「でも、来るならいい。……聖女様には聖女様の仕事がある。私には帳面」
リーゼは歩き出した。
「それと、あんた。『ただいま』って言ったわね。門で」
「言いました」
「王都では言わなかったって、ヴァンスから手紙が来てた。『来ました』って言ったって」
「……ヴァンスさんは規定外のことを書きますね」
「いいことよ」
◇
夜、北壁に登った。
北に火が並んでいた。岩場の中腹。十、二十。横に長く。
その上に旗。月の下で黒かった。
ニコが隣にいた。カーラが反対側に。
梯子をピムが登ってきた。昼間、岩場の手前まで行って戻ったのだ。第三隊の斥候が戻らなかった場所まで。
「……旗の紋を見た」
ピムは息を整えてから言った。
「黒地に白い渦。……渦の真ん中が黒い。澱みみたいに」
ニコが槍を握り直した。
フードの下で顔が動かなかった。
「東の国境で見た。五年前。……四天王の旗だ」
荒野の北に、人の皮を裂かれたものが春に来ると言った。
来ていた。旗を立てて。
俺は自分の手を見た。
百五十四人に掛かった手。古壁に掛かった手。鎧に掛かった手。
王都の城壁に掛けた分だけ、ここが狙われる。王はそう言った。
「……後で考える、と言いました。親方にも、王にも」
誰にともなく言った。
「後で、が、来ました」
第五章完。第六章「切れない線」は今夜21:10から。




