第49話 帰路
王都を出て八日目。ノルドを出てからは、二十九日目の夕方だった。
鷲の道の口が見えた。
◇
王都を出たのは十二日目の朝だった。古壁が一周した、その翌朝だ。
北門の下で、ヴァンスが羊皮紙の束を抱えて立っていた。灰色のローブ。規定の服。
「見送りは規定にありません」
「来ましたね」
「規定にないことは本人に訊くしかない、と習いました。……訊いたら、来ていいとオズワルド様が」
ヴァンスは王都に残る。列の先頭に立つ仕事がある。十区画の帳面を毎年書き直す仕事が。
本ができたら届けに来ると言った。「次は携行食を四日分持ちます」と。
「……春まで、と言ってひと月あまりいましたね」
「規定外でした。……また規定外で行きます」
ヴァンスは頭を下げて、それから壁に手を当てた。北門区画。自分の持ち場だった一か所に。
端がないものを確かめるように。
◇
近衛の馬車は速かった。宿場ごとに馬を換える。
十騎が前後についた。隊長は来るときと同じ騎士だった。
馬車の中で、することがなかった。
帳面の写しを読んだ。リーゼが持たせた一冊。百二十四人の名前と役割と世話役。
三十人、増えているはずだ。リーゼの計算なら。名前は帳面にある。知るのは戻ってから。
帳面の最後の頁に、リーゼの字で一行あった。
『数を間違えたら帳面係が直す。領主は名前だけ覚えておけばいい』。
持たせたときには言わなかった一行だ。
馬車の窓から北を見た。まだ荒野は見えない。
王都のパンを一つ食べた。ミリアが持たせた、砂糖の甘いパン。うまかった。ノルドのほうがうまい。
王の言葉を思い出した。
王国の急所はもう王都ではない。お前だ。お前の町だ。
古壁は切れなくなった。王都は俺なしで守られる。
その分だけ、王国は俺に寄りかかった。寄りかかられた分だけ、ノルドが狙われる。
誰かを助けると誰かが困る。親方の言った通りだ。今度は、困るのが俺の町だった。
それでも掛けた。
後で考える。……帰ったら考える。
◇
ラッセルに着いたのは、王都を出て六日目だった。
鷲の巣亭の戸口でヤンが走ってきた。「また来た」とは言わなかった。走ってきて、袖を掴んで、裏庭に引っ張っていった。井戸を見せたかったらしい。
甘かった。春の終わりの水だ。
ヘルガは桶を回しながら言った。
「領主様。荒野の口に人が集まってる」
「……人が」
「ブルーノの人夫だ。道ができて仕事がなくなった連中。ノルドに行くのかと思ったら、口のところで止まって、線のそばに小屋を建て始めた。……『線の両側は土がいい』と言って」
ヘルガは桶を置いた。
「あんたの町に行く途中で止まる奴が出てきた。……線が道になった。町まで行かなくても、線のそばなら暮らせると」
「……それは」
「いいことか悪いことかは知らない。後で考えな。領主様が」
ヘルガは笑った。
俺は笑わなかった。考えていた。
◇
ラッセルを出て二日目の夕方。鷲の道の口。
石の道が終わる場所。
その先に緑の線があった。
泉から東へ来た線が、石の最後の一列で止まっている。一か月前と同じだ。
違うのは線の両脇だった。
黒い土の帯に芽が出ていた。
細い緑の芽。北の畑の麦だ。春に撒いた種が、口のところまで顔を出していた。豊穣は掛けていない。普通の麦が普通の速さで育っていた。清めた土の上で。
線の脇に小屋が二つ建っていた。
石を積んで布を張った、粗い小屋だ。煙が一本上がっていた。
「……人が住んでいますね」
「口に二組。ブルーノの人夫だと」
隊長が言った。
「領主殿。この先は荒野です。近衛の馬車は口までと、王命です。……馬を二頭、置いていきます」
◇
口の石の上に男が一人座っていた。
槍を膝に置いて。フードを被って。
ニコだった。
「……三日、ここで待った」
ニコは立ち上がった。
馬が二頭。手綱を俺に渡した。
「リーゼが迎えに行けと。……鍬は持ってくるなと言った。『私が持つから』と」
「……二十九日目です。まだ一日あります」
「数えてたのか」
「リーゼが数えてます」
ニコは鼻を鳴らした。冬の初雪の夜と同じだった。
◇
夜、口で野営した。
小屋の二組が火を分けてくれた。ブルーノの人夫だった。名前を訊いた。四人。帳面にまだない名前だ。
「ノルドに行かないんですか」
火のそばで、一番年上の男に訊いた。
男は首を振った。
「町は遠い。ここならラッセルに三日で着く。線のそばは土がいい。……道を作った俺たちが道の端に住む。悪くないだろう」
「……ノルドの人、ではない」
「線の人だ」
男は笑った。
「あんたの町の人じゃない。あんたの線の人だ。……掛けてくれとは言わん。線だけで十分だ」
「……ここはグレイス領です。線のそばも」
俺は言った。
「掛けなくていい。でも、名前と役割を言いたくなったら、いつでも。帳面は開いています。……言わなくても水は飲めます。線は切れないので」
「覚えておく」
男はそれだけ言った。
線のそばに住むなら、ノルドの人かどうかは本人が決める。役割は本人が決めるまで待つ。
線の人。
帳面にどう書くのか。リーゼが考えるだろう。俺は名前だけ覚えた。四人。
火のそばで、ニコが話した。
順番に。リーゼの帳面を読むみたいに。
第三隊が三日前に着いた。リーゼが門で受け入れた。陣は壁の外。水は朝と夕。
ダンという新しく来た男が、狼に腕を折られた。掛かっていない一人だ。添え木でくっつく。
三十人来た。名前は帳面にある。掛かっていない。
北の岩場に狼が集まっている。三十。それと、大きいのが一つ。
二十日目から、岩場に火が並んでいる。焚き火。陣だ。
「……陣」
「人が張った陣だ。人の形をしたのが、人を使って」
二十日目。
俺は火を見た。二十日目は、王都で北門の区画に掛けた日の頃だ。俺が古壁に手を当てていた朝、岩場に火が並び始めていた。
王の言葉がまた頭に浮かんだ。頼んだ分だけ、お前の町が狙われる。
「……俺が壁に掛けている間に」
「そうだ」
ニコは火を見ていなかった。北を見ていた。
荒野の夜は暗い。口からでは岩場は見えない。
「それから、昨日だ」
ニコは槍を握り直した。
「北に黒い旗が立った」




