第48話 端がない理由
王都に着いて、十一日目の夜明けだった。掛け始めてから十日目。
北の二。最後の区画。
範囲は、北の一との境の井戸から、北門の左の塔まで。九日前に始まりにした塔だ。
三百人がいた。
十日目の朝は全員が来た。列に並んだ二百人も、並ばなかった百人も。砦に出ていた百人は昨日、王都に戻っていた。ベルンハルトが呼び戻したのだという。最後の区画は三百人で見る、と。
帳面を読んだ。北の二の守るもの。通りが四つ、井戸が二つ、家が百二十、人が四百十。ヴァンスの列が昨日一日で集めた名前だ。
読み終えて、壁に手を当てた。
「不壊」
染みていった。
塔のところで、九日前のものと出会った。端のないものと端のないものがつながった。つながったところに継ぎ目はなかった。
古壁が一周、切れなくなった。
オズワルドが隣で手を離した。
「……一周だ」
「はい」
「六十年、わしはこの壁に毎朝毎晩、三百人を送った。……今日から送らん」
老人は壁を一度だけ叩いた。
◇
ベルンハルトが最後に壁に触れた。
長いこと手を当てていた。それから三百人のほうを向いた。
「列に並んだのが二百。……新しい規定で名前を書く。帳面は十区画で三冊になった。毎年書き直す」
静かな声だった。十日前と同じ。
「並ばなかったのが百。……私が連れていく。東の砦に掛け直しの仕事がまだある。王国には切れる壁がまだいくらでもある」
ベルンハルトは俺を見た。
「一年後、また来るのだろう。……砦の守るものの名前を集めておく。それが百人の一年の仕事だ」
「……それも消す仕事ですよ」
「知っている。消される前に名前を集める。それだけだ。……あんたが来る前に名前があれば濃く掛かる。そう聞いた」
三百人の代弁者は頭を下げなかった。
代わりに壁を一度叩いた。オズワルドと同じ叩き方だった。
◇
昼、ギルドの書庫。
オズワルドと、ヴァンスと、俺。それとミリア。白木の杖を机の上に置いていた。
六年前の杖。俺がパーティに入った日に掛けた、最初の杖。ギルドで一番古い、切れていない付与だ。
「最後の日に一つだけ訊く」
オズワルドは杖に手を置いた。
「お前は掛けるとき、何を考えておる。名前と役割と範囲。それは聞いた。……他に何かあるか」
俺は考えた。
井戸で。畑で。壁で。泉で。鎧で。古壁で。
名前。役割。範囲。
それから──
「……『切れませんように』と」
口に出したのは初めてだった。
毎回思っていた。思っていたのに、自分でもそれを意識したことがなかった。息をするのと同じだった。
「毎回です。王都で剣に掛けるときも。『切れませんように』と思ってから掛けます。……五年間、毎晩。朝、切れていたらレオンが困るので」
ミリアが小さく息を吐いた。
「……聞こえてた。五年前から。あなたが剣に掛けるとき、小さく言ってた。『切れませんように』って。毎晩。……癖だと思ってた」
「癖です」
「癖じゃない」
オズワルドが言った。
「役割に入っておるのかもしれん」
老人は杖から手を離さなかった。
「お前は、対象の役割に自分の願いを一つ足しておるのかもしれん。『続くこと』を。……井戸の役割は水を届けること。それに『届け続けること』が足されておる、とすれば。壁の役割は守ること。『守り続けること』。……役割の中に続くことが入っておれば、端はできん。役割が終わらんからだ。……そう考えれば筋は通る。通るだけだ」
書庫が静かになった。
「……仮説だ」
オズワルドは言った。
「確かめようがない。お前以外に、そう掛ける者がおらん。わしも、ヴァンスも、三百人も、『切れませんように』などと思わん。規定に、持続は最長一日と書いてあるからだ。切れるものだと思って掛ける。……思って掛けたものは切れる」
ヴァンスがペンを止めていた。
「……規定に書けません。『切れませんように、と願うこと』は」
「書かん。仮説だ。本には確かなことだけ書く」
◇
「……やめたら切れますか」
俺は訊いた。
「『切れませんように』と思わずに掛けたら」
「試すな」
即答だった。
「試して切れたら、お前は二度と『切れませんように』と思わずにいられん。試して切れんかったら、仮説が一つ減るだけだ。どちらにも得がない。……お前はお前の癖で掛け続けろ。それでいい」
俺は頷いた。
試す気はなかった。井戸が切れたら百二十四人が困る。
◇
オズワルドは机の引き出しから薄い冊子を出した。
新しい教本。まだ表紙がない。
第一章、第一行。
『付与は、切れないことがある。』
「……六十年前の一行目は『付与は必ず切れる』だった。線を引いた。……新しい一行目はこれだ。『ことがある』。確かなことだけ書く」
俺はその一行を長いこと見ていた。
切れないことがある。
俺の付与のことを、六十年ぶりに書き直された本がそう言っていた。「地味だ」でも「たまたまだ」でもなく。
「……ありがとうございます」
「礼は要らん。お前の町に一冊送る。ヴァンスが届ける」
◇
ミリアは王都に残ると言った。
「神殿にまだやることがあります。……それと、この本の杖の章を」
書庫の戸口で、ミリアは杖を背負い直した。
「次の冬、荒野に行きます。……怪我人が出る前に。頑健は治さないから」
「はい。……待っています。リーゼも、たぶん」
「リーゼに言付けを。……『門で道を空けてくれて、ありがとう』と。一年前の」
「伝えます」
ミリアは笑った。
それから俺の手を見た。五年前と同じ、油と砥石で黒ずんだ手を。
「……切れませんように、って。今も言ってるのね」
「言っています」
「それでいい」
◇
夕方、レオンが宿舎に来た。
鎧、ノルド。旅装だった。
「お前は明日発つ。……俺は五日後だ。王の許しが今日出た。前線ではなく、荒野へ」
「……荒野へ」
「お前より遅く着く。鷲の道で十日。……間に合うかどうかは分からん」
レオンは扉の前で振り返った。
「鍬で殴られる前に着く。それだけは約束する」




