第47話 留守
──これは、俺が王都にいる間のノルドの話だ。
後でリーゼから聞いた。リーゼは帳面を読むみたいに順番に話した。だから、ここもそのまま書く。
◇
領主が出て五日目。
リーゼは帳面の隅に「五」と書いた。
書いてから消した。数えないと言った手前、帳面に残すのは負けた気がした。消した跡は残った。それでいいことにした。
朝の列はない。夕方の列だけだ。
ベルタが名前を言う。本人が役割を言う。誰も額に手を当てない。それで終わり。
五日で八人。鷲の道が通ってから、人の来る速さが冬の倍になった。
「掛かってない人が八人」
リーゼは帳面を閉じた。
「十日で十二。……三十日で三十。あいつの言った通りね」
◇
十日目。
東の線の畑で、ダンが腕を折った。
ダンは五日目までに来た八人のうちの一人だ。役割は東の畑。ヨルクたち四人と一緒に線の脇を耕していた。掛かっていない八人のうちの一人。
折ったのではない。折られた。
夕方、泉のほうから狼が三頭、東の線に沿って降りてきた。ヨルクが鍬を振って一頭を追い払った。頑健のヨルクは、牙を腕で受けても骨が折れない。ダンは違った。二頭目に腕を噛まれて、噛まれたまま鍬で殴った。
狼は逃げた。ダンの腕の骨は折れていた。
リーゼは村長の家で、ダンの腕を添え木で固定した。
ミリアの治癒はない。領主の頑健もまだない。あるのは添え木と、布と、甘水だ。
「……骨はくっつく。ひと月」
リーゼは言った。
「頑健があれば折れなかった。ヨルクは折れなかった。……でも、折れても人は死なない。狼を追い払った。それでいい」
「領主様がいれば」
ダンが言った。痛みで顔が白かった。
「いれば掛かってた。いないから掛かってない。……それだけ。あと二十日」
リーゼはその夜決めた。
掛かっていない人は、夜は壁の中で寝る。昼だけ畑に出る。ニコが畑まで送って、迎えに行く。
頑健のない人を、壁の外に夜置かない。
帳面に書いた。領主の留守の最初の決まりだった。
◇
十五日目。
カーラが北壁の上から言った。
「狼が増えてる」
ピムが岩場の手前まで行って戻った。狼が三十。群れが三つ、岩場で一緒になっている。
狼は群れ同士で一緒にならない。
「……何かが集めてる」
ニコが言った。槍を担いで北を見たまま。
「春だ。……あれが春に来ると言った」
リーゼは帳面の隅に「十五」と書いた。
消さなかった。
その夜、村長の家でハンスが火のそばに座っていた。
冬よりは起きている時間が長い。春だからだ、と本人は言う。
「……数えとるな」
「数えてない」
「帳面の隅に書いとる」
リーゼは帳面を閉じた。
ハンスは笑わなかった。
「二十年、わしも数えた。冬ごとに三十人を。……数えるのは村長の仕事だ。帳面係の仕事じゃない」
「帳面係よ」
「なら帳面係が村長の仕事をしとる。……それでいい。領主が戻るまで」
◇
二十日目。
夜、北の岩場に火が見えた。
冬の小さな赤い点ではなかった。岩場の中腹に、横に長く火が並んでいた。十。二十。
カーラが数えるのをやめた。
「……人の火だ。焚き火。陣を張ってる」
「人なら」
リーゼは言いかけて、やめた。
人なら、ではない。あれは、人の形をした人でないものが、人を使って張った陣だ。皮を裂かれたものが、言った通りに春に来た。
「門は閉める。夜は。……昼も開けるのは半分」
リーゼはニコを見た。
ニコは頷いた。何も言わなかった。言わないのがニコの返事だ。
◇
二十六日目の昼。
東の鷲の道から土煙が上がった。
カーラが叫んだ。「百、来る!」。
リーゼは帳面を置いて門に走った。走りながら、壁に立てかけてあった鍬を取った。研いでない鍬だ。研げないから。
門の前に立った。
鷲の旗の隣の、空いた柱の前で。腕を組んで。
土煙の中から旗が見えた。
王家の獅子。
一年前、同じ門に同じ旗を立てて、矢を向けた隊だ。
百人が門の前で止まった。
先頭の馬から男が降りた。髭の、四十がらみの隊長。
「辺境警備、第三隊。隊長、ヴォルフ」
男はリーゼを見た。鍬を見た。
「……王命によりグレイス領に駐屯する。領主殿は」
「王都。四日後に戻る」
「では四日待つ」
ヴォルフは懐から王の書状を出した。
リーゼは受け取って読んだ。王の印。三つの条件。領主が王に言った条件だった。
読み終えて、リーゼは顔を上げた。
「一年前、あんたたちはこの門に矢を向けた」
「……向けた」
「この壁に矢を射た人はいる?」
隊列の二列目で一人、咳払いをした。
ヴォルフは振り返らなかった。
「いる。……射た矢は全部壁で折れた。折れた矢を拾って持ち帰った者がいる。今も持っている。……二度と向けずに済むように、だそうだ」
リーゼは鍬を門の脇に立てかけた。
「条件は書状の通り。町の中には入れない。陣は壁の外。東の、畑より南。……水は分ける。井戸の水は朝と夕の二回。瓶を持って門まで来なさい。門の内側には入れない」
「夜の見張りは」
「そっちで。百人に槍がある。……この町の決まりは、掛かってない人を夜に外へ置かないこと。兵は人じゃなくて兵。掛かってなくても陣を張れるでしょ」
「……張れる」
「……入りたい者がいれば」
「名前と役割を言ってから。それを聞くのは領主の仕事。……領主が戻ってから」
ヴォルフは長いことリーゼを見ていた。
それから頭を下げた。兵の礼ではなく、ただの頭の下げ方だった。
「一年前と同じ門だ。……今度は矢ではなく、水をもらう」
「水は甘い。一年前より」
リーゼは門の内側に一歩下がった。
門は閉めなかった。開けたまま、百人を外に置いた。
◇
その夜、北壁の上にリーゼが登った。
帳面係が壁に登るのは初めてだった。
北に火が並んでいた。岩場の中腹。
南に火が並んでいた。第三隊の陣。
東に緑の線。見えないが、ある。
西に何もない。
隣でニコが言った。
「……四日だ」
「四日」
リーゼは帳面の隅を指でなぞった。「二十六」。
「早く帰ってきなさい。……百二十四人、いや、百五十四人。名前を知らない三十人をひと月持たせた。……持たせたのは私よ。あいつじゃない」
ニコは何も言わなかった。
言わないのが返事だった。




