第46話 王の耳
王都に着いて、六日目。
夜明けに南門区画に掛けた。五つ目だ。
帳面には、南門の向こうの百二十の名前。市場の露店主と、南門の衛兵と、壁際の長屋の子どもたち。ヴァンスの列が昨日一日で集めてきた。
掛ける前に全部読んだ。濃く染みた。
古壁の半分が切れなくなった。北門から東を回って南門まで。
◇
王宮の謁見の間は一年前と同じだった。
天井が高くて、床が冷たくて、俺の靴の泥が目立つ。
王、アルベルト。軍務卿、バルテン。それと、見たことのない肥った貴族。財務卿だという。
レオンが俺の隣に立っていた。銀の鎧。名前のある鎧で。
「古壁は半分まで来たそうだな」
王が言った。
「はい。あと五日で一周します」
「よい。……では、荒野の話を聞こう。手紙で読まんと言ったのはそのためだ」
俺は話した。
顔の思い出せない男。研ぎ屋への問い。嘘の名前。皮。炉で縮んで消えたこと。ヨナスの、二十年前の行商人。「春に、来る」。
王は途中で一度も口を挟まなかった。
レオンが続けた。黒い霧。剣を覚えていた声。「春に、北へ行く。泉を戻しに」。
謁見の間が静かになった。
「……二十年前と同じ道だな」
バルテンが低く言った。
「大侵攻はグレイス荒野を抜けて南へ来た。荒野に守る者がいなかったからだ。……今はいる。百二十四人と、切れない壁が。魔王軍はそれを知った」
◇
「荒野に兵を置く」
王が言った。
議論ではなかった。決定だった。
「バルテン。辺境警備から一隊」
「第五隊を。二百」
「待ってください」
俺は言った。
一年前なら言えなかった言葉だ。
「兵を置くなら、条件が三つあります」
王は眉を動かした。怒ってはいなかった。待っていた。
「一つ。隊は第三隊を。ヴォルフ隊長の百人を」
バルテンが顔をしかめた。
「第三隊はお前の町に矢を向けた隊だぞ」
「だから、です。……一度矢を向けた人は、二度目は向けません。ヴォルフ隊長がそう祈っていました。俺はその祈りを覚えています」
王が小さく頷いた。
「二つ。兵は町の中に入れません。壁の外に陣を張ってください。水と麦は分けます。でも、町は町です。指揮はヴォルフ隊長が。町の指図は受けなくていい。代わりに、町も隊の指図は受けません。……陣と町の間の話は、ヴォルフ隊長とニコで。ニコは元兵です。隊長の言葉が分かります」
「……三つ目は」
「兵が陣を抜けて町に入ってきたとき。……送り返しません」
謁見の間がもう一度静かになった。
「一年前、陛下と四つ目の取引をしました。来た人を送り返さない。……兵も人です。逃げた兵がノルドの門をくぐって、名前と役割を言ったら、その人はノルドの人です。王国の兵ではなく」
バルテンが何か言いかけた。
王が手を上げて止めた。
「……よい。三つとも」
王は俺を見ていた。
「第三隊は明日発つ。鷲の道で十日。……お前より先に着く。町の者に伝えておけ」
「はい。……リーゼが門で受け入れます」
◇
財務卿が前に出た。
「領主殿。陛下は荒野の功に報いるおつもりだ。伯爵の位と、王都に屋敷を一つ。……半年を王都で、半年を荒野で。付与術師ギルドの顧問として」
肥った貴族は羊皮紙を差し出した。屋敷の絵が描いてあった。立派だった。
「……お断りします」
「理由を」
「俺は百二十四人の名前を知っています。井戸と、畑と、壁と、門の名前を知っています。……その屋敷の名前は知りません。知らないものには掛かりません。掛からないものの中には住めません」
財務卿が口を開けた。
隣でレオンが鼻を鳴らした。
「……陛下。こいつは半分本気で言っています」
「半分は冗談です」
俺は言った。
「掛からなくても人は住めます。……住みたくない、と言うのが本当のところで」
王が笑った。一年前、ノルドの井戸端で笑ったのと同じ笑い方だった。
「……下がれ。領主殿は屋敷より井戸がいいそうだ」
財務卿が下がってから、王は机の上の箱を指した。
「ガルドの財産は没収した。横領した分は遠征費に戻した。……残りをグレイス領に送る。審問でそう決めた。償いだ。受け取れ」
「……受け取ります。鍬と麦に」
「好きにしろ」
◇
「もう一つ言っておく」
王は立ち上がった。
窓の外に古壁が見えた。北門から南門まで。半分がもう切れない壁だ。
「古壁が切れなくなれば、王都はお前なしで守られる。……だが、東の砦は? 南の港は? 次の壁は? お前が倒れれば、王国は切れない付与を二度と得られん」
王は振り返らなかった。
「王国の急所はもう王都ではない。お前だ。お前の町だ。……魔王軍が荒野を狙うのは泉のためだけではない。わしがお前に城壁を頼んだからだ。頼んだ分だけ、お前の町が狙われる」
俺は黙っていた。
分かっていた。
ラッセルで親方に言われた。切れない付与は、誰かを助けると誰かが困る。
王都の城壁は王都を助けた。困るのはノルドだ。
「……それでも掛けます」
「知っている。だから兵を置く。お前を守るためではない。王国を守るためだ」
バルテンが言った。
正直な言い方だった。俺はその正直さに頭を下げた。
◇
「それと、荒野の村長から伝言です」
帰り際に俺は言った。
「『二十年、荒野に役人を送って、戻ってきたのは一人だ』と。……意味は陛下が考える、と」
王は長いこと答えなかった。
「……七人だ」
やがて言った。
「わしが送った役人は七人。名前は一人も覚えておらん。知らずに送って、戻らんと言った。……お前は、出発の朝の百二十四人の名を全部知っていると言った。だから戻るのだな。荒野へ」
「はい」
「村長に伝えろ。……王は考えた、と」
◇
宿舎に戻ると、ヴァンスが帳面を広げていた。
西の一。明日の区画。守るものの名前がまだ半分だった。
「夜のうちに集めます」
ヴァンスはペンを置いた。机の縁と平行に。
「……それと、北門の詰所で聞きました。国境で捕らえた傭兵が取り調べで言ったそうです。『王都の壁は切れなくなった。北の連中はもう知っている』と」
四日前に掛けた壁の話が、もう北に届いていた。
道は両方向に通じる。




