第63話 取引はしない
四本目の線を引いてから、三十日。夏の盛りだった。
西の線の脇に小屋が四つ建った。ガロの仲間が二組と、線を見て来た一組。オルムの井戸の底には指二本分の水が溜まった。汲める量ではない。でも乾いてはいない。
五本目まで、あと十日ほど。
その朝、北の岩場に動くものがあった。
「一人だ」
壁の上でピムが言った。
「旗もない。馬もない。歩いてくる。……北の筋の上じゃない。線の上だ。緑の線の上を歩いてくる」
◇
人の形をしていた。
灰色の外套。杖も剣もない。顔は普通の顔だった。目が二つ、鼻が一つ。思い出せない顔ではない。見れば覚えられる顔だ。
門の前で止まった。
「泉を清めた男と話がしたい」
声も普通の声だった。
ヴォルフが弓兵に手で合図した。射つな、と。
カーラが壁の上で槍を構えたまま訊いた。
「名前は」
「ない」
男は答えた。
「名前は、ない。役割は、使者だ。……北の王の」
◇
嘘の名前には掛からない。
嘘をつかない名前のないものは、どうなのか。
俺は門の内側で考えた。カイは嘘の名前を名乗った。皮をかぶって、顔を思い出せなくして。
この男は違う。顔がある。名前がない、と正直に言う。
「開けてください」
俺は言った。
ニコが閂に手を掛けて、俺を見た。
「……門の外で話します。中には入れません。名前のない人は帳面に書けないので」
◇
門の外。
俺と、リーゼと、ニコ。壁の上にカーラとヴォルフ。使者は一人で立っていた。
「取引に来た」
使者は言った。
「北の王は、線を一本残してほしい。十二本のうち一本。黒いままで。……どれでもいい。北の岩場の裏へ向かう一本がいい」
「……理由は」
「道だ。王の軍は黒い筋を道にして荒野を渡る。十二本とも緑になれば荒野は渡れない。一本残せば一本の道が残る」
使者は俺を見た。普通の目で。
「残してくれれば、王は荒野を通らない。この町に手を出さない。線の人にも。王都にも。……一本の黒い道と引き換えに、十一本の緑と町を、王は認める」
取引だ。
王と取引をした。辺境伯と取引をした。鍛冶ギルドと取引をした。税は払わない。取引はする。この町はそうやって一年あまりやってきた。
条件は悪くなかった。
一本残す。残りの十一本は緑。町は無事。魔王は来ない。
「……一本残して、どうするんですか」
「道にする」
「道を通って、どこへ」
「南へ。王国へ」
使者は隠さなかった。
「荒野の向こうの土地へ。それは王の勝手だ。この町には関わりがない」
◇
関わりがない。
俺は王都の古壁を思い出した。十区画に不壊を掛けた。王都は切れない壁を持った。
切れない壁は、切れない付与を掛けた男がいる町を急所にした。魔王軍が来たのはそのせいだ。
一本残せば、魔王軍は荒野を通って南へ行く。古壁は持つ。でも古壁の手前の砦は持たない。鷲の道は持たない。ラッセルは持たない。
黒い道の先にあるものは、全部、名前を知っているものだ。
ヘルガの宿。モーリッツの炉。ベルンハルトの砦の門。
「断ります」
俺は言った。
「……残しません。十二本とも引きます」
「町が狙われるぞ」
「狙われています。もう」
使者は少しの間黙った。
俺の顔を見ていた。南へ、と聞いたときに俺の目が動いたのを、見ていたのだと思う。
「道が嫌なら、道にはせん」
使者は言った。
「条件を変える。二本残せ。王は荒野を通らず、道も使わん。ただ残すだけでいい」
「残すだけ」
「一本は道だ。二本は目だ。……王は十二本の筋で荒野を見ている。黒い筋の上は王に見える。全部緑になれば、王は荒野が見えなくなる。二本あれば見える。それだけだ」
魔物は黒い筋の匂いで荒野を渡る。去年の春、北の筋でそれを見た。筋が緑になれば匂いが消えて、魔物は道を見失う。線と線の間に道はない。水もない。十二本が緑なら、荒野は魔物が渡れない土地になる。
使者はそれを知っている。だから十二本目を渡したくない。道としてではなく、目として。
俺は答えに詰まった。
使わない道。残すだけの黒い筋。それで町が無事なら。
リーゼが一歩前に出た。
「取引はしない」
リーゼが言った。
使者ではなく、俺に。
「取引は名前のある相手とするものよ。辺境伯はハルトマン。王国の王はアルベルト。ギルドはモーリッツ。……帳面に書ける相手と、帳面に書ける条件で取引する。それがこの町のやり方」
リーゼは使者を見た。
「あんたの王の名前は」
「ない」
「あんたの名前は」
「ない」
「書けない。……名前があれば信用できるって話じゃない。書けない相手は、約束を破っても帳面に残らない。残らない約束は約束じゃない。……書けない取引はしない。帳面係として言う」
◇
使者は怒らなかった。
普通の顔で頷いた。
「ならば、王が来る」
それだけ言った。
「名前を取りに」
線の上を北へ歩いていった。緑の草の上を。振り返らなかった。
岩場の手前で、使者の姿が霧のように薄くなった。皮が裂けたのでも、霧になったのでもない。そこにいた、という感じが薄くなった。
「……ピム。見えますか」
「見えてる。歩いてる。……いや」
ピムは目を細めた。
「あいつの顔を、もう思い出せない」
俺も思い出せなかった。
普通の顔だった。目が二つ、鼻が一つ。それしか残っていない。カイのときと違う。カイは最初から思い出せなかった。今日のは、見ている間は覚えていた。いなくなってから消えた。
名前がないと、顔の置き場がないのだ。見ている間は目の前にある。目の前からなくなれば、しまう場所がない。
夕方、ヨナスが壁の下に来た。
使者の話を聞いて、黙っていた。
「二十年前の使者は名を名乗った」
老人は言った。
「名乗って、番人を渡せと言った。……今日のは名乗らんかった。渡せとも言わんかった。取りに来る、と言った」
「……違う相手ですか」
「違う。二十年前のは四天王の使いだ。今日のは、その上だ」
◇
夜、村長の家。
リーゼが帳面を開いていた。『使者』の頁を作ろうとして、書けずにいた。
「名前がない人は書けない」
リーゼが言った。
「名前がないものは掛からない。嘘の名前にも掛からない。……じゃあ、名前のないものから、この町をどう守るの」
「……分かりません」
「たぶん、じゃなくて?」
「分かりません。たぶんも言えない」
リーゼは帳面を閉じた。
「二本残せ、で迷ったでしょ」
「……迷いました」
「迷っていい。決めたのは私だから。……あんたは掛ける人。私は帳面係。書けない取引は帳面係が断る」
俺は砦の帳面を手に取った。三十の名前。毎晩読む帳面だ。
「名前を取りに来る、と言いました」
「取れるものなの」
「……オルムの名前は二十年残りました。石に彫ってあったから。呼ぶ人がいなくても」
俺は一行目を読んだ。砦の門。役割は、兵を通し、敵を止めること。
「呼ぶ人を取られたら、名前は残っても聞こえなくなる。……王は、たぶん、それを知っています」
「たぶん、二回目」
「はい」
リーゼは帳面に書いた。たぶん、二回。
それから、その下にもう一行書いた。
『北の王。名前なし。取引せず。』
「書けないけど、書いた」
リーゼが言った。
「断った相手の頁は要る。……帳面係の仕事」




