第6話 荒野狼の夜
ドルフの荷馬車が南へ消えた、その日の夜。
「荒野狼。群れで二十頭くらい。夜中に来て朝には帰る」
リーゼは鍬を握りながら早口で説明した。
「柵は北側が一番弱いの。二十年前に建てたきりで丸太は腐ってる。前回はそこを破られた」
「三人亡くなったと」
「ゲルトの弟と、マーサの旦那と、ミナの父さん」
俺は言葉を失った。
村の男たちが鍬や棒を手に集まってくる。女と子どもと老人は村長の家に押し込まれた。
全部で戦えるのは十人ほど。ゲルトは腰を押さえながら、それでも斧を持っていた。
「あんたは村長の家にいて。戦えないでしょ」
「……ええ。戦えません」
五年間勇者パーティにいて、俺は一度も剣を振ったことがない。
でも。
王都では五年間、言われたものに掛けるだけだった。剣を出されれば剣に、鎧を出されれば鎧に。何を守るかを自分で決めたことは一度もなかった。
ここでは決められる。
戦えなくても守るものを選ぶことはできる。
「リーゼ。北側の柵を見せてください」
◇
北壁、と村人は呼んでいた。
二十年前、大侵攻を生き延びた人々が最初に建てた壁。
丸太を並べて縄で縛っただけのもので、高さは俺の背丈の少し上。触ると湿って脆い。指で押すと木屑が落ちた。
「これじゃ狼の体当たり三回で崩れる」
「分かってる。木がないのよ、この荒野には。直したくても直せない」
俺は丸太に両手を当てた。
北壁。
村の人たちが生き延びるために最初に建てたもの。
役割は村を守ること。
「不壊」
光はない。音もない。
ただ、手のひらから、重く冷たい何かが丸太の芯へと沈んでいく。
──そして、止まらなかった。
一本の丸太に掛けたはずの付与が、縄を伝い、隣の丸太へ、さらに隣へ。北壁の端から端まで一気に走った。
「……今の、何?」
「分かりません。でもたぶん壁全体に掛かりました」
井戸も畑も、一つの名前で一つの対象だった。
北壁も何十本の丸太でできていようと、村人がそう呼ぶ限り一つの壁なのかもしれない。
リーゼが丸太を蹴った。
鈍い音がして、丸太は揺れもしなかった。
もう一度、今度は全力で。
「痛っ!!」
リーゼが足を押さえてうずくまった。丸太には傷一つついていない。
「……嘘でしょ」
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないわよ、足が」
俺は村を見回した。
「門は? 門にも掛けておいたほうが」
「門は南側。狼は北からしか来ない。二十年ずっとそう」
リーゼは足をさすりながらきっぱりと言った。
二十年の経験だ。俺は頷いた。
──それが間違いだったと知るのは、数刻後のことだ。
◇
月が昇った頃、来た。
地響き。
荒野の闇から、灰色の影の群れが北壁に殺到した。
最初の一頭が全体重を乗せて丸太に激突した。
──乾いた音がして、狼が弾き飛ばされた。
二頭目。三頭目。
同じだった。腐った丸太は鋼のように狼を弾き返した。爪を立てても食い込まない。噛みついても歯が立たない。
「……止まってる」
ゲルトが斧を構えたまま呟いた。
「二十年で初めてだ。北壁が狼を止めてる」
男たちの間から、押し殺した声が漏れた。
俺は息を吐いた。大丈夫だ。これなら──
そのとき、別の方向から音がした。
南。
村の門だ。
「……門!」
リーゼの顔から血の気が引いた。
狼の群れの何頭かが、北壁を諦めて回り込んでいた。
二十年、北壁が破れなかったことなど一度もない。破れない壁の前で狼は初めて別の道を探したのだ。
門は北壁の一部ではない。別の丸太で作った、別の名前のもの。
俺の付与は掛かっていない。
一頭目が門に激突した。閂が軋んだ。
二頭目。板が割れる音。
俺は走った。
足の筋肉痛が叫んだが構わなかった。
門の内側に手を当てる。板が震えている。向こう側で狼が唸っている。
横に大きな影が滑り込んできた。
ゲルトだ。門に背中を押し当て、両足を踏ん張る。腰を痛めてから走ったことなどなかった男が。
「……痛くねえ」
ゲルトが自分でも信じられないという顔で呟いた。
門。役割は──何だ。
閉めて狼を止めること? 開けて人を通すこと? 焦って言葉が出ない。
「リーゼ! この門の役割は!」
「開けて人を通して、閉めて狼を止める! それ以外にあるの!?」
それだ。
「不壊!」
三頭目が激突した。
──乾いた音。
門は揺れなかった。
割れかけていた板は割れたまま、びくともしなくなった。
◇
狼の群れは半刻ほど壁と門に体当たりを続け、やがて何頭かが足を引きずりながら荒野の闇に消えていった。
静寂が戻った。
夜明けが近かった。
十人の男たちは一晩中、鍬と棒を構えて立ち続けていた。誰一人座り込まなかった。前回の夜は半分が夜明け前に膝をついていたという。
村人は誰も声を出さなかった。
やがてゲルトが斧を地面に置いて北壁に歩み寄り、丸太に額を押し当てた。
「……弟よ。止まったぞ。やっと止まった」
リーゼだけがゆっくりと俺を振り返った。
「……あんた、本当に何者なの」
「付与術師です。地味なほうの」
「地味……?」
リーゼは北壁を見て、門を見て、もう一度俺を見た。
「あんたを追放した連中、正気?」
俺は答えなかった。
答える代わりに門の板を撫でた。割れたまま壊れない板を。
──俺は何もしていない。壁が頑張っただけだ。
本気でそう思っていた。
◇
同じ頃。王都ラグナ、冒険者ギルド前の広場。
「炎よ、宿れ!」
新しい付与術師ヴァンスが唱えると、勇者レオンの新しい剣が轟々と燃え上がった。
広場に集まった見物人から歓声が上がる。
「素晴らしい! これだ、これが勇者の剣だ!」
ガルドが満足げに手を叩いた。レオンも燃える刀身を掲げて笑っている。
「効果は三時間持ちます。毎朝掛け直しましょう」
「毎朝か。……前の奴は」
レオンは少し考えて、首を振った。
「いや、前の奴が掛け直しているところを俺は一度も見たことがなかったな。サボっていたのか」
ミリアは杖を握りしめた。
アレンは毎晩掛けていた。
みんなが寝静まった後、一人で、全員の装備を。
──知っていたのは彼女だけだった。
知っていて、言えなかった。
そして、それがどういう意味を持つのかまでは、彼女自身もまだ分かっていなかった。




