第5話 行商人ドルフ
俺がノルド村に来て、五日目の昼だった。
行商人の名はドルフといった。
六十に手が届こうかという、日に焼けた小柄な老人だ。痩せたロバに引かせた荷馬車には塩と油と、少しの麦と、安物の布。二十年間、月に一度この村に来ているのだという。
「……おい、リーゼ」
門をくぐったドルフは荷馬車の上で固まっていた。
「何よ」
「お前ら、何かあったか」
「何かって?」
「いや……」
ドルフは村を見回した。
広場を走り回る子どもたち。屋根に登って板を打つゲルト。井戸端で笑いながら洗濯をする女たち。
「先月までこの村は墓場みたいだったぞ。子どもは寝てばかりで、大人は誰も笑わんかった」
「水が変わったのよ」
「水?」
リーゼが桶を差し出した。
ドルフは怪訝な顔で受け取り、一口飲んだ。
そして桶を取り落としそうになった。
「……これ、どこの水だ」
「うちの井戸」
「嘘をつけ。あの苦い井戸か? わしは二十年あれを飲んで腹を壊し続けてきたんだぞ」
「本当よ。あの人がやったの」
リーゼが指差した先で、俺は筋肉痛の足を引きずりながら近づいていった。
◇
ドルフは俺の話を黙って聞いた。
付与術師であること。井戸に清浄を掛けたこと。たぶん切れないこと。
聞き終えるとドルフは何も言わずに立ち上がり、北の畑に向かった。
俺とリーゼも後を追った。
畑の隅の麦はもう腰の高さになっていた。三日前に撒いたばかりの種が。
ドルフは麦の前にしゃがみ、茎に触れ、葉を透かし、穂の膨らみを確かめた。長い時間そうしていた。
「……アレンさんと言ったな」
「はい」
「あんた、王都で何をしてた」
「勇者パーティで付与術師を」
「で、追い出された、と」
「はい」
ドルフは立ち上がり、腰を叩いた。
「あんたを手放した奴は商人なら三日で潰れとるよ」
◇
「水を、売る?」
村長の家でリーゼが眉をひそめた。
「そうだ」
ドルフは机に身を乗り出した。さっきまでの呆けた顔はどこかに消えて目が商人のそれになっている。
「王都の金持ちは『癒しの水』に金を払う。神殿が売っとる聖水だってただの井戸水に神官が祈っただけで銀貨一枚だ。それがこの水なら──」
「でも水を売るなんて」
「お前らは今、何で麦を買っとる」
「……銅貨をかき集めて」
「その銅貨を水で稼げる。悪い話か?」
リーゼは黙った。
俺は別のことが気になっていた。
「ドルフさん。水は運んでいる間に腐りませんか。王都近郊まで何日かかります?」
「樽なら七日。……腐るな。夏場は特に。それが水売りの一番の悩みだ」
「樽にも付与を掛けてみていいですか」
ドルフが荷馬車から下ろした空の樽に俺は手を当てた。
これは樽。役割はノルドの水を腐らせずに運ぶこと。
「清浄」
いつもの、染みていく感触。それだけだ。
「……何か変わったか?」
「見た目は何も。でもたぶん中の水は腐らないと思います」
「たぶん、か」
「俺の付与はたぶんばかりですみません」
ドルフは樽を叩き、匂いを嗅ぎ、しばらく考えてからにやりと笑った。
「よし。十樽持っていく。売れたら売値の三割をこの村に払う」
「五割」
リーゼだった。
「おい、リーゼ」
「水はうちの井戸のもので、樽が腐らないのはアレンのおかげ。あんたは運ぶだけでしょ。五割」
「運ぶのが一番危ないんだぞ。荒野を抜けて七日かけて」
「じゃあ四割。それと前金代わりに今日持ってきた塩と油と麦を全部置いていく。あと種麦を来月倍にして」
「……お前、本当に村娘か」
「村長の娘よ」
ドルフは天井を仰ぎ、それから笑い出した。
「四割だ。負けたよ」
◇
その日の昼、村の広場に大鍋が出た。
ドルフが置いていった塩と油を使ってリーゼが荒野草のスープを作ったのだ。
苦い草を井戸の水で煮て、塩をひとつまみ。油を数滴。それだけのものだ。
それだけのものに村人三十人が列を作った。
「……塩の味がする」
ミナが椀を両手で持って小さく言った。
「何か月ぶりだっけ」
「忘れたわよ」
リーゼは鍋をかき回しながらそっけなく答えた。
でもおかわりを求めて列に戻ってきた双子に、黙って多めによそっていた。
俺も一杯もらった。
苦くて、塩辛くて、油の匂いがした。王都で食べていたどんな料理より、うまかった。
◇
夕方十個の樽に水を詰め終えたとき、ドルフが言った。
「名前がいる」
「名前?」
「商品には名前がいるんだ。名前のないものは売れん」
俺は少し驚いた。
付与と同じだ。名前のないものには何も掛からない。
「……ノルドの甘水、とか」
リーゼがぼそりと言った。
「甘水か。悪くない」
ドルフは樽の一つに炭で大きく「ノルドの甘水」と書いた。
「癒しの水、とは書かないんですか」
「書かん」
ドルフは炭を置いた。
「効能なんぞ謳うと効かなかった奴に殴られる。『飲めば分かる』で売る。嘘をつかんのが長く売る唯一のコツだ」
翌朝、十樽を積んだ荷馬車は荒野の南へ消えていった。
「売れると思う?」
「分かりません」
「あんた、本当にたぶんと分かりませんばっかりね」
リーゼはそう言ったが、荷馬車が見えなくなるまで門の前から動かなかった。
◇
その夜。
荒野の闇の向こうから遠吠えが聞こえた。
一つ。
二つ。
リーゼの顔が強張った。
「……十日目ね」
「十日目?」
「狼が来るの。十日に一度。……前回は柵を破られて三人死んだ」




