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第4話 三十人の名前

 麦が芽を出した日の午後、村の子どもが一人熱を出した。


「ミナよ。十歳。……水が良くなったのに、どうして」


 リーゼが額の布を替えながら言った。

 藁の上で痩せた女の子が浅い息をしている。村に来た日、井戸の前で俺を見ていた子どもたちの一番年上の子だ。


「井戸の毒で出ていた症状は水が変われば消えます。村長の咳がそうでした。でもこの子の熱は毒じゃない」


 俺はミナの細い手首を見た。


「何年も弱った体がちょっとした冷えに負けているんです。水は毒を消しますが体力までは戻しません」

「……じゃあどうしようもないの?」


 俺は自分の手を見た。


 井戸に掛かった。畑にも掛かった。

 なら、人には?


 五年間俺が付与を掛けてきたのは道具だけだ。剣、鎧、杖。人に掛けるなんて考えたこともなかった。付与術の教本にも「対象は手で触れた道具」と書いてある。


 でも井戸も畑も、教本には書いていなかった。


「リーゼ。この子の名前は、ミナ。……役割は?」

「役割って……子どもよ。子どもに役割なんて」

「じゃあこの村で何をしている子ですか」

「……下の子たちの面倒を見てる。いつも。自分が一番小さいパンを取って」


 そうだ。

 村に来た日俺のパンを下の子に分けて、自分は一番小さいのを取った子だ。


 ミナ。

 この村で下の子たちを守っている子。


 俺はミナの額に手を当てた。


「頑健」


 光は出ない。音もない。

 手のひらから、温かい何かが小さな額に染みていく。


 一時間後、ミナの息が深くなった。熱はまだある。でも起き上がって水を飲みたいと言った。


 治したのではない。弱った体が自分で押し返し始めただけだ。たぶん。


 ◇


「全員に掛けて」


 リーゼの要求はそれだった。


「できるならやりたいです。でも」

「でも、何?」

「試してみたいことがあって」


 俺は村の広場に立ち、集まった村人たちに向かって手をかざした。


「ノルド村の皆さんに、頑健」


 ──何も起きなかった。


 手のひらにあの染みていく感触がない。空振りだ。


「……ダメですね」

「何がダメなの」

「名前を知らない人には掛からないみたいです」


 俺は自分の付与の条件を初めてはっきりと理解した。

 「対象の名前と役割を知ること」。

 井戸には井戸の、畑には畑の名前があった。ミナにはミナの名前と、下の子を守るという役割があった。


 でも「ノルド村の皆さん」は、俺にとってまだただの人だかりだ。

 顔も名前も知らない三十人に付与は届かない。


「じゃあどうするの」

「一人ずつ覚えます」


 ◇


 それからが長かった。


 リーゼに連れられて村の家を一軒ずつ回った。


 村長はハンス。リーゼの父。十年ぶりに自分の足で歩いた人。


 昨日畑で泣いた老婆はマーサ。大侵攻で娘を亡くし、二十年北の畑を見続けてきた人。


「あんた、麦の次は何をしてくれるんだい」

「何も約束はできませんが」

「約束なんかいらないよ。見てるだけで楽しいんだ、久しぶりに」


 屋根を直している大柄な男はゲルト。元は大工で、腰を悪くしてからは座ったまま板を削っている。


「腰にも効くのか、それは」

「分かりません。病気になりにくくなるだけで痛みが消えるかどうかは」

「分からんのに掛けるのか」

「はい」

「……変な奴だな、あんた」


 ゲルトは笑って額を差し出した。


 双子のトムとテオは俺の前で入れ替わった。


「俺がトム」

「俺がテオ」

「頑健」


 ──掛からない。手のひらにあの感触がない。


「……嘘をついた人には掛からないみたいです」

「えっ」

「えっ」


 二人は顔を見合わせ、おとなしく入れ替わり直した。

 今度は、掛かった。


 一人ずつ名前を聞き、何をしている人なのかを聞き、額に手を当てて「頑健」と唱える。

 それを、三十回。


 夕方には俺の足はがくがくしていた。

 付与そのものは疲れない。疲れるのは歩くことと、覚えることだ。


「三十人でこれなら百人になったら……」

「百人になる予定があるの?」

「いえ、たとえばの話です」


 リーゼが少しだけ笑った気がした。


 ◇


 最後の一軒は村の外れの小屋だった。


 中にいたのは痩せた老人だった。

 村の誰とも口をきかず、名前も明かさない。二十年前、どこかから流れてきてそのまま居着いたのだという。


「名前を教えていただけますか」


 老人は答えなかった。


「名前を知らないと俺の付与は掛からないんです。……無理にとは言いません」


 長い沈黙があった。

 俺は待った。リーゼも何も言わなかった。


 やがて老人はかすれた声で言った。


「……ヨナス」

「ヨナスさん。この村で、何を?」

「何も。……何もしておらん。二十年ただ生きておるだけだ」


 俺は少し考えてから言った。


「じゃあ、生きていること。それが役割です」


 ヨナス。

 二十年、この荒野で生きてきた人。


「頑健」


 温かい何かが皺だらけの額に染みていった。


 ◇


 村長の家に戻ったとき、日はとっくに暮れていた。


「これで三十人、全員」

「……二十九人よ」


 リーゼが腕を組んで俺を見ていた。


「あ」

「あ、じゃないわよ」

「すみません。えっと、リーゼ。……役割は」

「自分で考えなさいよ」


 俺は考えた。

 村のことを全部見ている人。父親の代わりに鍬を構えて、役人を追い返して、麦の畑を朝と夕に見に行く人。


 リーゼ。

 この村を守っている人。


「頑健」


 リーゼは目を閉じてしばらく黙っていた。


「……あったかい」

「はい」

「これ、ずっと続くの?」

「俺の付与は切れないので、たぶん」

「たぶんって何よ」


 ◇


 翌朝、俺は筋肉痛で動けなかった。

 付与術師が、筋肉痛で。


 そしてその日の昼。

 月に一度の行商人の馬車がノルド村の門をくぐった。


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