第44話 三百人の仕事
王都に着いて、三日目の夜明けだった。
二つ目の区画。東の一。
壁の下に二百人ほどが立っていた。昨日より百人少ない。来なかった百人のことは考えないことにした。
来なかった百人は東の砦の掛け直しに出た、とヴァンスが言った。王都の壁が切れなくなった分、ギルドは切れる壁に人を回し始めた。昨日の今日で、もう動いている。
白髪の男は来ていた。北門区画、三十年。壁に手を当てて、離して、また当てていた。
昨夜、ヴァンスの最後の付与が切れた。俺のは残った。三百人が夜明け前に北門の石を触って確かめたという。
「……東の一」
俺は壁に手を当てた。
古壁、東の一。役割は、王都の東を守ること。範囲は、鐘楼から東門の手前の井戸まで。
手を当てたまま、俺は止まった。
◇
「……この壁の向こうには、何がありますか」
ヴァンスに訊いた。
ヴァンスは羊皮紙を見た。十の区切りの絵。区画の名前と担当の名前。それだけだった。
「規定にはありません」
「東の一の三十人は」
二百人の中から一人、前に出てきた。赤ら顔の中年の男。
「東の一、十二年。……向こうは鍛冶の通りだ。炉が二十。革なめしの区。それと、孤児院が一つ。壁のすぐ裏に」
俺は頷いた。
もう一度、壁に手を当てた。
古壁、東の一。役割は、王都の東を守ること。鍛冶の通りと、二十の炉と、革なめしの区と、壁のすぐ裏の孤児院を守ること。
範囲は、鐘楼から東門の手前の井戸まで。
「不壊」
染みていった。
昨日より濃かった。重さは同じだ。でも、染みていくものが迷わなかった。北壁のときと同じだ。あのときも、壁の向こうに誰がいるか俺は全員知っていた。
オズワルドが隣で目を閉じた。
「……昨日より濃いな」
「向こうに何があるか聞いたので」
「それだけか」
「それだけです。……昨日は『王都の北を守る壁』でした。今日は『鍛冶の通りと孤児院を守る壁』です。役割が具体になった。……役割を具体に知っているほど濃く掛かる。たぶん、昔からそうでした。北壁のときは、壁の向こうの三十人を全員知っていたから気づかなかった」
◇
宿舎に戻ると、オズワルドが机に羊皮紙を広げていた。
ヴァンスがペンを持って隣に座っていた。
「三百人の仕事の話だ」
老人は前置きなしに言った。
「お前はノルドで、名前と役割を帳面に書く女を置いた。世話役、というそうだな。ヴァンスが五冊写してきた。……わしは昨夜、五冊とも読んだ」
「はい」
「城壁も同じだ。今朝、お前は鍛冶の通りと孤児院の名前を聞いてから掛けた。濃くなった。……なら、十区画全部にそれが要る。壁の向こうに何があって、誰がいるか。門と、通りと、家と、人の名前」
オズワルドはペンをヴァンスに渡した。
「付与術師ギルドの新しい規定だ。古壁の一区画ごとに、守るものの名前を帳面に書く。毎年書き直す。……人は変わる。生まれて、死んで、引っ越す。壁は切れんが、壁の向こうは切れる」
俺は老人を見た。
「……それを三百人が」
「掛け直す手は要らんようになった。名前を書く手は要る。……切れない付与は直す仕事を消す。だが、名前を知る仕事は消えん。知る相手が変わり続けるからだ」
「……三百人分になりますか」
「ならん」
老人は正直に言った。
「百人分にもならんかもしれん。帳面は年に一度でいい。……だが、ゼロではない。残りは王国の、まだ切れる壁だ。東の砦、南の港。掛け直しの仕事はそこにまだある。百人はもう砦に出た。……三百人の仕事が三つに割れる。それが今、わしに言える全部だ」
ヴァンスが羊皮紙に最初の一行を書いた。
『古壁、北門区画。守るもの:北門の衛兵詰所。鐘楼。……』
そこでペンが止まった。
「……私は五年、北門区画を掛け直していて、壁の向こうの通りの名前を知りません」
「なら、聞きに行け」
オズワルドが言った。
「それが仕事だ」
◇
ベルンハルトは首を振った。
ギルドの大広間。三百人の前で、オズワルドが新しい規定を読み上げた後だ。
「それは付与術師の仕事ではない。書記の仕事だ。……我々は術師だ。掛けるのが仕事だ。帳面を持って通りを歩いて、人の名前を訊いて回るのは違う」
静かな声だった。怒ってはいなかった。
三百人の半分が頷いた。
俺は壇の端に立っていた。言い返す言葉はなかった。
親方の炉で打つ、は、鍛冶屋の仕事だった。名前を訊いて回る、は、付与術師の仕事ではない。ベルンハルトの言うことは正しい。
ヴァンスが壇を降りた。
羊皮紙の束を抱えて、大広間の扉のほうへ歩いた。
扉の前で振り返った。
「私は東の一の鍛冶の通りへ行きます。炉が二十。名前を二十、聞いてきます。……規定通りの字で書きます」
誰も動かなかった。
それから白髪の男が立ち上がった。北門区画、三十年。
「……北門の衛兵詰所の衛兵の名前なら知っとる。三十年、毎朝挨拶した」
男はヴァンスの後ろに並んだ。
赤ら顔の男が続いた。東の一、十二年。「孤児院の院長はわしの従妹だ」。
若いのが三人。五人。十人。
列ができた。
ヴァンスが先頭に立っていた。規定通りに、まっすぐ。
ベルンハルトは動かなかった。
でも、止めもしなかった。
◇
その夜、ヴァンスが羊皮紙を一枚、机に置いた。
東の一。鍛冶の通り。炉が二十。名前が二十。それと、孤児院の院長と子どもが十一人。
「……鍛冶屋に、何のために訊くのかと言われました」
「何と答えましたか」
「壁があなたを守るために、と。規定通りに」
ヴァンスはペンを置いた。机の縁と平行に。
「一人、笑いました。『壁が俺の名前を知るのか』と。……笑って、それから、子どもの名前も書いていけと言いました。三人」
二十三の名前の下に三つ、字が小さくなっていた。急いで書き足した字だ。規定の字ではなかった。
◇
四日目、東の二。五日目、東の三。
掛ける前に帳面を読む。守るものの名前。通りと、井戸と、家と、人。
ヴァンスの列が集めてきた名前だ。一区画に一日で百の名前。字はみんな規定の字だった。
濃くなった。
一区画ずつ濃くなった。
オズワルドは毎朝、隣で壁に手を当てた。
五日目の朝、老人は手を離して言った。
「……端がないだけではないな。向こうに誰がいるかで濃さが変わる。教本にそんなことは一行も書いとらん」
「俺も今週知りました」
「六十年、知らんかった。……書き直す本が分厚くなる」
◇
五日目の夕方、北門の衛兵が宿舎に走ってきた。
「前線からお戻りです。……勇者殿が」
北門の外に一騎。
銀の鎧。腰に古い剣。鎧にはまだ名前がなかった。




