第43話 一区画ずつ
王都に着いた、翌日の夜明けだった。
北門の前に三百人が立っていた。
灰色のローブ。付与術師ギルドの規定の服だ。五年間、俺も着ていた。三百人が三百のローブで、北門の区画の下に黙って並んでいた。
一番前に、背筋のまっすぐな男。
副ギルド長、ベルンハルト。
「来たか」
それだけ言った。
敵意はなかった。あったのは目だ。三百の目が全部、俺の手を見ていた。
◇
ヴァンスが壁の下で、砂時計を持って立っていた。
一晩そこにいたらしい。目の下が黒かった。
「夜半に掛け直しました。規定通り。……私の付与は今夜切れます。最長で一日」
俺は北門の石に手を当てた。
あった。
ヴァンスの付与だ。薄くて、几帳面で、端がある。今夜の夜半でほつれる。五年間、毎朝この壁に掛かっていたものと同じ。
俺の付与はその上に重ねる。
端のあるものの上に、端のないものを。
「……重ねます。ヴァンスさんのが切れるとき、俺のが残ります。それで、切れたかどうかが分かる」
「明日の朝、三百人が触って確かめます」
◇
オズワルドが隣に来た。
老人は俺の手の横に自分の手を置いた。皺だらけの、乾いた手。
「触らせろ、と言った。……いいな」
「はい」
俺は壁を見た。
古壁。王都の人がそう呼ぶ壁。
その北門区画。三百人のうちの三十人が、三十年、毎朝毎晩その名前で呼んできた区画。
役割は、王都の北を守ること。
範囲は、北門の左の塔から、東の一との境の鐘楼まで。それだけ。それ以上は明日。
声に出して決めた。
ヴァンスが鐘楼を指した。リーゼが水路の端を指したのと同じように。
「不壊」
光は出ない。音もしない。
手のひらから、何かが石に染みていく。
重かった。
北壁の何十倍。一区画で、泉の東の一本に届くかどうか。
染みていくものが石の中を、塔から鐘楼へ走っていく。範囲は決めてある。鐘楼で止まる。止まるまで出ていく。
膝が笑った。
倒れなかった。隣でオズワルドが、壁に手を当てたまま俺の肩を掴んでいたからだ。八十の老人の手が、思ったより強かった。
「……来た」
オズワルドがかすれた声で言った。
「端がない。……わしの手の下を通っていった。向こうへ。止まらん。六十年、一度も触ったことのないものが」
老人は壁から手を離さなかった。
離さないまま目を閉じていた。
◇
三百人は動かなかった。
ヴァンスが砂時計を伏せた。砂が落ちた。落ち切った。もう一度伏せた。
三度目で、ヴァンスは砂時計を置いた。
「……測定の意味がありません。端がないものに砂時計は要らない」
羊皮紙に書いた。「対象:古壁、北門区画。術式:不壊。持続:端なし」。几帳面な字で。
ベルンハルトが前に出た。
壁に手を当てた。
長いこと動かなかった。それから手を離して、俺を見た。
「三十人だ」
静かな声だった。
「北門区画の三十人の、明日の朝の仕事が、今消えた。……このまま十日で十区画なら三百人だ。あんたは三百人の飯を消しに来た」
俺は何も言えなかった。
ラッセルの会館と同じだった。
モーリッツ親方の言葉と同じ。切れない付与は、直す仕事を二度と戻さない。
親方には答えがあった。打つ仕事は消さない。
ここにはまだ答えがない。城壁は打たない。掛け直すだけだ。掛け直す仕事が仕事の全部だ。
「……すみません」
「謝るな」
ベルンハルトは首を振った。
「答えも要らん。今は。……見た。それだけだ。明日も見る」
三百人の中から一人、前に出てきた。
白髪の、俺の父親くらいの年の男。ローブの袖が擦り切れていた。
「北門区画、三十年」
男はそれだけ名乗った。
「明日の朝、わしは何をすればいい」
俺は答えられなかった。
ベルンハルトも答えなかった。オズワルドが壁に手を当てたまま、目を開けて男を見た。
「……分からん」
老人が言った。線を引いた日と同じ言葉だった。
「分からんが、明日の朝もここへ来い。壁に触れ。……それから考える」
◇
三百人が散っていった。
黙って。一人ずつ。
散りながら、何人かが壁に手を当てた。歩きながら、触れて、離して。
触れた人はみんな同じ顔をした。驚いた顔ではない。困った顔だ。王都で俺が五年間していた顔。
ヴァンスが最後まで残っていた。
「私もその三百人でした」
壁を見たまま言った。
「北門区画。五年。……今夜、私の最後の一回が切れます。切れたら、あなたのが残る。明日の朝、三百人がそれを触る。……それが私の見たかったものです。消される側が何を消されるのか」
「……何を消されましたか」
「仕事を。……それから、たぶん、何かもう一つ。まだ名前が付いていません」
ヴァンスは砂時計を荷に戻した。規定の位置に。
◇
膝がまだ笑っていた。
宿舎に戻って昼まで寝た。オズワルドが「一日一つだ。夜は寝ろ。十日目に倒れたら、わしが背負えん」と言った。
残り九区画。
九日。
◇
──これは、俺が王都にいる間のノルドの話だ。後でリーゼから聞いた。
東の線に種が撒かれた。
ヴィムとアンナ、ヨルクとリタ。バルドの二十本の鍬。泉から鷲の道の口まで、緑の線の両脇を細長く耕して、北の畑の麦を撒いた。線は、腰の高さの草の中に黒い土の帯が二本添うようになった。
鷲の道から人が来た。
十日で十二人。春だった。道が通った。
夕方の列は続いていた。
ベルタが名前を言う。本人が役割を言う。そこで終わりだ。誰も額に手を当てない。
「……付与は?」
十二人のうちの一人が訊いた。
リーゼは帳面を閉じて言った。
「ひと月後。領主が戻ったら。……それまで、頑健が掛からなくても暮らせる人だけ残りなさい。暮らせるわよ。この村は二十年そうだった」
誰も出ていかなかった。
リーゼは帳面に十二の名前を書いた。掛かっていない十二の名前を。
帳面は百三十六。掛かっているのは百二十四。




