第42話 古壁
ノルドを出て、十日目の昼だった。
王都ラグナが見えた。
街道の先に灰色の壁。高くて、古くて、どこまでも長い。王都をぐるりと一周している壁だ。歩けば半日かかる。
一年と少し前。俺はあの壁の北門から、辞令一枚を持って出た。
今度はくぐって入る。
◇
北門の前に、白木の杖を持った女が立っていた。
隣に腰の曲がった老人。
「お帰りなさい、アレン」
ミリアが言った。
俺は少し考えてから答えた。
「……ただいま、ではないです。来ました」
「……そうね。来てくれて、ありがとう」
ミリアは訂正を受け取った。一年前なら受け取らなかった言い方だった。
老人が杖で地面を突いた。
オズワルド。八十の、王立付与術師ギルド長。教本の一行目に自分で線を引いた人。
「弟子にはなれんのだったな」
「はい。すみません」
「なら隣で触らせろ。……お前が壁に手を当てるとき、わしも隣で壁に手を当てる。端がないものが染みていくところを、この手で確かめる。それくらいはいいだろう」
「はい。それは」
オズワルドは鼻を鳴らした。
それから北門を見上げた。
「さて、領主殿。……この壁の名前を言えるか」
◇
壁の名前は二つあった。
一つは正式な名前だ。『ラグナ王家大城壁』。王の印章にも、ギルドの規定にも、そう書いてある。
もう一つは、王都の人が呼ぶ名前だ。
「古壁」
ミリアが言った。
「子どもの頃からそう。『古壁の向こうに行っちゃ駄目』『古壁の下で待ち合わせ』。……正式な名前を言う人は見たことがない」
「規定では『王都城壁』です」
ヴァンスが言った。
「規定の名前で掛かりますか」
「……掛かるかもしれません。でも」
俺は壁に手を当てた。
冷たい石だ。何百年分の、雨と、煤と、人の手の跡。
「呼ぶ人がいない名前は一つになりません。鷲の道も、ばあちゃんの井戸も、そうでした。……この壁を古壁と呼ぶ人が何万人もいる。それがこの壁の名前です」
オズワルドが隣で壁に手を当てた。
二人で石の壁に手を当てて立っていた。北門の衛兵が変な顔で見ていた。
「……で、どうだ」
「……大きすぎます」
正直に言った。
古壁。役割は、王都を守ること。
名前と役割は分かっている。でも、手を当てた瞬間に分かった。これは新畑の五倍どころではない。百倍、二百倍。北壁の千倍。
範囲を決めずに掛ければ、力が尽きるまで広がって、広がった分だけ薄くなる。薄い不壊は不壊ではない。
範囲を決めても、一周を一度に掛ければ、泉の東の一本の何倍だ。一日半では起きない。
「一度には掛かりません。……掛ければ倒れます。たぶん、二度と起きません」
「そうか」
オズワルドはがっかりした顔をしなかった。ゲルトと同じ顔だった。
「なら、分けろ。……ヴァンス」
「はい」
ヴァンスは五冊の帳面とは別の、薄い羊皮紙を広げた。古壁の一周の絵。十の区切り。
「ギルドでは古壁を十の区画に分けて、掛け直しの担当を置いています。北門区画。東の一、東の二、東の三。南門区画。西の一、二、三。北の一、二。……三百人が三十人ずつ、十区画を」
「……十区画」
「区画の名前はギルドの規定です。でも、三百人が三十年、毎朝毎晩その名前で呼んできました。……呼ぶ人はいます」
俺は羊皮紙の十の区切りを見た。
三百人が仕事のために付けた名前。
その名前で、俺はその仕事を消す。
「十日で十区画。……一日に一つ」
「明日から十日。……王都に十日、規定通りです」
◇
宿は王宮ではなく、付与術師ギルドの宿舎にしてもらった。
王宮は、王が「屋敷を用意した」と言ったが、断った。断った理由をミリアには言わなかった。ギルドの宿舎なら、三百人が俺の顔を見られる。それだけだ。
夕食はミリアが神殿の食堂に案内した。
王都のパンは白かった。ふわふわで、軽くて、甘かった。砂糖の甘さだ。
一口食べて、俺は黙った。
「……どう?」
「うまいです」
「嘘」
「……ノルドのほうがうまいです」
ミリアが笑った。一年前、ノルドの井戸端で見た笑い方と同じだった。
「言わされましたね」
ヴァンスが横で言った。
「規定通りです」
◇
食堂を出ると、神殿の前の通りに樽が積んであった。
炭で「ノルドの甘水」。一年前、ドルフが王都まで足を延ばして売った水だ。今は月に一度、ラッセルの商人が運んでくるという。樽の前に列ができていた。
誰も俺を見なかった。
樽の名前は知っていても、掛けた男の顔は誰も知らない。王都はそういう町だ。五年、そうだった。
「レオンは前線から戻る途中よ」
ミリアが歩きながら言った。
「王の許しが出て、五日後に着く。……鎧の名前をひと月考えてるって。手紙にそれしか書いてなかった」
「……まだ決まっていないんですか」
「決まったとは書いてなかった」
ミリアは少し笑って、それから笑うのをやめた。
「王は六日目に会うと言っています。城壁が半分近くまで進んだところで。……財務卿が屋敷の話を持ってくると思う。断るなら先に言っておく。断っても誰も怒らない。私がそうしておいた」
「……ありがとうございます」
「一年前の償い。それだけ」
◇
宿舎の窓から古壁の北門が見えた。
夜の壁は黒かった。衛兵の松明が点々と。
明日の朝、あの北門の区画に掛ける。三百人が見ている前で。
懐の揚げ団子を一つ食べた。冷えて固かった。脂の味がした。
隣の部屋からヴァンスが出てきた。
外套を着て、砂時計を一つ手に持っていた。
「……どこへ」
「北門です」
ヴァンスは廊下の壁と平行に立っていた。
「北門区画の担当は三十人です。区画を三十に分けて、一人が一か所、毎朝、毎晩。私はその一人でした。私が荒野にいたひと月あまりは、二十九人で三十か所を回していたそうです。……今朝の分も、もう誰かが掛けています」
「……では」
「規定では、今朝まで北門区画は私の担当でした。明日の夜明けにあなたが掛ける。……その前に、もう一度だけ。私の持ち場の一か所を、私の手で。最後の掛け直しに」
俺は何も言えなかった。
「五年間、二千回。……一度も切れていないところを見たことがない仕事を、最後に、規定通りに」
ヴァンスは頭を下げて、階段を降りていった。
窓の外で、北門の衛兵の松明が一つ増えた。




