第41話 ひと月の支度
泉を清めてから、百二十日目。出発の朝だった。
夜明け前に広場に列ができた。
夕方の列ではない。朝の列だ。百二十四人が全員並んでいた。
「……何ですか、これ」
「見送り」
リーゼが帳面を抱えて言った。
「じゃなくて。留守の間の確認。全員の前で一度言っておく。……あんたが自分の口で」
◇
留守の仕組みは三日前に決めてあった。
リーゼの帳面に書いてある。
ベルタが列を続ける。新しく来た人の名前と役割を、本人が決めたら帳面に書く。世話役を付ける。付与は掛からない。俺がいないから。
カーラが壁。ニコが町。ピムが北。リーゼが帳面。
俺が戻ったら、帳面の順に一人ずつ掛ける。
「……名前を知らない人が、ひと月、町にいることになります」
「知らないんじゃない。帳面にある。知るのがひと月遅れるだけ」
リーゼは帳面を叩いた。
「十一日の留守で四人溜まった。三十日なら十人か二十人。……鷲の道が通ったから、もっとかも。春だし」
「掛かっていない人が二十人」
「掛かっていなくても人は生きてるのよ。あんたが来る前、この村は三十人、二十年掛かってなかった」
俺は黙った。
その通りだった。
「不壊の壁と門と屋根がある。頑健の百二十四人がいる。……ひと月なら持つ。持たせる。それが帳面係の仕事」
◇
百二十四人の前で、俺はそれを言った。
リーゼの帳面に書いてある通りに。自分の口で。
誰も何も言わなかった。
言い終わると、マーサが布に包んだものを俺の懐に押し込んだ。揚げ団子だった。
「王都の飯はまずい」
「……行ったことがあるんですか」
「ない。でも、まずい。甘水で練ってないパンは、どこのでもまずい」
ハンスが杖をついて、列の前に出てきた。
冬の間、昼にも寝ていた老人が、今朝は立っていた。
「領主殿。……王に一つ伝えてくれ」
「はい」
「二十年、王都はこの荒野に役人を送った。厄介払いだ。お前の前に七人。みんな冬の前に逃げた。王都に戻ったかどうかは知らん」
老人は杖に体重を預けた。
「お前は八人目だ。……八人目で、王都に『戻る』一人目だ。領主として。『二十年、荒野に役人を送って、戻ってきたのは一人だ』と王に言ってやれ。意味は王が考える」
◇
近衛の十騎は、日が昇ってすぐに来た。
馬車が二台。鷲の道を通ってきた王家の馬車だ。獅子の紋章が扉に彫ってある。
隊長は、五日前に手紙を届けたあの騎士だった。
「お迎えに上がりました。領主殿」
ヴァンスが五冊の帳面を油紙に三重に包んで、馬車に積んだ。規定の位置に。
俺の荷物は、揚げ団子と、着替えと、リーゼが持たせた帳面の写しが一冊。「数を間違えないように」と言って。
門の横で、リーゼが腕を組んで立っていた。
鷲の旗の隣の、空いた柱の前で。
「三十日」
「三十日」
「……鍬は研いである」
「研げないはずですが」
「気持ちの問題」
馬車が東へ動き出した。
振り返ると、リーゼはまだ門の前に立っていた。百二十四人の一番前に。
◇
鷲の道は本当の道になっていた。
石の道が馬車二台の幅で東へまっすぐ。ブルーノの人夫たちはもういない。道の脇にところどころ、石を積んだ目印が立っていた。
口を過ぎたのは二日目の昼だった。
口で、緑の線と石の道が出会っていた。
泉から東へ来た線が、石の最後の一列のところでぴたりと止まっている。線の端と道の端が同じ場所にあった。俺が名前で決めた端だ。
「……届いていますね」
ヴァンスが馬車の窓から線を見ていた。
「測定済みです。三日歩きましたから」
◇
ラッセルに着いたのは四日目の夕方だった。
近衛の馬車は速い。宿場ごとに馬を換える。
鷲の巣亭の戸口に、ヘルガが腰に手を当てて立っていた。
その後ろからヤンが顔を出した。
「また来た」
「また来ました」
裏庭の井戸は甘かった。ヤンが一杯すくって俺に差し出した。春の水は冬より少し冷たかった。
ヴァンスが井戸に触れて「測定済みです」と言った。ヘルガが「何だいこの人」と言った。
「クルトのことだけどね」
ヘルガは桶を回しながら言った。水売りのクルト。井戸が甘くなって仕事を失った男。
「荷車で甘水を売ってる。うちの井戸の水を樽に詰めて、街道の工事場と鷲の道の口まで。人夫は川の水より甘水を買う。……あたしが考えた。後で」
「……後で考えたんですね」
「言ったろう。困った奴のことは後で考えるって。考えたよ。クルトは前より稼いでる。文句を言われる筋合いはない」
俺は桶の水を飲んだ。
後で考える、は、考えない、ではなかった。この人は本当に後で考えた。
◇
市場に鍬が並んでいた。
刃にギルドの金槌の印。柄に「ノルド」。二つが並んだ鍬だ。「折れぬ鍬 銀五」の札の横に「鍛冶ギルド検め済み」の札がもう一枚。
検めはやらないと言っていた。
「検めという名の印だ」
モーリッツ親方が屋台の脇に立っていた。
残った指で鍬を叩きながら。
「通行料は取っとらん。印だけ押した。わしの顔が立つ」
「……百本は」
「三日で売れた。次は二百本だ。打つ手が足りん。……研ぎ屋のガイルの倅を二人、炉に入れた。打つほうを覚えさせる」
親方は俺を見なかった。鍬を見ていた。
「十年後は分からん。あんたがそう言った。……十年後に分からんなら、今打つ」
それだけ言って、親方は通りの向こうへ戻っていった。
ヴァンスが横で羊皮紙に何か書いた。覗くと「ラッセル。鍛冶ギルド。研ぎ屋の子二人、炉へ」とあった。規定にない記録だった。
◇
ラッセルを出て、王都への街道に入った。
荒野が遠くなった。
馬車の中で、ヴァンスが五冊の帳面の上に手を置いて言った。
「王都で一つ、先に言っておきます」
「はい」
「古壁の北門の区画。……城壁の掛け直しは、区画ごとに担当が決まっています。北門の区画は五年間、私の担当でした。毎朝、夜明けに」
ヴァンスはまっすぐ前を見ていた。
「あなたが最初に掛けるのは北門の区画です。……あなたが最初に消すのは、私の仕事です」




