第40話 雪解け
初雪から三か月。泉を清めてから、百十日目の朝だった。
雪が消えた。
最後の雪が三日前の雨で溶けて、荒野は赤茶けた地面に戻った。水路は春の水で溢れそうだった。井戸の横の溜まりに、子どもたちがまた裸足で入っていた。
北壁の上に、俺とリーゼとヨナスが並んだ。
東を見た。
線があった。
泉から東へ。赤茶けた荒野の上に、細い緑の線が一本。まっすぐに、見えなくなるまで。腰の高さの草が朝の風で波のように揺れていた。
南の線と、泉のところで角を作っている。
「……二本」
リーゼが言った。
「残り十本」
「十本です」
「一本にひと月の間。昼寝の一日半もその中。……十本で十か月」
リーゼは帳面を開いた。開いただけで書かなかった。
「春の種を東の線に撒く。ヴィムとアンナと、ヨルクとリタ。バルドの鍬が二十本」
「はい」
「線の先は鷲の道の口。……道と線がつながったのね」
ヨナスが東を見たまま、何も言わなかった。
老人は目を細めて、ずっと線の先を見ていた。二十年前には荒野全部がこうだった場所を。
◇
ドルフの荷馬車が来たのは、その三日後だった。
五台。ロバの息はもう白くなかった。
「春一番の便だ。……鷲の道が通った。ラッセルから五日」
ドルフは荷台を叩いた。
「鍬、百本。モーリッツの炉で打った。刃に金槌の印、柄に『ノルド』。……親方が『掛けて持って来い。検めはせん。一年は』だとさ」
百本の鍬が広場に並んだ。
ノルドの鍬と同じ形をしていた。でも、鉄の色が少し違った。バルドが一本を手に取って長いこと見た。
「……いい鉄だ」
それだけ言って、置いた。
百本。一本ずつ。
一本、手に取る。柄の「ノルド」に指を当てて、刃の金槌の印を見て、掛ける。置く。次を手に取る。
これは鍬。役割は、ラッセルの畑を耕すこと。
名前は一つずつ同じだ。でも、一本ずつ別の鍬だ。北壁のように、百本を一つの名前で呼ぶ人はいない。呼ぶ人がいないものは一つにならない。
三日掛かった。手のひらが三日、温かかった。
ヴァンスが横で百回、羊皮紙に書いた。「対象:鍬。術式:不壊・鋭利。持続:端なし」。百行、同じ字で。
「……ヘルガの井戸は」
「甘い。ヤンが『また来る?』と毎日わしに訊く」
「親方の炉は」
「七本のまま。減っとらん。増えてもおらん」
ドルフは煙草に火をつけた。
「それと、二人乗せてきた。鷲の道の人夫だ。道ができたんで仕事がなくなった。……ブルーノが『ノルドなら名前を訊いてくれる』と言ってよこした」
夕方の列で二人掛かった。
百二十四人。
◇
王の使いが来たのは、鍬の三日目の夕方だった。
近衛の騎士が一騎。獅子の紋章を今度は隠していなかった。
門の前で馬を降りて、俺に王の手紙を渡した。
短かった。王の手紙はいつも短い。
『約束のひと月だ。五日後に近衛十騎を迎えにやる。鷲の道を通って、王都まで馬車で十日。王都に十日。帰りに十日。……城壁は待っている。アルベルト』
「……五日後」
「はい。辺境伯の道が通ったと聞いて、陛下が日取りを早められました。春のうちに城壁を、と。……近衛の馬車です。宿場ごとに馬を換えます。乗合の倍は速い。鷲の道を使えば十日で着きます」
騎士は俺の後ろの広場を見た。百本の鍬がまだ並んでいた。
「それと、陛下はこう仰せです。『顔の思い出せない男の話は、手紙では読まん。本人の口から聞く』」
俺は息を吐いた。
冬の間に、カイの件を手紙で王都に送ってあった。ドルフの便に託して。信じてもらえるかどうか分からなかった。
「……話します。王都で、俺が」
◇
その夜、村長の家でハンスが起きていた。
冬の間、昼にも寝ていた老人が、火のそばに座って俺とリーゼを見ていた。
「リーゼを連れていけ」
ハンスが言った。
「王都にひと月。帳面係がおらんと、お前は数を間違える。……それに、娘に王都を見せてやりたい。わしは見たことがない」
「父さん」
「連れていけ。領主殿」
リーゼは帳面を閉じた。
「行かない」
即答だった。
「私が行ったら、町を見る人がいなくなる。ベルタは列、カーラは壁、ニコは町、ヴァンスは……王都に帰る。帳面を見る人がいない」
「リーゼ」
「父さんが冬に寝てた間、誰が百十八人を数えてたと思ってるの」
ハンスは黙った。
それから少しだけ笑った。
「……そうか。お前が村長か」
「帳面係よ」
リーゼは俺を見た。
「ひと月。……ひと月で帰ってこなかったら、鍬で迎えに行く」
「鷲の道を歩いて?」
「ドルフの馬車で」
リーゼは帳面を膝に置いた。
「十日の約束で十一日かかったわよね。……今度は三十日で三十日。数えるから」
「数えないって、前に」
「数えるって言ってる」
◇
ヴァンスは王都まで同行すると言った。
「規定上、ギルド長への報告は口頭と書面の両方です。書面は帳面の写しが五冊。……口頭は私が」
春の間に、ヴァンスはベルタの帳面を五冊写し終えていた。百二十四人の名前と役割と世話役。規定の字で。
「それと、もう一つ」
ヴァンスはペンを置いた。規定通りに、机の縁と平行に。
「あなたが城壁に掛けるとき、隣で測ります。三百人の前で。……三百人に、測ったものを見せます。それが私の、消される側としての仕事です」
◇
出発の五日前の夜、俺は壁に登った。
東に緑の線。南に水路の湯気。北に黒い岩場。
岩場は冬の間ずっと静かだった。カイと名乗ったものが北へ逃げてから、火も足跡もない。
春に来る。
そう言った。春はもう来ていた。来ていないのは、まだ向こうだけだ。
ひと月、ここにいない。
百二十四人の名前を知っている人間が、ひと月ここにいない。
「……戻ります」
誰にともなく言った。
三十日で。鍬で迎えに来られる前に。
◇
──同じ頃。王都ラグナ、王立付与術師ギルドの大広間。
俺の知らないところで起きていた話だ。
三百人が集まっていた。
城壁の掛け直しを、毎朝、毎晩、五年、十年、三十年。その三百人だ。
壇の上にオズワルドが立っていた。
隣にもう一人。五十がらみの、背筋のまっすぐな男。副ギルド長、ベルンハルト。
「ひと月後、アレン・グレイが来る」
オズワルドが言った。
「王との約束で城壁に掛ける。……一区画ずつ。十日で十区画」
ざわめきが広間を満たした。
ベルンハルトが片手を上げた。ざわめきが止まった。
「ギルド長は教本の一行に線を引かれた。私はそれに反対しなかった。……だが、線を引いた理由は、一人の男の話と、一人の女の杖だ。それだけだ」
ベルンハルトは三百人を見渡した。
「アレン・グレイの付与をギルドの目で検証する。城壁の一区画で。……三百人の目で、だ。三百人の仕事が消えるのなら、三百人が消えるところを見る。それが筋だ」
誰も反対しなかった。
オズワルドも。
第四章完。第五章「王都のひと月」は明日7:10から。




