第39話 嘘の名前
ヴァンスが来てから十日。泉を清めてから、九十五日目の夕方だった。
五人はヴァンスの翌日の朝に門に着いた。
老夫婦と若い夫婦。鷲の道沿いの、ラッセルの手前の村から来たという。「畑が辺境伯の街道になった」と老人が言った。道が通れば畑が消える。ドルフの言った通りだった。
四人とも膝まで濡れて、靴が凍っていた。ヴァンスと同じ、雪の薄い筋を三日歩いた足だった。
それから、もう一人。
背の高い男。口から辿ってきた、と言った。四人とは口で一緒になったという。
その男の靴だけが濡れていなかった。気づいたのは後になってからだ。
十日待った。役割は本人が決めるまで待つ。
その十日、俺は五人目の男の顔を毎日見た。
毎日見て、毎日思い出せなかった。
◇
「……あの人」
列の前でリーゼが小さく言った。帳面を開いたまま。
「十日、毎日見てる。窯小屋で隣に座ったこともある。……今、顔が浮かばない」
「俺もです」
「ベルタも言ってた。帳面に名前は書いたのに、どの人だったか列を見ないと分からないって」
ベルタの帳面には五人の名前が書いてあった。
老夫婦はヴィムとアンナ。若い夫婦はヨルクとリタ。役割は四人とも春の東の畑。世話役はオットーとグレタ。
五人目。
カイ。役割、猟師。世話役、ピム。
ピムが自分から手を挙げた。「猟師なら俺が見る」と。
◇
列が始まった。
ベルタが名前を言う。本人が役割を言う。俺が額に手を当てる。
ヴィム。掛かった。アンナ。掛かった。ヨルク、リタ。掛かった。いつもの感触だ。手のひらが少しだけ温かい。
五人目が前に立った。
背が高い。俺より頭一つ。外套のフードを今日は下ろしている。
顔を見た。目が合った。
見ているのに見えなかった。目があって、鼻があって、口がある。それが顔にならない。砂に書いた字を、書いた端から風が消していくみたいに。
「カイ」
ベルタが名前を読んだ。
「役割は」
「猟師」
男が言った。低い声だった。北の訛り。
「十日、猟に出た。狼を二頭担いで帰った」
ピムが列の横から言った。世話役として。
「腕は本物だ。……それだけは」
役割は本人が決めた。猟師。それは嘘ではない。
俺は額に手を当てた。
カイ。役割は猟師。
ノルドの町のカイ。
「頑健」
──何も染みなかった。
手のひらが冷たいままだった。何かが出ていって、どこにも入らず、空に散った。
新畑の西半分でもない。「ノルド村の皆さん」でもない。あのときは、薄く掛かるか空振りだった。これは空振りとも違う。
弾かれた。
「……」
俺は手を離した。
一年前の夕方が頭に浮かんだ。来た日の三十人の列。トムとテオが名前を入れ替えて並んだ。「テオ」と呼んで「トム」に掛けようとして、掛からなかった。
嘘の名前には掛からない。
役割は本物だった。なら、嘘は名前のほうだ。
「……名前が違います」
列が静かになった。
男は笑った。
市場で振り返ったときと同じ笑い方だった。思い出せない顔の中で、笑い方だけが思い出せた。
「名前ならカイだ」
「それは、あなたの名前じゃない」
「なら」
男は一歩近づいた。
「お前が付けてくれ。名前と役割を。……そうすれば掛かるんだろう」
◇
ニコの槍が男の喉元で止まった。
いつの間にか、ニコは列の横にいた。槍を水平に。
男は動かなかった。槍の先を見もしなかった。俺だけを見ていた。
「鍬には掛かった。井戸にも、壁にも、人にも。剣にも掛かると聞いた。……名前と役割があれば。そうだな」
「……誰に聞きました」
「研ぎ屋。女将。鍛冶の親方。道の人夫。……この町の百十八人。みんなよく喋る」
男の声はずっと穏やかだった。
「泉を清めたのもお前だな。南と、東と。……北はまだだ」
ニコの槍が動いた。
男の体がない。
槍の先が空を突いて、男は三歩後ろにいた。三歩が一瞬だった。人の足の動き方ではなかった。
それから男は北壁へ走った。
壁を登った。
熊が登った壁だ。人は梯子がなければ登れない。男は梯子を使わなかった。両手と両足で、五つ数える間に壁の上にいた。
振り返って、一度だけ俺を見た。
思い出せない顔で。
壁の向こうに消えた。
◇
「追う」
ニコが言った。ピムがもう弓を背負っていた。
「岩場だ。足跡が終わってた、あそこへ戻る。……あいつの巣だ」
「夜の雪の中を」
「雪は薄くなった。それに、あれは人じゃない。人なら昼に追う」
リーゼが俺の袖を掴んだ。
何も言わなかった。行くな、と言わなかった。言わなくても分かった。
「……行きません。俺が行っても掛からないので」
二人が門から出ていった。
月の下の雪に三つの影が北へ伸びていった。一つは二人よりずっと先を、ずっと速く。
◇
二人が戻ったのは翌日の昼だった。
ピムが先に門をくぐった。弓の弦が切れていた。
ニコが後から。槍の穂先が黒く汚れていた。血ではなかった。血は赤い。
ニコは布に包んだものを広場に置いた。
開いた。
皮だった。
人の皮。背の高い男の、背の高さぶんの。顔のところに目と鼻と口の穴が開いている。中身はない。
顔は今でも思い出せなかった。皮だけになっても。
「岩場で追いついた」
ニコが言った。
「槍が背中に届いた。……刺さらなかった。皮が裂けた。布みたいに。中から黒いのが出てきた。人の形で、人じゃない」
「黒いの、は」
「岩場の北へ。……追えなかった。速い。熊より、狼より」
ピムが切れた弦を見た。
「三本当てた。三本とも通った。……向こう側へ。影を射たみたいに」
ピムは切れた弦をしばらく握っていた。
銅級の斥候が、荒野熊にも王国軍にも見せなかった顔だった。
◇
「……二十年前」
ヨナスが皮を見下ろして言った。
老人の声は低かった。
「大侵攻の半年前。村に行商人が来た。塩と針を売った。三日いて、北へ去った。……誰も顔を覚えとらんかった。あのときは誰も気にしなかった」
マーサが口を押さえた。
「……半年後に来た」
ヨナスは頷いた。
「先に見に来る。道と、水と、人を数えて。それから来る」
◇
皮は炉に入れた。
バルドが火箸で押し込んだ。燃えなかった。炎が皮を避けた。霧が剣を避けるように。
ただ、火の中で黒く縮んでいった。炭にも灰にもならず、小さく、小さくなって、火の底に消えた。燃えたのではない。縮んで消えた。
リーゼが帳面を開いた。
「百二十二人。……五人目は数えない。名前は消す」
「……十日、いました」
「分かってる」
リーゼは一行、線を引いた。震えない線だった。
その夜、ニコが壁の上で言った。
俺にではなかった。北に向かって言っていた。
「……皮を裂いたとき、あれは喋った」
「何と」
「『北は、切れない付与を知った。泉を清めた男のことも』」
ニコは槍を握り直した。
「『春に、来る』と」
◇
人の皮をかぶったものが、人の名前を名乗った。
嘘の名前には掛からない。
「あんたの付与が見抜いた」
リーゼが隣に来て言った。
「違います。……見抜いたんじゃない。掛からなかっただけです」
「同じことよ」
「同じじゃありません」
俺は自分の手を見た。
百二十二人に掛かった手だ。井戸に、畑に、壁に、泉に掛かった手だ。
カイと名乗ったものには掛からなかった。掛からなかったから分かった。それだけだ。
付与は守るためのものだ。
見抜くためのものじゃない。
でも。
見抜けたのは、たぶん、これが最初で最後だ。次に来るものは名前を名乗らない。
軒から滴が落ちていた。
夜なのに落ちていた。雪解けが始まっていた。
春はそこまで来ていた。
南からも、北からも。




